第6話 深夜の女遍路

 キヨが伯父さんから聞いた話というのは、こんな内容だった。


 一年ほど前から、高知県の遍路道に、ある歩き遍路の姿が目撃されるようになった。

 時刻は深夜。

 背の高い女で、長髪をたなびかせて闇の中をひたひた歩くという。だが彼女を異様な存在たらしめているのは、その外見ではなく、奇妙な物体を持ち歩いている点にあった。

 それは人間の手首だった。


 伯父さんは高知県のN市で小さな缶詰工場の工場長をやっている。目撃者は工場のパート従業員だった。

 工場は季節により交代制で運営されるため、従業員はしばしば深夜に帰宅することがある。その際に車で通る海沿いの道で、女の姿を見かけたそうだ。


 従業員は、齢90歳の時子ときこお婆さんという人だった。

 時子お婆さんは、家から職場まで、年季の入った軽トラックで通勤している。

「へごな歩き遍路がおるが」と彼女が言い出したのが今から一年前。1995年の冬だった。


ある日、仕事を終えた時子お婆さんが、深夜車を走らせていた時、突然ライトにふっと白衣が浮かび上がった。

 それは女遍路だった。長髪をたなびかせて、道路脇の遍路道を歩いていた。


 高知の人間にとって、白装束の歩き遍路の姿は日常風景の一部だ。特に春から秋にかけては、遍路姿の老若男女が四国八十八ヶ所を目指して歩く姿をよく目にする。

 だが真冬の深夜、それも海沿いの道を一人で歩く女遍路というのは、長らく遍路を見てきた時子お婆さんですら、これまでに見たことがなかった。


 不気味な後ろ姿に肝をつぶしたそうだ。


「まるで幽霊のようじゃった……」


 女遍路の横を通り過ぎる時、何か手にしているのが見えた。

 それは人間の手首のように見えた。

 まるで握手でもするように、人間の手首をぶらぶらと握って歩いていた。

 驚きのあまり、危うくハンドル操作を誤りそうになったという。


 時子お婆さんはこのあとも、数度同じ女遍路を見かけることになる。

 目撃者は、すでに老境に差し掛かっているにも関わらず記憶力ははっきりしている。ボケ防止にパチンコに通い、楽しみは毎晩コップ一杯の日本酒だ。

「軽トラを運転させたら俺よりもうまい」と伯父さんは言う。



「どう思う? モリー」キヨが腕を組んでこちらを向く。


 聞かれるまでもなかった。


「めちゃくちゃ興味深い……」魅力的な謎だと思った。


「デショ~?」


「うん……。頭の中でクエスチョンマークが乱舞してるよ。その女遍路は一体何をしているのだろう……。何だろ、その遍路。何だろ……」僕はブツブツ独り言のように繰り返した。


 満足そうなキヨに僕は、


「だけど、時子お婆さんの見間違いって可能性はないの?」


 最も有り得そうな質問をぶつけてみる。


「それが、伯父さんも見たことがあるらしい」


「えっ! その遍路を?」


「そうなんだよぉ。時子お婆さんから話は聞いてたけど、やっぱり半信半疑だったらしい。で、深夜勤の時に実際に女遍路を見たから信じざるを得なくなった。そりゃもう……、びっくりしたってさ! めちゃくちゃ不気味だったって」


「やっぱり手首を持ってた?」


「動転し過ぎてはっきり確認できなかったらしい。でも確かに何かを握ってたのは見たってさ」


「本当かい?」ゾクゾクと皮膚が粟立った。


 キヨの伯父さんが実際に見たという証言はかなり重要だ。証言者が複数いる方が信憑性が増す。

 僕はBBSとは違うリアルで生々しい情報に、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。


 BBSには様々な噂が溢れているが、その多くは信憑性に欠ける。玉石混交だ。しかも『玉』は稀で、ほとんどが『石』だ。荒唐無稽な話や明らかな作り話が大半を占めている。


 隣人がスカイフィッシュを飼っているとか、ダイダラボッチをこの目で見たとか。内容が唐突で根も葉もない。


 キヨは常にBBSに張り付いていて、興味のある謎をピックアップしている。

 部屋には、謎に関するメモや雑誌の切り抜きが壁一面に貼られている。その姿は、まるで事件を追う刑事のようだ。

 彼はよく「文脈」というような言い方をする。端的に言うと、背後に物語があるかどうかということだ。


 例えば、この間の廃ホテルの例だと、知った当初は、幼子の幽霊が出るというただの噂だった。

 それから僕らはホテルの経営者を調べて、昔の週刊誌から『極上のラグジュアリーから絶望の淵へ―高級ホテル経営一家の末路』というセンセーショナルな記事を発見し、一家心中があったことを知る。

 きっかけはバブルの崩壊だった。やがて経営が傾き、その最悪のタイミングで、ホテルは夕食が原因の食中毒を出す。

 この不祥事がどうやら致命傷だったらしく、業績は坂道を転げ落ちるように悪化していった。

 子供がいじめにあっていたことも週刊誌は暴き立てている。


 実際に幼子の幽霊が現れたのかそうでなかったのかは分からない。幽霊が存在するかどうかという科学的な議論にも、僕らはあまり興味はない。

 幼子の霊なんて本当は見た人はいないのかもしれない。

 ただ、出るという噂は確かにあった。


 隣人がスカイフィッシュ云々うんぬんではここまでの広がりはなかったように思う。


 暴走族に邪魔されたことは残念だったけど、極論、幼子の幽霊は見なくてもいいと思っていた。僕らの頭の中で、確固としてその子は存在したのだから。


 文脈のある謎とは、背景のある謎のことだ。そこには人々の人生や歴史が絡み合い、必ず噂の根拠が深く根ざしている。

 人々が生きた証がこうして謎を生んでいる。廃ホテルの幼子の幽霊も、遍路Xも、そこには確かに人間の痕跡がある。

 ふと思う。ひょっとすると自分もいつか、爪痕を残すように、謎を生む立場になるのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る