エピローグ

 時計の砂が中心のくびれを通るように少しずつ、小瓶へと粉が落ちていく。

 グレイターによってかたまりからおろし出されて皿に小山を成す粉を小さじで掬い、男は零さないよう慎重な手付きで開いた瓶の口から中へと傾けた。

 客席の中央に置かれた蝋燭を収めているグラスよりも小さく、そして少しだけ背の高いガラスの小瓶。その中を8割がた満たして湿気らないようしっかりと蓋を閉めたら、空の瓶と入れ替えて再び小さじを手に取る。それを5度繰り返しすべての瓶へ蓋をしてからカウンターにひとつ、残りはそれぞれのテーブルの真ん中へ置いていった。

 どうしても掬いきれずに皿へ残った僅かな粉を指でなぞってひと舐めし、舌鼓を打ってから男は厨房に戻って隅の戸棚を開ける。中には小脇にようやく抱えられるほどの大きさをした、削り出される前の塊が布へ丁重に包まれてふたつも収まっていた。

 たとえこれから来る注文が全てパスタになったしても、保存の限界である3、40日の間には到底使い切れないほどの量を誇っている。

 ──そりゃあ、あのおっさんも妙な眼で見て来るだろうな。

 勢いのまま買い付けた量を改めて目の当たりにし、男は自らの行いを振り返って苦笑を浮かべた。





 

 ※     ※     ※






 およそ10日ぶりの、雲ひとつもない晴天となった。

 呑気な海鳥たちの声に良く似合う穏やかな沖合を、その横腹にそれぞれ異なる国旗を描いた何隻もの船が伸び伸びと行き来している。絶えず出入りを繰り返してなお順番待ちの様相を呈する港は、長く続いた荒波よる損失を取り戻す活気に溢れていた。

 

「んじゃ、生ものは明日以降、6日に分けて届けさせるからよ」

「ああ。助かる」


 そんな冬晴れの昼下がり、男は所狭しと商品が並んだ天幕の下を覗いていた。

 荷物の出入りが増えれば、それに応じて市場を往来する人々もまた数を増す。以前訪れた時のように、男と店主が1対1で手持ち無沙汰に無駄話を繰り広げるような余裕はどこにも見当たらなかった。

 店主もまたここ数日の鬱憤を晴らすように、ひっきりなしに訪れる客を赤ら顔に笑みを張り付けて片端から捌いていく。その様子を眺めながらしばらく待っていた男は、棚を眺めて思案した後にもうひとつチーズの塊を台に移した。それと殆ど同時にそれまで肥えた身体を八面六臂に動かしていた店主がようやくひと心地を着いた様子で、額に玉の汗を浮かべて椅子へ腰かける。 


「おーおー、さすがに買いこみ過ぎじゃねえの?」


 ひと口水を飲み下し、買い付け帳簿と台の上を流し見た店主が感嘆の息を吐く。男へと投げたその言葉が指す処は単に買い込んだ全体量というより、互いの間で小山を成すチーズの塊に対しての感想という側面が強い。

 頂点を見上げたまま停まっているその目線が、何よりの証左となっていた。


「ああ、こいつは良いんだよ」

 

 驚きと呆れの混じる店主の声に対し、返した声はあっさりと事も無げ。

 そんな男の後ろを、めいめいにつるはしやスコップを担いだ集団が通り過ぎていく。兵士と民間を半々にした数十人規模の雑多な足音は、そのまま真っ直ぐ山へと向かう市場の出口──すなわち男の店へと続く山道の方へと向かっていった。


「……なるほど。あの土砂崩れもお前さんにとっては福音なわけだ」


 その背中を見送って全てを悟った市場の主が、若干の皮肉が混じった笑いを浮かべる。対して男は発する声でも首の振りでも、肯定や否定を表わしはしなかった。正確に言えばことも、当然訂正する気はない。


「にしたって、流石にバランスが取れて無くねえか?いくら腐りにくいからって……」


 そうして大した反応を見せない男に若干小首を傾げながら、店主はひとまず話の舵を戻した。


「良いのさ。もうこいつを切らす訳にはいかねえからな」


 買い込んだ小麦粉と同量か、あるいはそれ以上の嵩が張っているチーズを前にしては、店主の指摘はもっとももだった。その点に対しては特に隠し立てする必要もないと、男は素直に心情を吐露する。


「おかしな買い方ってのは承知の上さ。やっぱりパスタにゃこいつがねえと」

「ま、売上が上がることに文句はねえけどよ……んじゃ、こいつは持ち帰り分のお代な」


 言いながら店主は帳簿の下端を切り、男もまたそこへ書かれた数字を睨みつけて懐へと手を伸ばした。


「あぁ、そうだ。妙な買い方っちゃあ、明け方過ぎに早くあいつが来たぜ」


 余計な詮索は商売の邪魔にこそなれど、利益を運ぶことは稀である。

 それを学びとして抱いている店主は再び話題を変えながら両手を掲げ、頭の上で左右から伸ばした指の先を合わせた。それから離した指を鏡合わせのように動かし、こめかみ横まで下ろしたところで人差し指と親指で空気を摘まむように外側へと動かす。


「……ああ」


 それが鍔の広い帽子のシルエットを描いたものと見当をつけた男は、頭の中で商人の顔を思い浮かべて声の調子を落とした。

 今朝がた早くという事は、店にあの子を引き取ってすぐにここへ来たという事だ。仕込みも始めない内の突然の再訪に碌な別れを告げる間もないままその手を引かれていった。


「ひとりだったか?」

「ああ。でも外に馬車を待たせてたから、実際はどうだろうな」


 空風の巻き上げた砂が目に入ったふりをして、顔を逸らした男は目を伏せる。

 そうして思い出すのはドアから外に出る直前、精一杯に首を後ろへ捻って男を見やった子供の顔だった。

 微かに涙が滲んでいたが、その顔は確かに笑っていた。それが本心によるものだったのか、それとも男に対する気遣いだったのかは知れない。だがいずれにせよその表情はどんな失意や悲しみに染まったものよりも、深く男の胸の内へと刻まれるものだった。


