ミッションCR

西順

インポッシブル

 その日は実家住まいの妻の妹が産気づき、妻の母が体調を崩している事もあり、妻は午後から実家へ戻っていた。


 そんな理由もあって、私は仕事帰りに息子を幼稚園まで迎えに行き、無事に家に帰って来ると、息子と二人で風呂に入り、さっぱりしたところで、リビングへとやって来た。


「父上、これは何でしょう?」


 家で見掛けぬ容器を二つ、テーブルで見付けた息子が私を見上げながら尋ねてくる。


「息子よ、お前はまだ人生経験が五年と浅く、見掛けた事がないのも無理はない。しかし私はこれに良く似た物を、妻の買い物に付き合い、スーパー「たにや」へ出向いた時に目にしている。形状はそれと少し違うが、これは紛れもなく、『カップラーメン』なる食品だ」


「カップ……ラーメン」


 初めて見る物に興味を惹かれた息子の眼は、この『カップラーメン』なる食品の容器に釘付けだ。


「父上、これはどのような食べ物なのでしょう?」


 我が息子ながら痛いところを突いて来る。何故なら私は『カップラーメン』を食べた事がないからだ。この『カップラーメン』なる食品は、安上がりで生活費に余裕のない一人暮らしの者が良く口にすると聞き及んでいるが、私の実家も妻の実家もそれなりに裕福なので、幼少よりこの『カップラーメン』なる食品とは無縁に生きてきた。


 妻とは見合い結婚で、結婚と共に実家を離れ、それ以来食事に関しては三食妻に一任してきた。結婚して六年になるが、これまで妻が『カップラーメン』を食卓に並べた事はない。なのでこれがどのような食品なのか、私には分からない。だが、


「私の職場の後輩に、『ラーメン』と言う食品が大層好きな者がいてな、月に一、二度、その後輩に付き合って、仕事帰りに『ラーメン』を提供する店へ足を運んだ事がある」


「『ラーメン』! 『カップラーメン』と良く似た語感です!」


 カッと見開かれる息子の眼。聡明な息子の事だ。『ラーメン』と『カップラーメン』の類似性に、既に気付いているのだろう。


「父上、それでその『ラーメン』なる食べ物は、いったいどのような食べ物なのですか?」


「ああ。温かい麺だな……」


 と一言口にして、しかし息子の期待の眼差しに、私は口を噤み、腕を組んで黙りこくってしまった。後輩が私を連れて行く店では、注文は後輩任せにしていたからだ。何せ注文の仕方が独特で、私からしたらまるで呪文のようだったからだ。メンカタメアジカラメヤサイマシマシニンニクマシ? だったか? いや、メンカタメアブラオオメヤサイマシニンニクマシマシ? だったか? 兎に角、良く分からない言葉の羅列に、私の脳はそれを覚える事を拒否している。そしてあの量。


 私は横目で愛しい息子を見るが、その純粋な眼が、私を益々悩ませた。あの量をこんな幼子に食べ切れるものだろうか? 息子は妻の食育のお陰か、好き嫌いこそないものの、量は普通だろう。そうなると折角の『ラーメン』を、残す事になる。それでは妻が用意してくれた、この『カップラーメン』なる食品が無駄になってしまう。残りを私が食べる? 流石にそれは勘弁して欲しい。いや、しかし、眼前の『カップラーメン』は、後輩と食べたあれに比べれば、格段に小さな容器だ。きっと内容量も少ない……はず。


 ううむ。と腕を組んでテーブルを見詰めていれば、『カップラーメン』の他に妻が残した書き置きのメモが置かれている事に気付いた。それを取り上げ目を通せば、


『危急の事態の為、夕食をご用意出来ず、申し訳ありません。明日には帰りますので、一先ず今晩はこのカップラーメンをお二人で作り、空腹をしのいでください。明日の朝食は、食パンで宜しくお願いします』


 こんな文言が書かれていた。二人で作る?


