第7話 職業遍路

「伯父さん自身はね、とんでもなく怖がりな人なんだ」


 キヨが、窓の外を眺めながらいたずらっぽく笑った。窓ガラスに息がかかり白くなる。

 人々が、マフラーや襟を顔に押し当てながら足早に街をすり抜けていく様子が見えた。


「だから、一度女遍路を見てから二度と深夜に車を運転しないようになったらしい」


「でも、深夜勤の時はどうするんだい? 家には帰らないと……」


「工場にそのまま泊まっちゃうんだって。二度と見たくないから。そのくせ、こういう怪談話自体は好きなんだよぉ。だからうちにやってきた時、僕にこの話を聞かせてくれたんだよぉ」


 キヨは三度の飯より怪談が好きな男なので、嬉々としてそれを聞いたことだろう。


「時子お婆さんが女遍路を見かけたのは、一度だけじゃないって言ったかい?」


 そう聞くと、キヨは頷いた。


「月に数度は見たらしいよぉ。現れる日や曜日はバラバラらしいけど、場所はわりと同じところなんだって」


「同じ場所で見るのかい?」


「岬に向かって歩く遍路道があるんだけど、おおよそその近辺に出没するらしい。店もなーんにもないところ。夜の闇に溶け込むような白い影だったらしいよぉ……」


 不自然な気がした。

 遍路は四国を一周することが目的だ。それならばどうして彼女は同じ場所で繰り返し目撃されるのだろう。


 キヨは僕の表情を感じ取ってか、


「そう、おかしいよねぇ。普通、歩き遍路なら四国一周のルートをどんどん進むはず。一ヶ月も経っているのに同じ場所を歩いているのは変だよぉ」


「一周回ってまた戻ってきたとか?」


「女性の足では無理だよぉ。さすがに早すぎる」首を横に振る。


 早すぎると聞いて、そもそも自分は遍路の基礎知識が不足していることに気がついた。具体的な距離感が分からない。


「キヨ、もう少し詳しく教えてくれないか。歩き遍路の全体の距離って、一体全体どれくらいあって、どれくらいの時間がかかるものなんだい?」


「ああ、そういうことね。モリーは、遍路に関してどれくらい知ってる?」


「どれくらいって言われても……」僕は、うーんと唸って天井を見上げる。


 格子状に区切られた壁面は、タバコのヤニで少し茶色に変色している。


「基本的なことしか知らないけどなぁ。えーっと、空海が歩いた道を辿るんだろう? 四国を時計回りにぐるっと一周して」


「そうそう。お遍路は千二百年前に弘法大師こうぼうだいしが修行した八十八の霊場れいじょうを巡礼することなんだ」


 彼の声にはわくわくするような響きがあった。

 弘法大師は空海のことだと何かの本で読んだことがある。同じ人物なのになぜ名前が違うのかは忘れてしまった。


「弘法大師は空海の諡号しごうなんだな。贈り名って意味。昔の偉い人、今回の場合は醍醐天皇なんだけど、死後に功績を称える意味で贈られたんだな」キヨがすかさず補完した。さすがに詳しい。


