第8話 ある投書

 ふと気になったことがある。


「ところで、遍路Xって名前はどういう意味なの?」


 なぜそう言われているのか。これまでのキヨの話には一切根拠が話されていない。

 遍路X。数学っぽいというか、妙に浮いてる気がした。


「それがね、伯父さんにも分からないらしいよぉ。いつの間にかその名前でとおってたらしい。僕もそれ疑問に思ったんだけど」


「時子お婆さんが言い出したのかな?」


「それもちょっと分からないんだ……」やや語尾を濁す。


 キヨは帽子を脱いで頭を掻く。


「実はね、時子お婆さん、すでに死んじゃってるんだよぉ……」


 僕は飲もうとしていたコーヒーをトレイに戻した。


「死んじゃってる……?」


「うん。あのね、今年の秋に缶詰工場は閉鎖されてるんだ。その後、すぐぐらいに」


 今年の秋というと、ついこの間だ。


「まさかとは思うんだけど、遍路Xが関わってることは……」


 キヨは、いやいやいやと手を振る。


「時子お婆さん、工場閉鎖で仕事を辞めざるを得なくなって、めっきり生活に張りがなくなっちゃったらしいんだ。花がしおれるみたいシュンって小さくなって、坂道を転げ落ちるみたいに寝たきりになって、それからはあっという間だって……。それだけ」


「そうなんだ……」


 さすがに遍路Xが影響を与えたというのは考えすぎだったようだ。

 人が亡くなったとはいえ、どこかホッとしたような心情になる。だけど、重要な証言者はもうこの世にいないということが分かった。


 キヨの伯父さんが今高知から戻ってきてるのも、埼玉に新しく工場移転が計画されているからだとキヨは言った。


「ところで、BBSで遍路Xのことは調べたのかい? 情報収集とか」


 そう聞くとキヨは「もちろんもちろん調べたよぉ~!」と鼻息荒い。


「でもね、やっぱり地方の情報はほとんどないんだ……」


 以前から、BBSのオカルト情報量は、関東圏に偏重しており、地方のものほとんど無いとキヨは愚痴っていた。

 高知の情報もまた然りというわけだった。


「だからねモリー、僕は図書館に行ったんだ」


「図書館? どうして?」


「地方の新聞を保管してるはずデショ」言うが早いか、鞄から手帳を取り出す。


 パラッと手帳をめくった途端、薄っぺらな茶色の物体が挟まったページで止まった。

 彼がしおり代わりに挟んでいるのは『蒲焼三郎くん』というタラのすり身を固めた薄い駄菓子だ。

 パッケージにはうなぎの蒲焼のイメージ写真が印刷されている。一枚10円。

 駄菓子好きのキヨの習慣に今さら野暮なツッコミは入れない。


 キヨが無言で『蒲焼三郎くん』を差し出してくる。

 ノーサンキュー、と僕は断る。いつものやり取りだ。

 早く話の続きが聞きたかった。


「図書館でね、こんなものを見つけたんだよぉ」


 手帳のページから、折り畳んだ紙を抜き出し僕に差し出す。

 紙の折り目を伸ばすようにひらくと、A4紙に、新聞の一部がコピーされていた。


「これって、新聞の投書欄?」


「そう。土佐タイムスっていう、高知県のローカル新聞」


 日付を見ると、1996年9月22日とあった。つい三ヶ月前だ。

 善根宿ぜんこんやど主人のため息、というタイトルだった。


 どうやらキヨは、僕に話を持って来る前に独自調査を進めていたらしい。彼がこの謎に対してどれだけ強い興味を抱いているのかがよく分かる。


 僕が記事に目を落とすと、キヨが「善根宿というのはね」と口を開いた。


「お遍路さんのために地元の人がボランティアで提供してる無料宿のことなんだ。四国の遍路文化の中でも特別な存在なんだよぉ」


『蒲焼三郎くん』をかじりながら言う。

 僕は頷きながら記事に目を戻した。


 ※ ※ ※ ※ ※


 善根宿主人のため息


 私が運営する善根宿はかつて遍路の賑わいで溢れ、夕暮れ時には疲れた遍路たちが安らぎを求めて訪れました。彼らとの交流は私にとってかけがえのない宝物です。


 しかし、時代の流れにより遍路の数は減少し、宿の灯りも寂しさを増してきました。

 特に今年に入ってから、何人かの職業遍路さんが高知県のある地域で行方不明になるなど、安全に対する憂慮が高まっています。


 私自身も体力の衰えを感じざるを得なくなった今、宿を閉鎖する決断を下すことになりました。


 この地を愛し、宿を支えてくださった全ての方々に深く感謝申し上げます。今後とも遍路道の安全と、遍路に対する支援をお願い申し上げます。


 久保川 正太郎(79・無職)