「どうされましたか、父上?」


 おっと不安が顔に出ていたか。息子が心配そうに私を見上げている。


「大丈夫だ、息子よ。どうやらこの食品は、これで完成しているのではなく、我々がこれから作らねばならないらしい」


「作る……。この未知なる食べ物を、ですか?」


『カップラーメン』の容器を改めて見詰め、これからの苦難に生唾を飲み込む息子。分かるぞ、その気持ち。私も同じ気持ちだからな。だからこそ、私がここで動揺してはいけない。


「ふむ。妻の書き置きによると、『カップラーメン』なる食品の作り方は、その容器に記載されているそうだ」


「はあ……」


 不安そうに私を見上げる息子。それもそうだろう。まだ五歳の息子は、読み書きを習い始めたばかりで、読めない漢字も少ない。ならば私がその代わりとなり、息子にこの容器に記載されている文言を伝えるのが役目か。


 私は『カップラーメン』の容器を一つ取り上げると、それを様々な角度から見回してみたのだが、これが少々困難な作業であった。『カップラーメン』の容器には、商品名であろう『NEWラーメン本格しょうゆ焦がしネギ風味』以外にも、内容物の原材料名や使われているアレルギー食品の名前がずらりと記載されていたからだ。


 その中から私は何とか作り方の記載されている場所を見付け出すと、それに目を通して、思わず慌てて手を離してしまった。


「父上!?」


 これに驚いた息子が声を上げる。その声が私を冷静にさせてくれた。


「すまない、取り乱した」


「いえ、それよりも、父上がそんなに取り乱すなんて、いったい何が書かれていたのですか?」


「手を出すな!」


 不思議に思って『カップラーメン』の容器に手を伸ばそうとする息子へ、私は声を荒げていた。これに驚いた息子が、ビクッとしてその手を引っ込める。


「すまない。おどかすつもりはなかったんだ。しかしこの『カップラーメン』なる食品、その取り扱いは慎重に慎重を重ねなければならない」


「慎重に……?」


「ああ。この『カップラーメン』なる食品、『かやく』が使用されている」


「『かやく』……!」


 まだ幼い息子も、その名称くらいは聞いた事があるらしく、驚くと共に私の後ろに隠れるようにして、『カップラーメン』から距離を取った。それで良い。


「しかし、そうなると、どうすれば良いのでしょう? そもそも食べて大丈夫なのでしょうか?」


「妻が食べられない物を置いて行くとは考えられない。きっと食べられる。そして我々二人なら、この作戦を完遂出来ると、妻は実家へ戻ったのだろう」


「母上……」


 私の脚にギュッと抱き付く息子の頭を撫で、まだ不安そうな息子へ笑顔を向けると、私たちはじりじりと『カップラーメン』へと近付いて行った。いくら『かやく』が使用されているとはいえ、いきなり爆発する事はないだろう。それなら私が先程落とした時に爆発していておかしくない。そう思うと、我ながら何と馬鹿な行いをした事か。


 改めて『カップラーメン』の容器を手に取り、慎重に作り方の欄へ目を通すと、作り方自体は簡単なものであった。


 フタを開け、中から『かやく』と『スープの素』を取り出す。そしてこの二つを開けると、内容物を容器の中へ戻し、そこへ熱湯を注ぎ入れて、フタをして三分待つだけだ。たったこれだけの手順で、あの複雑な料理が作れるのだろうか? 疑わしいが今は妻を信じよう。


 私はまず息子に手順を説明すると、それを理解した息子の真剣な眼差しを受け、恐る恐る、まずは容器を包むフィルムを剥がす。慎重に慎重に剥がされたフィルムを、一旦ゴミ箱に捨てると、「ふう」と息子と二人で深く息を漏らす。


 しかしここまでは前準備、前座だ。ここからが本番である。


「この『カップラーメン』には、1から2までフタを開ける。とわざわざ指定されている。と言う事は……」


「と言う事は……?」


「それを少しでも違えば、良からぬ事が起こるは必定」


「良からぬ事」


 私の言葉に何かを想像した息子が、脚に巻き付けていた手に、更に力を込めた。その不安な気持ち、分かるぞ。


 私は一つ息を吐くと、それまでよりも更に慎重に、容器に触れ、1と書かれたつまみから、2と書かれた点線へ向けて、少しずつゆっくりとフタを開けていく。ペリペリとフタが剥がれていく軽い音とは対照的に、こちらの気持ちは重く真剣そのものだ。もしも2を通り過ぎようものなら、最悪息子だけでも逃がす事を考え、ゆっくりゆっくり私はフタを剥がしていった。