「普通は、第一番札所ふだしょ霊山寺りょうぜんじから始まって、第八十八番札所の大窪寺おおくぼじで終わる。距離にすると約1400キロあるんだ」


「1400キロ!?」僕は頓狂な声を上げる。


 予想してたよりもずっと長い。

 確か東京大阪間が500キロだから「とんでもない長さだ!」


 僕は感嘆した。


「うん。普通に歩けば、成人男性でも大体50日ぐらいかかるらしいよぉ」


 なぜキヨがさっき「女性の足で早すぎる」と言ったのかがよく分かった。


「まぁ最近はバスだったり車だったり、割とカジュアルに巡礼する人もいるんだよぉ」


 キヨは、足元に置いていたバッグから一枚の紙を取り出し、ほらと僕に見せる。


『東京発お遍路バスツアー15日間の旅!』


 派手なポップ文字で銘打たれた旅行チラシだった。料金は「64万円~」と記されている。


「これ、さっき駅前のロータリーで見かけたんだよぉ」


 僕はチラシを眺める。小綺麗な遍路姿で祈る老人たちの姿が写っている。

 そのすぐ下には絢爛けんらんなカニ料理の写真が掲載されていた。


 キヨが「でへへへ~」と笑いながら「旦那ぁ。金のない儂らにゃあ逆立ちしても行けなさにないツアーですなぁ~」と揉み手をした。


 僕は思わず吹き出した。


「まぁそんなわけで、今でこそこういうツアーもあるけど、昔はね、無理やり遍路に出された人も結構いたみたいだよぉ」キヨが真面目な顔に戻った。


「無理やり?」


「例えば、家族や身内に追い出されて遍路に出た人」


「酷い話じゃないか。どうしてだい?」僕は眉根を寄せる。


「ハンセン病を知ってるかい?」


 名前を聞いて僕は戸惑った。

 歴史的に、その病気の患者はひどい差別を受けて苦しんだことで有名だ。

 その差別は、現代に至るまで、世界中で根深く存在してきた。


 かつては『らい病』と呼ばれ恐れられたこの疾患は、不治の病と考えられていた。

 進行すると顔や手足などが顕著に変形する。この外見上の変化は、社会における厳しい差別と過酷な迫害の源となった。

 患者たちは、ただ存在するだけで、人々から忌避され隅に追いやられたのだ。


 巡礼の道と不治の病。

 僕はその意味を悟る。


「病気のせいで家族を追い出されたのか……」


 キヨは静かに頷く。


「縁を切られることも多かったし、本人自ら出ていくこともあったみたい。家族に迷惑かけたくないからって」


 キヨは言いながら、テーブルの上で人が歩いていくような仕草を小さな指の動きで表現した。


「今はもちろん治療薬があるわけだけど、それがなかった頃は、治らない病気と考えられていた。ハンセン病の患者の遍路行は、帰る場所のない死出の旅なんだよ。巡礼が終わることはないし、野垂れ死ぬまで遍路道を歩き続けるんだ」


 僕は息を呑む。

 生きる場所を失った人々が、祈りを捧げながら永遠の放浪者となる。

 遍路は彼らにとって救いだったのだろうか。


「あまりにも残酷じゃないか……」想像を絶する苦しみと孤独に胸が締め付けられた。


「今は、ハンセン病の人がお遍路に出されることはもうないけど、ただ、四国遍路がそういう最後の受け皿というか避難所みたいな側面を担ってることは、今でも連綿と続いてることなんだ」


「今も続いてる? 1996年の今も?」


「職業遍路って呼ばれてる人たちがいるんだよ。文字通り、遍路を職業にしてる人たちのことなんだ。

 浮浪者、自己破産者、ヤクザを破門になった者、逃亡者、犯罪者、やむにやまれぬ事情を抱えた人たちが最後に四国に辿り着く。そして四国は、死なない程度には生かしてくれる。

 一年中遍路を巡るから通年遍路とも呼ばれているよぉ」


 家もなく、家族もなく、定まったゴールもない。ただ歩く。それが死ぬまで続く。

 一体どんな気持ちで歩き続けるんだろうか。


 こうやって聞くと、同じ遍路でも随分温度差があることを痛感する。

 一方はバスで巡礼地を回り、夜は温泉宿に宿泊してカニ料理を楽しむ快適な旅。方やもう一方は、命を賭した厳しい巡礼旅。


 唐突に僕はピンときた。


「キヨ。ひょっとして……」


 件の女遍路は、高知の特定の地域でのみ目撃されているという。



「普通の歩き遍路なら同じ場所に留まることはしないよぉ。だけど職業遍路なら一箇所に長いこと滞在するっていうのは考えられる」


 興味深い考察だと思った。


「遍路Xが、どういう理由で遍路をやっているのかは分からないよぉ。自らそうしてるのか、それともどこかから追い出されたのか……」

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