第16話 ウイスキー
「あ、そうだ、森沢くん。これはイケる口?」
庭さんが自分の荷物からウイスキーのボトルを引っ張り出してきた。
「いえ僕はお酒は飲めなくて……」
「それは残念」
言うと、瓶に被せていたプラスチックのコップをくるっとひっくり返し、トポトポとウイスキーを注いだ。
「ご
寝袋の上で座禅を組んでいた巡礼者が顔を上げる。
さすがに飲まないんじゃないかなと僕は思ったが、意外なことに小人さんは自分のキャリーの中からマグカップを引っ張り出し「かたじけない」と頭を下げた。
お遍路だからといって飲酒が禁止されてるわけではない。
喫煙もそうだ。職業遍路さんは休憩所でよくタバコを吸っている。
小人さんは啜るように一口飲み、目の周り一杯にしわを寄せた。
「美味いもんですな」ボソリと感想を述べる。元々好きなタイプなのかもしれない。
庭さんが嬉しそうにさらに注ぐ。
二人はしばらく他愛もない雑談を続けていたが、やがて庭さんが、
「ご先達。少し歩き遍路さんのことをお聞きしてもよろしいですか?」
本題を持ち出した。
小人さんは少し赤くなった顔を作家の方に向ける。
酒をご馳走になった手前、断るのは野暮だと考えたかもしれない。もしくは庭さんの策略だったのかもしれない。
「最近この辺りで、歩き遍路さんが行方不明になってるという噂話を聞いたのですが……」
「行方不明、ですか……」
小人さんの顔がかすかに強張った気がした。
「すいません……。あまりそういう噂には
「ご友人が急に居なくなったとかそういう話は聞きませんか?」
小人さんはコップの中に目を落とした。
「長いこと歩き遍路をやっていると、いつのまにか誰かと会わなくなるというのは日常茶飯事です。あんまり考えないようにしていますがね」
言って、ぐっとコップを
「私はそのために四国を巡り、祈っているような気がします」
その気持ちはほんの少しだけ理解できた。
考えないようにするために歩く。でも人間というものは不思議な生き物で、考えないでいようとすればするほど考え込んでしまうのだ。
「では、遍路Xというのは聞いたことがありますか?」
作家の唐突な質問に僕はギクリとした。
「なんです?」と小人さんが庭さんを見る。
「遍路X。人間の手首を集めて回る背の高い女だそうです。そうだよね?」こちらを見る。
作家は、僕から今聞いた話を早速取材の種火として使おうとしている。
ただニュアンスが少し違う気がした。手首を集めているとは言っていない。少し居心地が悪くなる。
庭さんは僕のそんな心境を気にした風もなく、ズケズケと切り込んでいく。
「ご先達、何かご存知ですか?」
小人さんはしばし考え込むような素振りを見せると、
「遍路Xというのは知りませんが、近い噂話は少し……」
その言葉に、東屋の空気がピリッと張り詰めたように感じた。
「ほう」
その巡礼者は、周囲を確認するように視線を巡らせると、声を落として言った。
「ここ最近、背の高い女遍路が歩き遍路を襲っていると聞きます」
僕と庭さんは顔を見合わせた。
「本当ですか……?」
作家はまるで鉱脈を掘り当てたように目をキラキラとさせていた。
「あの……、襲っているというのは具体的にどういうことですか?」小人さんのコップにウイスキーをトプトプと注ぎ足す。
「さぁ……、そこまで詳しくは知りませんが」
信じられない気持ちだった。
遍路Xの存在が現実味を帯びてくることに、恐怖と興奮が入り混じった感情が湧き上がってきた。
キヨから聞いた噂話が本物になろうとしている。
この年季の入った遍路氏の言う通りなら、背の高い女遍路は遍路Xのことではないか。
小人さんが続ける。
「ともかく、そういう女遍路はいるようですな。私は実際に見たことはありませんが、噂話だけは何度か耳にしました。共通点は、深夜高知の海沿いの遍路道に出没すること、そして歩き遍路を襲うということです」
手首を持ち歩く噂については「分からない」ということだった。
時子お婆さんは、遍路Xは人間の手首を持ち歩いていたと証言したが、それは襲った遍路のものだと考えるのは、さすがに飛躍し過ぎだろうか。
「女遍路が出没するという場所は、具体的にはどこです?」
「この先に室戸岬がありますが、そのあたり一帯です」
