#6
13日の金曜日、週末の特売セールからエコバッグをこれでもかと下げて帰宅した僕は、室内が暗い事に気付く。八雲さんは産休で仕事に行ってない筈なのに、どうしてこんなにも静かなんだろう?えっ……もしかして、この後に及んで捨てられたとか?嘘嘘、彼女はそんな事絶対しないって!……いや、でも、夫婦になってからも甲斐性のない僕が仕事を探さなかったから、嫌になって出てっちゃったとか……うっわー、あり得そう。
「ただいまぁ……」
恐る恐る出した情けない声でリビングに足を踏み入れた僕は、暗く静かな部屋の中央で倒れる八雲さんを発見する。
「や、八雲さん!!大丈夫?!」
慌てふためいて彼女に駆け寄ると、昨日まではち切れんばかりに腫れていたお腹がペタンコになっていた。コレって大丈夫なヤツ?いや、絶対大丈夫じゃないヤツ!産まれる直前になると、確か妊婦はハスイとかなんとかするって、中学の保健体育で習った気がする……。
「とりあえず救急車……救急車を呼ばないと……ッ!」
エコバッグをそこら辺に放り投げた僕は、ポケットを弄って携帯を取り出す。人生で初めて掛けた119番が嫁だなんて、一体誰が想像していただろう──。
「……救急ですか?消防ですか?」
少しのコール音の後に聞こえた事務的な女性の声に、僕はほぼ泣き縋るように「救急です!うちの……うちの奥さんが……ッ」と声を震わせた。
「──そんな電話をする必要はないよ?」
僕の後ろから、ヒンヤリと冷たい声が聞こえる。その声の主は僕から携帯を取り上げると、会話の途中など気にする事もなく部屋の隅に放り投げた。
「八雲……さん?」
驚きのあまり言葉を失った僕の前には、クリクリの可愛らしい目を爛々と輝かせる彼女が立っている。
「ねぇ知ってる?……蜘蛛の夫婦って、雌の方が大きくて、愛の巣も雌の糸で作られているんだって」
「えっ……」
「それに、雌の卵が羽化すると、栄養源として子供達みんなで雌を食べちゃうの」
彼女の意味不明な言葉に呼応したように、部屋の四隅からワラワラと『何か』が姿を現わす。怖い怖い、嫌だ、助けて。僕はこんな風になる為に生まれたんじゃない。絡みつく意図を振り解こうと苦々しい表情で八雲さんを睨み付けると、彼女はゆったりとした様子で手袋を脱ぎ去る。スラリと細い2本の足と背中から伸びる4本の脚を合わせて8本、長く立派な牙が飛び出る口元を弓形にした彼女は、「本当はもっと早く食べちゃう予定だったんだ」と悲しそうに笑った。
「蜘蛛の世界でセックスした雄は、そのまま雌に食べられちゃう。でもね、私は貴方が大好きだったから、死ぬ時も私と一緒にいて欲しいの」
甘く優しい毒牙が僕の首筋に刺さったが最後、そこから今まで八雲さんと一緒に過ごした記憶や品々の煩悩がドロドロに溶けてゆく。あぁ、僕死んじゃうんだなぁ……。でも、彼女に殺されるのならありなのかもしれないなぁ……。何故か妙に落ち着いてしまった思考はきっと、流れ込んだ毒のせい。こんな絶望的な状況でさえ飲み込めてしまうのも、きっと彼女が化け蜘蛛だったせい。
「ずっと大好き、約束しようね」
生まれてから最初で最期の深くドロついた熱烈で残酷なキス。吸い上げられる僕の全てが口という器官を伝って彼女の一部になってゆく。
でもなんでだろう?
こんなにも酷い仕打ちを受けているのに、僕の心は何故満足してしまっているのだろう──?
思い残す言葉の全てまでを飲み込まれた僕は、ニートとか専業主夫とか嘘だとか本当だとかを引き算して、ただの皮に成り果てたまま愛しい八雲さんと1つになった。
─fin─
イトノトリコ 山田 @nanasiyamada
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