僕がゲイバーでバイトした一つ目の理由は『ゲイバーの仕事が楽そうに見えたから』だったが、特に生活に困っていたからではない。バブルで荒稼ぎした家業が潤っており、音大の高い学費も生活費も親が出してくれていた。ようするに甘ちゃんだったわけだ。それでも仕送りしてもらったお金でゲイバー遊びをするのは気が引けたので、飲み代くらいは自分で稼がなければ、と思った次第である。

 しかし堂山に入り浸るようになったことが、大学の勉強に影響したことも事実だ。夜遊びが過ぎると当然のこと朝が辛くなり、午前中の授業を欠席しがちになってしまった。頑張って出席しても、皮肉なことに午前中は一般教養や美学などお堅い講義が多く、目を開けておくのが難しい日も多かった。

 

 音大はピアノとか声楽とか、実技のレッスンばかりやっているイメージがあるかもしれないが、一般的な音大生が実技のレッスンに費やす時間を、僕ら音楽学専攻の学生は専門書の購読や総譜(スコア)の分析、和声学など机上の勉強に費やすのだ。民族音楽や楽器学に傾倒していた僕にとって、西洋美学やバッハの対位法の分析などは正直言って苦痛な授業でしかなく、出席しない日が増えていった。たまにあった友人から「涼二君、学校辞めるん?」とまで言われる始末だ。親の目が届かぬ大阪での僕の生活は、決して褒められたものではなかった。

 

 それでも副科ピアノと声楽、民族楽器、合唱など実技の授業にはちゃんと出席した。西洋音楽でも民族音楽でも演奏することは好きだったから。特に副科ピアノでは、僕の「下手の横好き」な個性をちゃんと理解してくれる良い先生にめぐり合うことができた。「弾けてはいないけど、どう弾きたいかがちゃんと分かる。技巧的に上手いだけで主張がない人より遥かに良い」と言ってもらえたことは、下手なピアノに劣等感しか抱いていなかった僕に初めて自己肯定感を与えてくれた。そんな先生だったので、ベートーベンやモーツァルトやショパンなどの正統派でなく、チャイコフスキーやグリーグ、シベリウスなど、僕の好みの小品ばかりを遠慮なく持っていきレッスンしてもらっていた。

 とはいえ夜型の生活リズムが授業に影響し出したため、大学二年の単位はギリギリの科目が複数あり、特に苦手なソルフェージュは後期試験で合格点がとれなければ落第してしまう状況にあった。いちばん大事にすべき大学の勉強をおろそかにして、あの頃の僕は恋愛とセックスに明け暮れていたというわけだ。


 地元にいた頃は内気で一部の親しい友人とだけ過ごせていれば楽しかった僕だったが、ゲイバーでのバイトによって社交性を身につけたことで、臆することなく他人に好意を示すことができるようになった。   

 僕がそうだったように、カウンターの中の従業員に好感を持つ客は少なくない。ホストほどではないが、ゲイバーの従業員も話術で客の気を引き、自分目当ての常連客を増やすことが仕事だと言える。僕には相手の気を引けるような話術はなかったが、それでも僕に会いに来てくれる客がいた。

 そしてそれが僕の好きなタイプである場合、すぐに連絡先を交換し、時には閉店後にそのまま相手をうちに連れて帰ることもあった。堂山から電車で数駅という近さだったので、タクシーを使えば新御堂を通ってあっという間に部屋に帰ることが出来たわけだ。


 五街区とGパニックでバイトしていた一年間、そうやって僕は何人かの男と寝て、一人の男を本気で好きになった。

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