時子お婆さんが実際に遍路Xを見た場所であり、かつ、久保川老人が言う歩き遍路が消息を絶った場所でもあった。
見事なまでに情報が一致する。
僕は唾を飲んだ。
本当は心のどこかで、遍路Xなんて存在しないと高をくくっていた。しょせん噂だと。
なぜなら、これまでの経験からそういう噂話が本当だった試しがないからだ。河童もUFOも実在したことはなかった。
だけど小人さんの証言で、それがにわかに現実味を帯びてくる。
「あなた方は、その女遍路に接触しようとしているのですか?」
小人さんの質問に庭さんが僕を見る。こちらの返事も待たず「はい」と答える。
「やめた方がええ」小人さんが間髪入れずに言った。
「長年歩き遍路をやっとりますが、正直、私自身もこンな得体の知れン噂は初めてです」
「初めて、ですか」
「そうです。ですんで私も、できるだけ高知は早う通り抜けるように心がけています。老婆心ながら、あンた方もそのようにすることをおすすめしますね」
先達の言葉遣いにいつの間にか方言が混じっている。
作家は苦笑いを浮かべて頭をボリボリとかいた。
僕は先達の言葉を受け、自分の心の中にじわじわと不安が広がってくるのを感じていた。
その不安は、これまで経験したことのない種類のものだった。
遍路Xの存在を信じたくない理性と、それを認めたい気持ちが激しくぶつかり合っていた。
改めて、自分は今遍路道を歩いていることを思い知る。
そしてこれから高知の海沿いを歩く。当然ながら、遍路Xの出現地帯を歩いていくことになる。
僕は純粋に、遍路Xに会いたいと願っている。それは間違いない。だけど一つだけ、重大な思い違いをしていたのかもしれない。
あたかも動物園の檻に入った猛獣を見るように、僕は、安全地帯からの観測を期待していた。だけど自分が歩き遍路として参加する以上、それはあり得ないことだ。
自分自身も檻の中にいる。
なんとも間の抜けた話だが、今更ながらにそれに気がついた。そしてこの認識が、僕の中で恐怖と興奮を増幅させていく。
「もう一杯ええですかな」
「え? ああ、どうぞどうぞ。結構イケる口ですね」庭さんは小人さんのコップになみなみと継ぎ足す。
ウイスキーの瓶は、いつのまにか半分ほどにまで減っていた。
気づけば、小人さんは顔を赤くしてトロンした表情をしていた。
「ご先達、大丈夫ですか?」
「あんたらは、一体、その女遍路をどうしようとしとるんや?」
男の言葉遣いはぞんざいになり、はっきり関西弁に変わっていた。
「いえいえ、どうもしないですよ」
「危害、加えるつもりなんか?」
「そんな滅相もない」
先達が急にこちらを向く。
「おい、君はなんで遍路に出とるんや?」
「えっ」
「スタンプラリーで回るバス遍路みたいに、物見遊山気分なんか? ああ? 歩き遍路のことがおかしいんか? ああ?」
「いえ、と、とんでもないです」
「君のような腰掛け遍路は、結局儂ら歩き遍路を影で馬鹿にしてるんやろうが! ほんまに……」
男の声が突如として高くなった。その目は赤く、僕を睨みつけるように見つめていた。
「儂はなぁ、一人の男として、この道を選んだんや!」
コップの酒を水のようにゴクゴクと飲む。
「あの、先達、色々とありがとうございます。とてもいいお話を聞かせていただいて感謝しております」庭さんがすかさず助け舟を出してくれた。
「今夜はそろそろお開きということにしようかと……」
「ああ~ん? あんた、そう言えばさっき作家と言うとったな? 何書いてる? どんなんや?」
「いえ、しょうもないしょうもない雑文書きです」
「はん、くだらん物書き風情か。儂はな、戦中生まれで学はないがな、ほいでもこうやって俳句をひり出すぐらいには、独学で学んできたんや!」
「素晴らしいことです」
「独学やで! 儂、独りで学んできたんやでぇ!」
さっきまでの高潔な態度は見る影もない。
今、目の前にいるのは、酔っ払ってくだを巻く中年の関西人だ。
それから三十分ほど、男はいかに自分が俳句を詠んできたかとか、小さい頃は虐められて苦労したとか、脈絡のない話を延々と続け、やがて大いびきをかいて眠ってしまった。
その間、庭さんは黙って話に耳を傾けていた。
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