第9話 就職

 夕方5時を過ぎて、バーガーショップの店内には少しづつ人が増えてきた。


 レジの前には人が並び、カウンターではサラリーマンがコーヒーを啜っていた。振り向くと学校終わりの少女たちが楽しそうにテーブルを囲んでいた。


「あのさ、モリー」


「ん?」


 見るとキヨは、さっきまでとは打って変わって神妙な面持ちをしている。


「どうしたの?」


 僕は、さっき聞いた遍路Xの不気味な謎にあてられて、いまだ興奮を引きずったままでいる。


「実は今日、もう一つ話があるんだ……」キヨは意を決したように言う。


「実は就職を考えてるんだ」


 僕は口まで近づけた紙コップをぴたりと止めた。ゆっくりトレイに戻す。

 急に氷を抱かされた気分になった。


 就職。

 この世で一番聞きたくない言葉かもしれない。


「実は伯父さんが家に来たのも、元々はその件なんだ……。缶詰工場が閉鎖されたって言ったデショ? 伯父さん、今こっちに戻ってきてるんだけど、埼玉にできる新しい缶詰工場の工場長を任されるらしいんだ……」


 キヨは「まぁそれで……」と、モゴモゴ口ごもった。


「僕もそこの従業員にどうかって……。要するにコネ入社なんだけど……」


「そ、そうなんだ……」


「実は父さんの具合がね、あんまり良くなくて……。最近は仕事を休みがちなんだ」


 彼の父親が、あまり体調がすぐれないのは以前から聞いていた。


「心配もかけたくないし、これ以上迷惑もかけたくなくて……」


 途中で投げ出した専門学校のことを言ってるのだろう。

 キヨはぱっと笑顔を作る。それはどこか不器用なものだった。


「いや、僕らの間に何かが変わるわけじゃないと思うんだけどね! 『謎』はこれからも見つけていくと思うし!」


 変わるよ、と僕は心の中で呟いた。

 きっと変わる。

 仕事が始まればキヨの生活は一変するだろう。忙しくなるし、新しい人間関係もできる。きっと任されることも増えるだろう。

 これまでみたいにオカルトネタを追うことは難しくなる。


 振り返ってみれば、これまでキヨとはほとんど謎やオカルトの話しかしてこなかった。二人とも、将来を直視したくないがために、あえて目を背けていたのかもしれない。


 別にずっとこんなことを続けられるとは思っていなかったけど。だけど、急に突き放されて一人だけ取り残されたような気分になっていた。


 心のどこかで、このままフリーターのままでも一向に構わないんじゃないかと楽観視していた。

 なぜならキヨがいたからだ。

 彼は一人暮らしをしたことがない。これまでずっと実家暮らしだったキヨ。

 近所の工場で時々冷蔵庫を組み立てるバイトをして小遣いを稼いでいた。


 その頃僕は一人暮らしを始めて、就職はしなかったけど、清掃のバイトをしながら親からの援助も受けずにどうにか生活を成り立たせていた。

 それは僕のほんの僅かなプライドだったのかもしれない。

 彼は僕の背中を見ている。そう思っていた。思い込んでいた。

 だけど。

 その彼が就職するという。


「ひどいじゃないか、キヨ~。僕をほったらかしにするのかい~?」


 そう冗談めかして言おうとした。笑って彼の就職を祝おうじゃないか。

 だけどできなかった。喉が詰まった。最初の、ひ、の言葉が出ない。


「モリーはさ、将来どう考えてる?」


 将来だって?

 どうしてキヨがそんな言葉を吐くのだろう。今までそんなこと話したことなかったじゃないか。


「関係ないだろ」


 口から飛び出したのは予想以上に辛辣な言葉だった。

 このあと何と言っていいのか分からない。僕はさっとキヨから視線を外し、黙り込む。


 胸がバクバクと鳴っていた。咄嗟に冷めたコーヒーに口をつける。

 目の前の窓ガラス、その斜め前方に、反射するキヨの姿が映っている。俯いている様子が見える。


 彼を直視することができない。

 僕はこれまで彼に対して声を荒げたことはない。もちろん怒ったこともない。

 彼はさぞ驚いたことだろうと思う。


 背後から女の子たちの笑い声が聞こえてくる。それが、まるで僕の狼狽を見透かしているように思えた。

 二人の間に沈黙が落ちる。

 空調の音はこんなに大きかっただろうか。


 しばらくすると彼が口を開く。


「ごめんモリー……」


 隣から、野球帽を触って弄ぶ、衣擦れのような音が聞こえる。小さな咳払い。


「本当はずっと考えていたんだ。いつ言おうかって……」


 僕は黙ったままでいた。


「モリーは高校を卒業するとすぐに引っ越しして、一人暮らしを始めたね。僕は強いなって思ったんだよぉ」


 ドキリとした。

『強い』という意外な言葉に内心驚く。そんなこと考えたこともなかった。


「モリーは、自分の力で生きていこうとしてたから……」


 ただ必死だっただけだよ、と言おうとした。だけど言葉が出ない。

「虚しさに押しつぶされそうになっていただけだよ」「惰性で流されただけだよ」そう言おうとした。

 言葉が喉元まで出かかって飲み下す。それを繰り返していた。


「モリーが一人前になりたいように、僕も一人前になりたいんだ。僕も強くなりたいんだ」


 胸を引き裂かれたような気分だった。

 僕の傷口からはどす黒い血が溢れ出ている。ゴキブリの背中のような醜い色だ。これが僕の心の色だ。


 実のところ、自分はキヨのことを見下していたのだと気付かされる。

 だから先に就職しようとする彼に嫉妬した。

 自分が置いていかれるという恐怖とキヨへの羨望が入り混じり、胸の中で醜い感情が渦を巻いていた。


「モリー」


 僕はキヨの横顔に視線を移す。彼は目を伏せて、街を行き交う人々を見下ろしていた。ぎゅっと口を結んでいる。


「遍路に行かないか?」


「…………え」


「モリーも感じたはずデショ? この遍路Xの謎は、これまでのものと違う」


「うん……」


 遍路Xの謎。

 表面に見える部分はほんの一部で、その裏にはまだ多くの未知が隠れているように感じられた。

 とにかく、強烈に興味を引きつけられていることだけは確かだった。


「実際に遍路に出て、遍路Xの謎に挑んでみないか?」


 背後の女の子たちの笑い声が小さくなった。

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