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三年生の一年間は、四年間の大学生活でもっとも充実していたように思う。堂山デビューしたことで学業がおろそかになってしまったことを反省し、もともと目指していた大学院への進学に向け講義もレッスンもまじめに出席するようになった。
日本音楽史や伝統芸能のフィールドワークなど僕が目指す方面の授業に力を入れ、和楽器の練習に励むだけでなく、バロックアンサンブルで演奏会に出演したりピアノ専攻の友人に伴奏してもらって歌曲を歌ったりと、ジャンルに捉われず貪欲に音楽を楽しんでいた。そのため土日も大学の練習室を借りることが多くなった。
ゴールデンウィークに五街区で飲んでいると、東京から一人旅に来たという客が現れた。短髪でガッチリした体格でよく日焼けした風貌は、まさにガテン系といった感じだったが、話をすると本当に現場作業員をしているとのこと。そしてこの少し年上のガテン系の彼がまさかのピアノが弾けると言い出し、しかも東京の名門音大を目指したことがあるという。話がはずみ、彼が踊りたいと言い出したので二人で店を出てクラブに行った。踊りながら僕は彼にアプローチをかけると幸い彼も僕のことがタイプだったようで、ひとしきり踊って酔いが回ったタイミングで、彼が泊っている近くのホテルに向かった。
彼はその見た目どおりにパワフルで、僕は一方的に彼に体をゆだねるしかなかった。夜中の2時くらいにやっと二人でシャワーを浴びると、お互いけっこう飲んでいたこともあり急に睡魔に襲われ、すぐに二人とも眠ってしまった。
翌朝、彼がどんなピアノを弾くのか聴いてみたくなった僕は、自分が通っている音大に行ってみないか?と彼を誘ってみた。彼は観光の予定を立てていたらしいが、久しぶりにピアノを弾きたくなったと言い、誘いに乗ってくれた。
ゴールデンウィークの大学はさすがに人が少なく練習室はガラガラだったが、僕はあえて狭いグランドピアノの部屋を借りた。まだ5月とはいえ、空調のスイッチを入れて間もない室内は蒸し暑い。白いシャツを脱ぎノースリーブ一枚になった彼は太い腕を鍵盤に置き、おもむろに力強く低音を鳴らした。上行するレチタティーヴォ風の序奏。ショパンのバラード第一番、僕の大好きな曲だ。風貌からの印象とはまったく違うとても繊細な第一主題から、包み込むような安心感を与えてくれる抒情的な第二主題に続く。そして中盤に入ると粗削りではあるが情熱的な展開部が強烈に僕を引き込んだ。おそらく久しぶりに弾いたピアノだろう、決して模範的な演奏ではなかったが、こんなにも情熱的なショパンのバラードを聴いたのは初めてだった。そしてその情熱の奥に、僕はかすかに寂しさのようなものを感じていた。
日本でもトップクラスの音楽大学を受験しようとしていた彼が、どのような経緯でピアノの道を捨て、現場作業員として働くことになったのか。彼の素性に深入りすることもなく、僕らは名前も連絡先も交わさぬままサヨナラした。
今でも彼は、たまにピアノを弾いているのだろうか。
そうやって、その場限りの出会いを繰り返しているうちに季節は変わっていく。大学三年の夏休みは『郷土の芸能』というテーマでレポートを完成させるべく、そのほとんどを地元の熊本で過ごした。僕は熊本のゲイバーにも飲みに出るようになっていて、そこでも一晩だけの出会いを楽しんだり、高校のクラスメイトに出会うというハプニングもあったりして、地元でもそれなりに楽しい夏休みを送ることができた。
夏休みが明け後期の授業が始まると、そろそろ卒論に向けて準備を始めることとなり、それまで以上に学業に本腰を入れることとなる。それでも堂山にはちょくちょく飲みに行っていたのだが、学生生活が充実していくにつれ、不思議なことにサウナにオトコ漁りに行くことは少なくなっていった。
10月の最初の週末、堂山の通りで半年ぶりに和馬に会った。その時の彼はかなり酔っていて、帰ろうとしていた僕は強引にヘブンズに連れていかれた。案の定、彼氏さんとケンカしたらしく、僕が愚痴を聞くと言うお決まりのパターンだ。
またいつもと同じことをしていると分かっていながら、それを止めることができない。決して報われることがないと分かっているのに和馬を突き放すことができないでいる。それどころか、また和馬が僕の部屋に来て一晩を過ごすことになるかもしれないことを期待してしまっている僕は、僕の腕を引っ張る和馬の手を振り解くことができなかった。
「フグちゃんはいつも愚痴を聞いてあげて偉いね」
ヘブンズのマスターが言った。そう、マスターは和馬と僕との関係を知らない。いやヘブンズのマスターだけではない。僕のこの報われない恋を知っている人は、この堂山町のどこにもいないんだ。知っているのは和馬だけ。いや、和馬も僕の本当の気持ちをどのくらい知っているんだろうか。そう思ったとき、ふいに覚悟が決まった。隣で酔い潰れている和馬を見ながら「もう終わりにしよう」と心の中で呟いた僕は、財布からお金を出し、終電で帰ることをマスターに告げた。
「え?もう帰るん?まだ話きいてやぁ」
そういう和馬に目を合わせないよう会計を済ませた僕は、大学の課題が溜まっていることを理由に、マスターに和馬のことをお願いして一人で店を出た。
不思議と冷静でいられている自分に違和感を覚えながら帰宅すると、すぐにアドレス帳の和馬の名前と電話番号をペンで塗りつぶした。やっと僕は一年半の想いにピリオドを打つことができた。
それからしばらくして、和馬が新しい彼氏さんを連れてたまにGパニックに来ていることをマスターから聞いた。そして和馬の母親が亡くなったらしいことも。
何か辛いことがあるといつも僕に電話してきていた和馬だったが、母親が亡くなった時に何の連絡もしてこなかったということは、今の彼にはどんな辛いことでも受け止めてくれる、心から頼れる人が傍に居るということだろう。つまり、和馬にはもう僕は必要ない。
僕は何かが吹っ切れたのと同時に、少し安心した。
22歳の誕生日をいつもと同じくGパニックで祝ってもらうと、すこしずつ季節が冬に向かっていく。ちょうど一年前に僕らの前から姿を消したコースケからはいまだ連絡がなく、震災の復興がどれだけ進もうがマサトさんからの連絡もこないままだ。
この二年間で様々な出会いがあり、その多くに心を揺さぶられてきた。和馬やマサトさんの他にも何人かに好意を持ったけど、どれも付き合うまでには至らなかった。彼らに共通していたのは、家庭が崩壊していたり何かを背負っていたりして、自分一人の力で一生懸命に生きているということだった。僕とは比べものにならないほどの人生の荒波を乗り越えてきた彼らと付き合うには、未熟な僕には荷が重かったわけだ。
この刹那的な恋愛を繰り返す日々から卒業するには、僕自身がもっと経験を積み、精神的に強くなり、一生懸命に生きる彼らを支えてあげられるようになるしかなかった。
そして僕の経験を積んでいく日々は、三十年経った今でも続いている。
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