第19話 温泉保養センター

 時刻は正午前だった。

 菅根すがね温泉保養センターという看板を見かけた時は、地獄に仏とはまさにこのことかと思った。

 駐車場に『日帰り温泉』『遍路さん大歓迎』などの文字が躍るのぼりが、ずらりと立ち並んでいた。


 昨夜、遍路Xを目撃してから、僕の頭は恐怖に支配されていた。

 日中、遍路道を歩いていても、手首をぶら下げた女遍路がいつの間にかひたひたと並走しているような気がして、何度も何度も振り返った。


 夜は一睡もできず、東屋の隅でただ震えていた。

 夜が明けると、鉛のように重くなった身体を引きずって僕は必死に歩いた。朝が来れば歩かなければならない。

 歩き遍路としての義務感だけで前に進んでいた。

 もう帰りたい。そう思い始めた時に見つけた温泉の看板だった。


 自動ドアを抜けるとこじんまりとしたロビーが広がっていた。

 数人の老人たちが、ソファに腰掛けてくつろいでいた。穏やかな雰囲気に、ふっと緊張した神経がほぐれていくのを感じた。


 受付には三十代ぐらいの女性が座っていた。

 僕が近づくと、彼女はこちらを一瞥して軽く会釈をした。

 入浴料450円を払おうと財布を出した時、


「歩いて巡っちゅうがかえ?」


 突然声をかけられた。

 振り向くと、恰幅の良い老人が隣に立っていた。


「あ、はい」僕が戸惑いながら答えると、老人の顔がパッと明るくなった。


「見上げたもんやなぁ、若いのに。なぁユイコちゃん」上気した顔をニコニコさせながら受付の女性に話を振る。


「本当にねぇ」ユイコちゃんと呼ばれた女性は下駄箱の鍵を老人に渡しながら軽く答える。


 常連らしき老人は腹をボンボンと叩き「ああこの兄さんの入浴料は儂が」


 そう言ってカウンターにチケットを一枚置く。


「あっえっ、あのう……」


 まごまごしてる内に「なーに遠慮しやーせきね。こういうお接待も高知にゃあるちや。道中気ぃ付けてなぁ」


 紳士は高笑いを残して去っていった。


「こちらがタオルです。ごゆっくり」受付の女性が小さく笑む。


 丸みのあるショートヘアが、通りがかりに何度も見たお地蔵さんに見えた。


 まさか入浴代金をサービスしてもらえるとは夢にも思わなかった。

 久方ぶりに人と話し、その優しさに触れて僕は胸が一杯になる。


 温泉の湯は遍路Xの恐怖をゆっくりと溶かした。

 菅根温泉は、僕を救ってくれたと言っても過言ではない。再び歩き出すエネルギーを補充してもらえたのだ。


 翌日、室戸岬の先端に位置する四国霊場第二十四番、最御崎寺ほつみさきじを打った時は、太平洋を一望できる絶景を楽しむ余裕もできていた。


 僕は石段に腰を下ろし、眼下に見える駐車場を眺めながら、疲れた足を伸ばしていた。

 人々を吸い込んだ観光バスが、ちょうど出発するところだった。霊場は近づくにつれ、人の密度が濃くなるものだ。


 深く息を吐き出す。遍路Xへの恐怖は完全には消えていないが、進んでいける気がしていた。


 なぜか先ほど見かけたペンションを思い出していた。

 山肌に立つ洒落たペンションだった。白壁がキラキラと輝いていて、新しさが際立っていた。立て看板には「1997年3月10日オープン!」と書かれており、ちょうど今月開店したばかりの宿だと分かった。

 荒涼とした遍路道に独特の調和を生み出していた。その新しさは、僕の中で不思議な希望を抱かせた。


 キヨからポケベルのメッセージを受け取ったのはそんな時だった。


 最御崎寺近くのコンビニをあとにして、さらに次の第二十五番、津照寺しんしょうじも打ち終わって、田舎の小さな郵便局の日陰で休憩しているところだった。

 温泉保養センターの電話からキヨに『ヘンロX ミタ』と送信していたので、それに対する反応を期待したが、彼からの返信は予想外のものだった。


『ハンニン ミッケ』


 思わず、えっと声を上げる。

 ハンニン? 一体どういうことだろう。

 僕は自販機で買ったお茶をぐびりと飲む。


「ハンニンミッケ……?」


 記憶が蘇る。

 過去に同じ文言を見たことがある。


 やがて、それが何を意味しているのかを察する。

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