第18話 実在した女

 庭さんと別れてから二日が経った。

 夕暮れ時、僕は今夜の野宿場所を探していた。

 海からの潮風が頬を撫で、遠くには波の音が聞こえる。

 オレンジ色に染まった空の下、疲れ切った足を引きずりながら歩いていると、道端に潰れた商店を見つけた。軒先には、錆びたベンチが一台ポツンと置かれていた。


 雨が降っても凌げるし、ベンチなら地面よりはましだ。今夜の宿と決め、ベンチにリュックをドサリと置いた。


 いよいよ遍路Xが出没するとされるエリアに足を踏み入れている。


 この日の前日、見つけた東屋に一人寝袋を敷いたが、緊張感も相まってほとんど眠れなかった。

 緊張感の原因は、小人さんから聞いた例の遍路Xの話だ。覚悟は決めたものの、やはり怖い。女遍路が襲って来ないかと気が気でならなかった。

 疲労が溜っている。


 時刻は夕方5時。

 太平洋に沈む夕日を眺めていても、あまり感傷的な気持ちにはならない。

 布団で寝たいとか、暖かいうどんが食べたいとか、そんなことしか思い浮かばない。少し前までは、歩いていると余計な雑念が削ぎ落とされていくなどと悟ったようなことを感じていたのに、一皮むけば欲望丸出しだ。


