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 8月に入ると僕はケンジと二人で東京に遊びに行った。初めて行った新宿二丁目の、大阪の堂山町とはケタ違いのその規模に圧倒されてしまった。堂山町は普通の歓楽街の中にゲイバーが混じっているだけなので、あくまでも僕らはマイノリティなのだが、新宿二丁目はそのエリア自体がゲイタウンであり、そのエリア内ではゲイであることがマジョリティであるように錯覚した。しかもテレビや雑誌で見たことがある人が普通にゲイバーに居るではないか。

 熊本から大阪に出て、ゲイ社会を知り視野が広がったと思っていた僕は、まだまだ知らないことだらけの若造であることを思い知り、堂山のゲイバー界隈だけで惚れた腫れたの言っている自分がちっぽけに思えた。


 東京からそのまま熊本に帰省して、8月末には大阪に戻ってきた。そのタイミングで五街区を辞め、9月から姉妹店のGパニックに移籍することとなった。

 また、帰省している間に和馬から「店を辞めた」との報告が留守電に入っていた。あの商売っ気のなさなので仕方がないが、オーナーと上手くいかなかったらしい。さすがに辛そうな声だったが、実家に帰省中の僕にはどうすることもできない。そのまま和馬と会う機会も失ってしまった。

 そのうち和馬に新しい彼氏ができたらしい噂も耳に入り、僕も心機一転して大学の勉強にも力を入れながら、週末はGパニックでバイトするという忙しい日々を送っていた。それでも時々「ちゃんと幸せに暮らしてるかなぁ」と和馬のことを思うことがあった。


 オープンしてまだ二カ月のGパニックは五街区に比べてずいぶん働きやすかった。マスターには前からよくしてもらっていたし、従業員のコースケとも気が合ってすぐに仲良くなった。移籍したのが夏休み中だったので、バイトするか飲み回るかで毎晩のように堂山にいたが、この頃の僕はサウナにも行くようにもなっていた。ここでいうサウナとはゲイがセックスするために集まる、サウナとは名ばかりの施設で、一言でいうとゲイがフリーセックスを楽しむ場所だ。

 以前、やっとゲイバーに一人で入れるようになった頃に五街区のアナゴさんから「若いうちは遊んどきなさい」としばしばサウナを勧められていたが、僕は「サウナなんて不潔だ」なんて言ってたっけ。そんな僕が当然のようにサウナにも行くようになったのだから、慣れとは怖いものだ。

 昼間は大学でまじめに音楽の勉強に励み、夜は暗闇の中で見ず知らずの男とセックスをしている。たとえゲイであることをカミングアウトしている友人であっても絶対に言えない後ろめたさを抱えながら、それがまた日常となっていく。


 ゲイであり男を好きになること。一般常識ではタブーとされることが僕にとっては日常だった。そうしていつの間にか自分のことを他人に話す際には鎧を着るようになり、息を吐くように嘘をつくようになっていった。でも堂山で知り合った仲間とだけは、鎧も着ず嘘もつかずに自分をさらけ出すことができた。ハタチそこらの多感で繊細な音大生だった僕にとって、堂山のゲイバーはまさに居場所であり社会勉強の場だったように思う。それでもサウナに行くことだけは堂山の仲間たちにも隠していた。誰とでもセックスするふしだらなヤツだとは思われたくなかったからだ。


 Gパニックの従業員だったコースケは背が低いが筋肉質で、いつも明るいお笑い芸人のようなタイプだった。彼はまだ18歳だったが、高校を中退して調理師の専門学校に通っていた。元々は売り専をしていたが、Gパニックのオープンと同時に売り専を辞め、この店のレギュラー従業員となったらしい。オープンしてすぐのゲイバーというのはもの凄く忙しく、夜8時にオープンして翌朝の7時くらいにやっと閉店するような毎日だった。そこから学校に行ってまた夜の7時半には出勤していたのだから、寝る時間なんてほとんどなかっただろう。それでもコースケはいつも元気だった。


 いつも明るく客を笑わせる人気者だったコースケだが、仲良くなるにつれ、僕に過酷な生い立ちを話してくれるようになった。でも決して重々しくではなく、とても明るく笑い話のようにさらりと話すもんだから、聞かされた僕も特に気を使わなくて済んだ。これも彼の優しさだったんだろう。


 コースケの父親はアルコール依存症だったようで、彼は幼少の頃から父親から暴力を受けていた。彼が中学生の頃にその父親が急死し、母と二つ年上の姉との三人でやっと平和な暮らしが訪れたらしい。

 彼は姉と同じ公立高校に進学したが、彼が入学してすぐ、援助交際をしていることが発覚した姉が退学となってしまった。入学して間もない彼は、生徒からだけでなく教員たちからも誹謗中傷を受けることになってしまった。そして「母子家庭やから援交とかするんやろ」とニヤニヤしながら言った担任を、彼は殴ってしまった。姉は退学になってすぐ行方不明になってしまったので事実は不明だが、姉が援助交際したのは家計を助けるためだった、と彼は信じていた。

 そうして担任を殴ってしまった彼も高校を退学になり、追い打ちをかけるように母が体調を崩して入院してしまった。そんな状況から、コースケは売り専を始めた。今なら大問題だが、当時は10代の子が体を売って生活費を稼ぐなんていうことが、少なくとも堂山界隈ではよくある話だった。もちろん彼はそんな自分の境遇をほとんど誰にも話していなかったが、普段の彼をみて誰がそんな過酷な境遇を想像できただろうか。それくらいにいつも明るくて元気な子だった。

 そんな彼が「最近母親の容態がよくなくて」と時々口にするようになった。それでもいつもの明るいコースケに変わりなかったから、僕は気にはなっていたものの、あまり深くは考えていなかった。


 10月下旬。21歳の誕生日をGパニックで祝ってもらった数日後のことだ。その日の僕はいつもより少し早めに出勤した。その頃は専門学校帰りのコースケが先に店で仮眠していて、僕が定時に出勤して彼を起こすというパターンが多かった。でもその日はシャッターが下りたままになっていて、コースケはまだ来ていないようだった。

 シャッターに鍵を差し込むと、鍵が開いていることに気づいた。急いでシャッターを上げドアに鍵を差すと、ドアの鍵も開いていた。変だなと思い店に入り灯りをつけると、カウンターに店の鍵と手紙が置いてあった。


   すみません。突然ですが辞めさせてください。

   突然だった母の死は、僕にとって想像以上に

   大きなショックだったようです。

   今は頭が混乱していて、会って話すことが

   できないと思うので、手紙で許してください。

   落ち着いたらまた来ます。

   それではまた会う日まで。    コースケ


 手紙を読んだ僕はコースケがまだ近くにいるかもしれないと思い、店を飛び出してあたりを捜しまわった。もちろんもうどこにも見あたらなかった。どうして僕に相談してくれなかったのか?辞めるにしてもせめて電話の一本でもよこしてくれたらよかったのに。どうしようもなく悲しかった。


 遅れて出勤してきたマスターにすぐ手紙を見せると、マスターはコースケの母が亡くなったことを知っていた。というのもその2日前の夜、いつものようにGパニックで働いていたコースケに病院から「母親の容態が急変した」との電話があったらしい。その日はコースケともう一人の従業員の二人で店を回していて、人出が足りなくなるので帰らないというコースケをもう一人の従業員が強引に帰したそうだ。

 それを聞いて僕はひどく自己嫌悪に陥った。なぜならコースケに病院から電話がかかってきたちょうどその頃、僕はサウナで知らない男とセックスしていたのだから

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