第15話 巡礼者

 あたりはすっかり闇に包まれていた。

 ランタンの淡い光だけが、僕たちの影を東屋の壁に映し出していた。

 周りには深い闇が広がり、時折聞こえる虫の音と遠くを通り過ぎる車のエンジン音が、夜の静けさを僅かに震わせていた。


 庭さんとはかれこれ一時間ほど話をしていただろうか。取材と言っていたが、彼の話はとても面白く、まるで雑談をしているようだった。


「森沢くんは、今日はここに泊まるんですか? この東屋で」


「はい、そのつもりです」


「迷惑じゃなければなんだけど……」と庭さんが頭を掻く。


「僕もここに泊まっていいですか? もう少し色々と話を聞けるとありがたいんだけど……」


 僕は、てっきりどこか宿を予約していると思っていた。願ったり叶ったりだった。


 そんな自分自身にも驚いている。人見知りと思い込んでいたのに、話し相手ができることに喜びを感じているなんて。

 それは庭さんの柔和な雰囲気のせいなのかもしれない。


「もちろんです」と僕は快諾する。「あ、でも寝袋が……」


「ありがとう、大丈夫です大丈夫です!」言うが早いか、原付きのバスケットから寝袋とマットを引きずり出してきた。


「普段はビジネスホテルか民宿に泊まるんですが、ほら、こんなこともあろうかと」


 見るからに年季が入った寝袋だった。僕のようなホームセンターの廉価品ではなく、多分プロが使うような高品質なやつだ。


「へへへ、行動の柔軟さが取り柄でしてね。いっつも荷物に積んでるんです」


 その時だった。

 ゴロゴロゴロと何かをる音が聞こえてきた。庭さんと顔を見合わせる。


 ぬっと何か大きな塊が屋根の下に侵入してくる。

 それは手押しキャリーに積まれた大量の荷物だった。脇にはコップやらタオルやら生活用品がぶら下げられている。まるで移動する家のようだ。

 続いてそれを押す男が姿を現した。思わず身をすくめた。


 菅笠の下に、夜の闇に同化するほど真っ黒に日焼けした顔があった。その中に、鋭い三白眼だけがギラギラと光っていた。

 白装束の男は、僕と庭さんを交互に見た。

 男に見覚えがあった。

 寺の山門でお辞儀し忘れた僕を厳しく諌めた、あの年季の入った遍路だった。


「どうも、こんばんは」と、にこやかに声をかけたのは庭さんだった。男もペコリと頭を下げてそれに応じる。


「隅の場所をお借りしてもよろしいでしょうか? ご迷惑はおかけしませんゆえ」ぶっきらぼうに言う。


「どうぞどうぞ」と庭さん。


「あの、その節はどうも……。ご迷惑をおかけして……」僕は男に頭を下げる。


 もごもごと要領を得ない言葉を並べる。


「あれ? 森沢くんのお知り合いの方?」


「あ、いえ、知り合いというか……」


 男は思い出したように目を見開く。それから僕に向かってしみじみと合掌する。


「先日は申し訳ありませんでした。つい厳しい口調になってしまって……」


 そう言うと深く頭を垂れる。短く刈り上げた髪の毛に白が混じっていた。


「そんなそんな……! とんでもないです!」僕は大慌てで手を振る。


「私は同行二人としてお大師だいし様と長く歩き続けてる身。自己を見つめ直し、過去の罪や煩悩を洗い流す機会を得ております。毎日が試練であり、毎日が悔い改めの時間……。時々、他人様にあまりに厳しく接してしまうことは自覚しております」


「い、いえいえ! そんな……。僕なんかまだ歩き始めたばかりの若造ですから。むしろ教えていただけて光栄です」


 自分が、歩き遍路の中でも雛のような存在だということは十分自覚している。こんな経験豊富な巡礼者に頭を下げられるのは、ただただ畏れ多いだけだった。


 男は懐から一枚の札を取り出した。


「お詫びとしてこちらを受け取っていただければと……」


「あ、これは、はい、どうも……」僕は本当に鳥の雛のように口をパクパクさせた。


 うやうやしく受け取ると、それは納め札だった。

 遍路が各霊場を参拝した証として納める札のことだ。だがお店で購入できる一般的な白い納め札とは随分趣が違うようだった。


「おっすごいですね。錦札じゃないですか」横から庭さんが口を出す。


「納め札は、四国霊場を何周したかで色が異なるんですよね? 一周から四周までは白、五周は緑色、七週以上はは赤、だったかな? 錦札は特別なんですよ。確か……」


 庭さんは男に向き直り、確認するように尋ねた。


「百回以上回った方だけが持てるんですよね?」


 男はゆっくりと頷いた。


「百回!?」


 とんでもないものをもらってしまった。

 震える手で裏返すと、句が書かれていた。


「四国路を 行く足音や 初夏の風 ――小人」


 作者名はこびと……、と読むのだろうか。


小人しょうじんと名乗っております」


 その名に似つかわしくないほどガッシリした体躯をピンと伸ばしながら、そう言った。


「乞食遍路の世迷い言で申し訳ないが……、句なぞを詠みながら四国を巡っております」


 合掌した男の指先が目に入った。

 節くれだって、たくましく変形している。爪の下には黒ずんだ汚れが入り込んでいて、何度洗っても取り去ることのできない痕跡が残っていた。


 その手の荒々しさを目の当たりにした時、彼が百回以上も遍路を巡礼しているという事実が、僕の中でより納得できるものとなって腑に落ちた。

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