 ※ ※ ※ ※ ※


 ボランティアで善根宿を運営していた人が、宿を閉鎖するという内容だった。


「職業遍路さんが行方不明……?」


 どういうことだろう。


「これ、『高知県のある地域』って書いてあるけど、同じ場所で行方不明になってるってこと……?」


 するとキヨが顔を近づける。


「実は直接電話して聞いたんだ」


「えっ!? この、久保川さんに?」


 あまりの手回しの早さに舌を巻く。今回のキヨはいつも以上に前がかりだ。


「電話帳に善根宿の電話番号がまだ掲載されてたんだ。幸いにも、その連絡先が久保川さんの自宅だったんだよぉ」キヨが自慢げに鼻を鳴らす。


 久保川老人は気さくな人だったらしい。突如電話をかけた若者を無下にすることなく、詳しく事情を話してくれたという。


 久保川老の善根宿は、高知県室戸岬の西側に広がる小さな村の外れにあった。

 四国の遍路文化を支える善根宿は、この地域でも大切にされてきた伝統だ。 

 室戸岬の東側には、別の人が運営する善根宿がもう一つあった。


 両宿の主人は、時々電話で連絡を取りあう程度には親交があった。遍路のために善根宿を運営する、いわば同志のような関係だったという。


 多くの職業遍路は、東の善根宿で一泊世話になったあと、そこから西の久保川老の善根宿を目指すのが通例となっている。

 ところが今年に入ってから、東の善根宿を出発した遍路の何人かが西の善根宿に到着しないことが分かっていた。

 つまり、東と西の善根宿の間で消息を絶っている。室戸岬をぐるりと回る閑散とした遍路道だ。


 唐突に行方をくらませた遍路の中には、久保川老の見知った者もいるらしく、少なくとも三人はいなくなっているという。

 そして行方不明になる遍路は職業遍路に限られていた。


 久保川老は「無事やったらええけんどのう」と諦めにも似た小さなため息をつき、話を結んだという。


「一年足らずで三人はさすがに多すぎない……?」僕はいぶかしげに問う。


 キヨは何度も頷く。


「モリー、この職業遍路が行方不明になる室戸岬のルートだけど、そのまんま時子お婆さんが遍路Xを目撃した場所と一致するんだ」


 聞けば、缶詰工場と時子お婆さんの出勤ルートは、善根宿同士を結ぶ道の中に含まれているらしい。

 僕は、暑くもないのに、じっとりと汗ばむ感じがしていた。

 手持ち無沙汰に額を拭い前髪を弄ぶ。落ち着かない。


 久保川さんが職業遍路の行方不明に気づいたのは今年に入ってから。時子お婆さんが遍路Xを目撃するようになったのは昨年の冬ぐらいから。

 時期的には、ほぼ一致すると言っていい。


 時子お婆さんの談によれば、遍路Xは人間の手首を持ち歩いているという。


「ま……」声がかすれる。


「まさか、遍路Xは職業遍路を襲っている……?」


 キヨは何も答えなかったが、目が肯定を示していた。


「持ち歩いてる手首は、ひょっとして……。そんなの信じられないよ! 一体何のために……」頭を振る。


 背筋に冷たいものが走る。

 そんな中、突如として浮かんだイメージ。

 夏の日の通学路。僕は高校生だった。

 何気なく公園の植え込みを見た時にそれはいた。

 メスのカマキリだった。僕と目が合った。

 メスカマキリは交尾中のパートナーを殺して食べていた。

 オスは、無惨に頭を切り落とされ、体液を貪り食われていた。

 咀嚼しながらこちらを睨むメスに、感情が冷えた覚えがある。


 キヨはこの女遍路――遍路Xのことを職業遍路だと予想している。

 もし彼女が、他の男遍路を狩るような存在なのだとしたら。

 遍路Xの持ち歩いてる手首が、その男のものだとしたら。


 だけどその動機は何だろう。

 物盗りか。

 それとも、一夜に男女の快楽を求めあった末にそうなるのか。

 カマキリのように。


 それにしても、キヨは何という謎を僕に持ってきたのだろう。

 勢い込んで彼を見る。


「キヨ。こ、こ、こ……」言葉をうまく紡げない。


 頭を満たしているのが、何の感情なのか整理ができない。

 興奮、恐怖、悲嘆。


「こ、これは、超ド級の謎だよ……!」


 すぐさまキヨが呼応する。


「やばいでショ? これ調べた方がいいでショ?」


 さっきと同じ口癖。

 高校時代からの変わらぬ口癖だった。

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