 雨で色が剥げ落ちたベンチに座り、賞味期限の切れた食パンをかじる。

 もう少し進めば、もっといい寝床があるかもしれないという期待は持てない。なぜならここから先はなだらかな直線が続き、道の先まで見通すことができる。


 数十メートル先、山側の一角に、四角い建物が見える。

 道沿いに立つ低層マンションほどの建物を、工事現場にあるようなバリケードがぐるりと囲っている。

 どうやらそれは、潰れたパチンコ屋のようだった。

 バリケードの中から、ところどころ木々が頭を覗かせていて、かなりの時間の経過が窺える。廃業してずいぶん経っているようだ。


 先にあるのはそれだけだった。他にはなにもない。

 あとは、左手に海、右手に山肌という道がダラダラと続く。

 僕は潔く、今夜の寝床はこの古びたベンチと決めた。


 白衣を洗う元気も湧かず、ベンチ脇の壊れたピンク電話に乱暴に引っ掛けて汗だけを乾かす。

 もしこの電話が今いきなり鳴り出したら怖いな……などと、こんな時に限って愚にもつかないことを考えてしまう。

 このまま起きていても、きっとろくなことを考えないだろう。


 僕はベンチを店のシャッターにピッタリと寄せ、背もたれの背面が車道側に向くように回転させた。

 これで外から見ても人が寝ているとは判断しにくいだろう。

 その上に寝袋を敷き、枕元には百均で購入した果物ナイフを防犯用として置く。

 Tシャツに着替えて早々に寝袋に潜り込むと、いつの間にか寝入っていた。


 ふと目を覚ますとあたりは真っ暗だった。

 打ち寄せる波の音だけがザァザァと響いている。

 街灯一つない夜の海。潮の香り。

 背中に感じる固さからベンチを寝床にしたことを思い出す。


 浅い眠りのまま、薄っすらと目を開けていた。星も見えない夜空だった。

 このまま夜の闇に吸い込まれていっても、誰も自分のことなど覚えてないような気がした。

 孤独が迫ってくる。


 作家の顔が浮かんだ。庭さんは今、どの方面にいるのだろう。


 昼間、アスファルトに金剛杖を打ち鳴らしながらずっと考えていた。別れ際、庭さんに言われた「くれぐれも気をつけて」の言葉の意味を。

 もちろん遍路Xのことを言っているのだろう。

 遍路Xは必ず深夜に出るらしい。そして歩き遍路を襲う。

 野宿が最も危険だというのなら、中止して宿に泊まればいい。安全地帯に身を置けば遍路Xに遭遇することはない。


 だが一方で、それならどうして四国までやってきたのだという根本的な問いにぶち当たる。

 ここまできてなぜ避ける。

 遍路Xを見に来たのにそれをわざわざ避けて、一体自分は何のためにここに来たのかという虚しさが募る。

 怖いことには違いない。だがこの目で見たい欲求はある。その二つがせめぎ合う。


 宿に泊まるという考えが現実的でない理由は他にもある。

 高知の海沿いには、そんなに都合よく宿は点在していない。一日歩き終わった地点にちょうど泊まれる宿があるということはまずない。

 さらに宿泊費の問題。こっちの理由の方がずっと大きい。

 毎晩宿に泊まったら、多分一週間ほどで財布は空っぽになってしまう。結願するよりも先に予算オーバーだ。


 結局、このまま野宿を続けながら遍路道を行くしかない。そう腹をくくっている。

 後悔したくなかった。

「逃げた」とか「挑戦しなかった」という思いを自分の中に残したくない。


 高校を卒業する時に残ったあのモヤモヤとしたわだかまり。進路の決まった同級生たちを尻目に、僕は受験もせず、就職活動もせず、ただ後悔だけを募らせた。

 自分の中に空っぽの領域を増やすこと。それだけは絶対に避けたかった。


 遍路Xを見るのだ。これは僕にとって、あの時の後悔を埋め合わせる挑戦なのかもしれない。

 僕は寝転んだまま、睨むように夜空を見上げていた。


 ふと、キヨはどうしているだろうかと考える。

 無事に遍路道を進んでいるだろうか。

 彼とはポケベルで時々連絡を取り合っている。道端に公衆電話があればメッセージを送る。


 交わすのは、

『ケ゛ンキカ?』『ケ゛ンキ』

『アルイテルカ?』『アルイテル』

 といった他愛のないものだ。


『ヒ゛ールノミタイ』とか『クーラーアヒ゛タイ』とか、およそ遍路らしからぬ欲望メッセージが送られてきて、クスリとさせられることもある。

 だけど無事を知るとやはり安心するものだ。


 今朝方、古びた釣具店の脇にあった公衆電話から『サッカニアッタ』と送ると、昼過ぎに『スゴイ!』と返ってきた。

 タイムラグがあるのは仕方がない。

 メッセージを受信しても、返信する環境にないことがほとんどだ。

 たった数文字のやり取りだが、キヨも後から同じルートをついてきてくれていると思うと心が楽になる。


 今、頭上にあるピンク電話は壊れていて、残念ながらその役目を果たすことはない。


 夜風が頬を撫でた。尿意を覚えて、僕はむくりと上半身を起こす。

 朝まで我慢できそうもなかった。


 リュックからポケベルを取り出し時刻を確認すると深夜の2時半だった。

 寝袋から這い出し、ペンライトの照明を頼りに店の裏手に回る。草むらを分け入って進んでいく。

 木陰に隠れ、ライトを口にくわえるとチャックを下ろした。


 波の音に混じってジーッジーッという虫の音が聞こえる。立ち小便に抗議する声のようだった。

 チャックを上げて草むらから抜け出した時、波の音と虫の音がやんだその一瞬の隙間、聞きなれない音を耳が捉えた。


 ペ タ 。


 僕は動きを止める。


 ペ タ、 ペ タ……。


 波の音が薄っすら聞こえてくる。その隙間に。


 ペ タ ペタ ペタ。


 音が近づいてくる。

 近い。


 ペタペタ、ペタペタ。


 道路を歩くような足音。


 僕はペンライトを点けたまま、建物の陰に隠れる。そこから車道を窺う。

 僕が来た道。徳島の方に目を転じると、何かいる。動いている。

 街灯のない細い道。白い何かがいる。僕はじっと目を凝らす。

 それは人影だった。


 冷水をぶっかけられたように、全身を鳥肌が走り抜ける。

 反射的にペンライトの明かりを消した。


 ペタペタペタペタペタ。


 裸足の足音。白衣だ。歩き遍路だ。

 僕は唾を飲む。


 ペタペタペタペタペタペタペタ。


 遍路がこちらに向かって歩いてくる。

 僕は建物の陰に隠れてじっとそれを見ている。

 腰まで届きそうな長い髪の女だった。

 競歩のような歩き方で道を進んでくる。

 こんな深夜に女が一人で。


 ペタペタペタペタ。


 女が僕の目の前を通り過ぎていく。

 その距離約5メートル。身長170センチの僕よりも大きい。

 こちらには気付いていない。

 その刹那、すーっと首をこちらに向けてきた。

 思わず息を止める。


 視界を右から左に女が通り抜けて行く。

 顔が見えた。女は俯きがちに微笑を貼り付けていた。まるで仮面のようだった。

 通り過ぎる彼女の姿に釘付けになる。

 皺の感じから若くはない。かといって老婆でもない。

 右腕は強く振っているのに左腕は一切動かさない奇妙な歩行フォーム。呼吸も聞こえない。


 息を詰めてそれをじっと見ていた。彼女の左手に目線を移した時、叫び声をあげそうになる。

 何かを握っていた。

 あれは、まさか。

 白く、細い、人間の手首。


 人間の手首を握っている。


 ざっと全身の血の気が失せた。頭の中で警報が鳴り響く。隠れろ。声を出すな。

 意識に反して、顎がカタカタと鳴る。


 闇の中を白衣の白と手首の白が、ふわふわと揺れている。

 僕は震える手で口元を押さえつける。

 叫び声を上げるな。声を出すな。ぎっと歯を食いしばる。


 どれくらいそうしていただろう。

 冷や汗が背中を伝う。しばらく立てずにいた。


 トトトトト。

 軽妙なエンジン音で現実に引き戻された。

 軽トラックがゆっくり通り過ぎていった。


 ドッと疲労感が身体にのしかかってきた。

 あの女遍路……。あれは遍路Xだったのだろうか。

 多分そうなんだろう。

 すべての話の辻褄が合う。本当に存在したのだ。


 まんじりともせず朝を迎えた。

 本来ならばこのまま遍路道に復帰して、早朝の涼しい内に距離を稼ぐのが歩き遍路の理に適ったやり方だ。

 だけど――。

 身体以上に、心が動かなかった。

 これから行く先の道は女遍路が行った先だ。どうにも一歩が出ない。

 女が握っていた白い手首が頭から離れない。奴は誰かを、殺したのだろうか。


 それにしても、もしあのままベンチで眠っていたら自分はどうなっていたのだろう。

 女遍路は気づいたかもしれない。だとすると僕はひょっとして……。

 考えただけで戦慄が走る。

 尿意のおかげで九死に一生を得たのかもしれない。


 結局11時ぐらいまでベンチに座り込んだまま無為に過ごした。

 誰かを待っていたのかもしれない。誰でもいい。人に会いたかった。だがこんな時に限って遍路は誰もやって来ない。通行人などもちろんいない。


 時々車が走り去っていく。歩き遍路にとって車はしょせん別世界の存在だ。車で一時間で行ける距離を、歩き遍路は三日間かけるのだ。


 僕は重い身体をベンチから引き剥がし、再び遍路道に出る。

 金剛杖をガツンとつく。

 杖に印字された同行二人を睨むように見た。

 この時ほど、お大師さんを頼ったことはないかもしれない。


 僕は、遍路Xが行った道を歩き出した。

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