「…………ふう」


 二つの容器のフタを何とか指定の位置丁度に止めた私は、その中を覗く。成程、確かに二つの小袋が硬い麺状の物の上に置かれて入っていた。それらを慎重に取り出すと、銀色の袋には『スープの素』、透明の袋には『かやく』と記載され、『かやく』の袋の中には、緑や黄色、茶色の様々な固形物が内包されているのが分かる。これが『かやく』?


 私が想像していた物と形状は違えど、『かやく』は『かやく』だ。これが危険物である事に変わりはない。しかし、


「父上……」


「大丈夫だ、息子よ。私が考えるに、この『かやく』はまだ安全だ」


「安全……?」


 首を傾げる息子へ、私は大きく頷いてみせた。


「容器には、二つの袋が入っていただろう? つまりこの『かやく』は、『かやく』単体では爆発する事はなく、『このスープの素』と混ざる事によって、爆発物になる可能性が高い。一種の安全策と言うものだ」


「成程。でも父上……」


「ああ。ここからが本当の本番。作り方の指定では、二つの袋の内包物を、この麺状の物の上に入れろ。と指定している。つまり二つが麺状の物の上で混ざり合うと言う事だ」


「それでは爆発してしまいます!」


 怖がる息子に、それでも私は笑顔を向ける。


「そうだな。それだけだと恐らく爆発するのだろう。それを抑止するのが、熱湯だ」


「熱湯……つまりお湯ですか?」


 息子の答えに首肯を返す。


「確かにお湯はお湯だ。だが、作り方には熱湯との指定がなされている。つまりそこいらのぬるいお湯では駄目なのだろう。熱湯……火傷する程に熱いお湯でなければならないのだ。私の想像では、それこそがこの『かやく』を爆発させない鍵となると考える。『かやく』と『スープの素』を容器に入れたなら、直ぐ様そこへ熱湯を注ぎ入れる。そうする事で『かやく』が爆発するのを阻止するのだ」


「おお!」


 私の答えに感心したのだろう。息子の私を見る眼が、尊敬の眼差しとなっている。ふふ。頼られる父と言うのは、嬉しいものだ。


 しかしこの作戦は、口で言う程簡単ではない。作り方には、熱湯をmlで指定している。しかしこれは目安量と記載されている。目安量と言う事は、それが完全に正しい訳ではないと言う事。ふふ。しかし私には見えているぞ! この容器の内側に、不自然に線が刻まれているのが!


 つまり熱湯の量は目安でしかなく、この内側の線丁度に熱湯を注ぎ込む事が肝心なのだ。この作戦、私が、いや私と息子が必ずや完遂してみせる。熱湯さえ注ぎ込めば、後はフタを閉じて三分待つだけだからな。


 いや待て。こんなぺらぺらな紙ブタで大丈夫か? 私は一度フタを閉じてみるが、容器のフタはすぐにまた開いてしまった。危ない危ない。このような罠が隠されていようとは。


 私は確実に容器のフタが閉じるように思案する。と言っても解決策は簡単だ。何か重い物をフタの上に置けば良いのだ。いや、重過ぎるとフタが重さに耐えられず、自壊してしまうか。


「息子よ、このままではフタが軽過ぎて、お湯を注いだ後に閉じても開いてしまう。何か重過ぎず軽過ぎず、丁度良い物をフタの上に置きたいのだが、そんな物に心当たりはないだろうか?」


 これを聞いた息子は、我が意を得たりと言わんばかりに、自室へと走り出すと、何かを持って戻ってきた。


「成程、積み木か。これならば確かに重過ぎず軽過ぎず、フタを確実に閉めておく事が出来るだろう」


 そうやって褒めて頭を撫でれば、息子は嬉しそうに、そして照れ臭そうに笑うのだった。


「それでは最後の作戦へ……」


 が、しかし私は失念していた。『カップラーメン』の容器が二つある事を。1の容器に熱湯を注ぎフタをする。その後2の容器に熱湯を注ぎフタをして、三分待つ? それでは1と2の容器で、時間に誤差が出てしまう。作り方には三分との指定がなされているのだ。それよりも早くても遅くてもいけないのだろう。最悪は作戦失敗で爆発の可能性がある。