「普段なら見向きもしないような干し肉とか、日持ちのする食いものを片っ端から買ってってさあ」

「──は?」


 自らが思い描いていた予想と全く方向の異なる続きを訊いて、思わず間抜けな声を上げた男の眼が大きく見開かれる。


「袋へ突っ込んだかと思いきや、やれもっと小せえ服はねえのかとか、丈夫な外套と背嚢を寄越せとか……まるでによ」


 思い出しながら顔の怪訝さを深める主をよそに、男は腹の内を揉みしだかれるような思いに駆られていた。


「……は、ははっ、はははっ」


 やがてこみ上げてくる笑いをこらえきれずに、とうとう口の端から漏らし出してしまう。もはや押し止める気も失せた男は、周りに目も気にすることなく顎を天へと向けて目一杯に破顔してみせる。


 ──あれだけ偉そうに説教垂れておいて、結局あいつもおんなじじゃねえか!


 だとするならば、自分の行いは徒労に終わったのかもしれない。

 だが無二の友人との間で罪悪感と納得感を折半し、さらに希望までも分け合えた思えば、まるきり無駄と言い切ることはない。


「な、なんだよ急に」

「いいや?今日イチいい知らせを聞いたなって思ってよ」


 すっかり顔から険を落とした男は再び懐へと手を伸ばし、手前に置かれたまま銀の盆へ追加でいくばくかの金を乗せた。


「……おいおい、意味が解んねえぞ?」

「笑わせてもらった礼だよ」

「なんだぁ?また雨でも降るのかね」


 眉根を段違いにして顔を歪める店主に何も答えないまま、男は前が見えないほど抱えた大荷物を抱え上げて踵を返す。

 腕に伝わる重さとは裏腹に男の足取りは来た時よりも軽く、行き交う人の波を縫って市場を出て行った。 





 ※     ※     ※






「これでよし、と」


 肩の張る作業を終えて一息ついた男が西日差し込む窓へと目をやると、気の早い冬の陽が山向こうへと沈み始めていた。

 隣国にまで伸びる幾重にも重なった山脈の遥か遠く、7合目あたりから山頂に被る雪はその身をごく微かに淡い橙へと染め始めている。

 丁度その色は、今しがた瓶へと注ぎ込んでいた粉チーズと似ていた。広く出回っている新雪のような白さをしたものと比べ、味の濃厚さと後を引く癖を物語るような色合い。サラダの仕上げから肉料理の衣に至るまで、男の手掛ける料理の質を一段上げるには欠かせないものとなっていた。

 ──当然、いつかの晩に振舞ったあのパスタにも。

 水を張って火に掛けておいうた寸胴の蓋が、かたかたと揺れ始めた。男はぱんと両手で頬を叩いて気合を入れ、それから外へ出てノブに提げたパネルの表裏を手首の返しだけで逆さにする。そうして開店を知らしめてからもう一度山の向こうへと目をやった男は、夕日を望む眩しさとはまた違った理由で、その眼を細める。

 あの頂きのどこかをきっとまだ、あの子は懸命に走っている。今年の冷え込みは特に厳しく、また国境の治安が良くなったという話も聞かない。

 いくらとしても、なんの寄る辺もない幼い身体が永らえるには、あまりにも厳しい環境であることは疑いの余地すらない。

 いつか再び、あの姿がドアの前に現れる可能性。それは信じるどころか祈りを捧げるにも、細く儚きに過ぎると言わざるを得ないものだった。

 だがそれでも、男は自らがそれを

 


『きっと上手く逃れたなら、いつかもう一度俺の店に顔を出せ。

 その時はお前の皿の上に、見たことない位のドカ雪を降らせてやるからな』



 そんな思いの拠り所こそ、あの過剰ともいえる程詰め込まれた棚の中身に他ならない。

 絡まるパスタとソース、そしてチーズが織り成す魔法。あの日与えてやれなかったそんな感動への備えを、一時たりとも欠かさず十全にしておく。

 そうしていればいつかきっと、あいつは食べに来てくれる。 

 喩えそれがどこにも根拠のない確信だとしても、いま男の原動力になっていることに変わりはなかった。

 その誓いを抱く自分が行うべきは、1日も欠かさずにこの店を開け続けること。そしてなによりいつか来るその日に備えて、絶えることなく小瓶の中を満たしておくことだ。


 店の前に角度を付けて伸びる山道から、少しずつ喧騒が近づいてくる。

 それは倒れた古木が塞いだ道より引き返してきた兵や人足たちが立てるものだった。昼から今までずっと、山と積もった土や石を掻き分けていたとあれば、あの一団はさぞかし腹の虫を鳴らしているに違いない。仕込みの匂いでもひと嗅ぎさせれば、堪らずこの戸を押し開けてくれるだろう。

 さぁ、今夜も商売を始めよう。

 軽く拳を握って独りうなづいてから、男は厨房へと戻っていく。

 後ろ手に閉めるドアに据えつけられたふたつの鈴が揺れ、軽やかな音の重なりが冷えた宵の空気へ舞い上がる。

 それは長く長く、まるで山彦のように。

 遥か山の向こうにまで届くほど、遠く響き渡っていった。 


『奴隷と粉チーズ・PIROT版──了──』

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短編『奴隷と粉チーズ』パイロット版 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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