 くっ、どうしたものか。まず1を作り終えてから、2に着手すると言うやり方もある。しかし我が家ではまず基本的に夕飯は家族揃ってが規則なのだ。私が仕事で定時に帰れない時以外は、一緒に「いただきます」をする決まりがある。私と息子がここに揃っているのに、私がそれを破ってはいけない。


 それにその場合、完成した『カップラーメン』を、どちらが先に食べるのかも問題だ。お腹を空かせた息子に先に食べさせたいが、口にした事のない食品を、先に息子に食べさせるのは、まるで毒見をさせるようで敬遠したい。


「父上?」


 む。考え込んでいたせいで、息子をほったらかしにしていてしまった。またも不安そうな顔をしている。


「大丈夫だ」


 そう大丈夫だ。私はまずお湯を沸かす為に、キッチンへ行き、電気ケトルに水を注ぐ。それが沸くまでの間に、自室へ引き返した私は、自分の趣味である腕時計〈クロノグラフ〉を持ってきた。そうしてから息子にはスマホの画面をタイマーにしてから渡し、私たち親子は、最終決戦に備える。


 ぐつぐつと沸騰する電気ケトルが、カチンとその動きを止める。ここからは速さの、そして正確さの勝負となる。私は直ぐ様『かやく』と『スープの素』を二つの容器に入れる。『スープの素』が薄茶色の粉末だった事に、少し動揺したものの、ここで止まっている時間はない。二つの容器に『かやく』と『スープの素』が間違いなく入れられたのを確認した私は、すかさずキッチンへと走り、電気ケトルを持ってくると、まず容器1に慎重に内側の線丁度になるように熱湯を注ぎ、フタを積み木で閉じると、「タイマーを」と息子にスマホのタイマーを押して貰うと、すぐに容器2にも熱湯を注ぎ、同じく積み木でフタをする。


 クロノグラフと言う時計には、ストップウオッチ機能と言うものが備わっている。これで三分計れば問題なしだ。


 二つの容器のフタがきっちり閉まっているのを確認すると、私は箸を取りにキッチンへと舞い戻り、二膳の箸を持ってきても、まだ三分経つには時間がある。息子の眼はテーブルの上に置かれた『カップラーメン』の容器とスマホを行ったり来たりして、三分経つのを待ち遠しく思っている事にほっこりしつつ、私も初めての経験に少し心が浮ついているのを感じながら、長い三分を過ごす事となった。


 ピピピッとスマホのタイマーが鳴るや否や、息子はタイマーを止めて、積み木をどかせてフタを開ける。


「あっつ!?」


「大丈夫か!?」


 その湯気にびっくりした息子が、思わず手を引っ込めたのを見て、ガタンッと立ち上がると、テーブルが動き、その上に載った『カップラーメン』の容器二つが揺れて、思わぬ形で『カップラーメン』の汁がテーブルにこぼれてしまった。


 何や良からぬ事が起こるのではないか、と息子と二人で動きを止めるが、十秒経とうと二十秒経とうと、何か、例えば爆発するような事はなく、私と息子は思わず止めていた息を吐き出した。


「どうやら、考え過ぎだったようだな」


 私の言葉に手を押さえながら首肯する息子の為に、すぐに洗面所から濡れタオルを持ってきて、その手を押さえてあげた。


「どうだ?」


「うん、大丈夫」


 どうやら火傷した訳でもないようで、一安心したところで、フタが開きっぱなしになっていた二つの『カップラーメン』を、改めて二人で「いただきます」をして食べ始める。


 舌を火傷しないように、フーフーと麺に息を吹き掛けながら食べる初めての『カップラーメン』は、何だか普段と違う特別な体験で、とても美味しく感じたのだった。

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