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当時の僕はヴァン・クライバーンが弾くチャイコフスキーのピアノ協奏曲をよくレコードで聴いていた。恥ずかしいくらいに派手な出だしからのロマン溢れる管弦楽、民謡調の俗っぽさを含みながらも情緒的な旋律、緩急強弱の波から雄大なフィナーレへと、その感情の豊かさに惹かれていた。ゲイだと噂されるチャイコフスキーとクライバーン。彼らの生涯を知り、その二人が作った音楽を聴くことで、僕の中に秘められた何かがグツグツと沸騰するような気分になった。
クラシック音楽に限らず芸術を学んでいくと、自然と同性愛に触れることとなる。芸術家にはゲイが多いというのが定説だからだ。音楽家を目指す学生が集う音大だもの、ヘヴンズのママが言ったとおりゲイが多いのも不思議ではない。そう考えると同期の友人にカミングアウトするのもハードルが低くなった。
仁さんと出会ってから、僕は大学の友人たち数名に自分がゲイであることを告げていった。仁さんが大学のサークルでカミングアウトしていることを聞いて、僕も仁さんのように自分を偽らずに学生生活を送りたいと思ったからだ。幸い僕には人を見る目があったのか、学生の頃から30年経つ今まで、何十人にもカミングアウトしてきたが、嫌な思いをしたことは一度もない。たまたま周囲に居る人達に恵まれていたのか、あるいは実はみんなゲイにさほど関心がなかったのか。
だとしても、それでもカミングアウトする時の僕かなり緊張している。50歳を迎えるこの歳になっても、だ。
記念すべき堂山デビューの日、すなわち僕が仁さんと出会った日の三日後に、彼から電話がかかってきた。10月20日、これは僕のハタチの誕生日だったのだが、その日の夜に食事に行こうというお誘いだった。もちろん即答で行くと伝えて電話を切った。
誕生日までの数日間、どれだけ期待に胸を膨らませていたことか。だってそれまでに誰かと付き合ったことも、好きな相手とデートしたこともなかったんだから。高校生の頃の苦しかった片思いとは違い、今回は好きになっても良い相手、しかも自分に好意を持ってくれているかもしれない相手と二人きりで食事ができる!そんな夢みたいな状況に、僕は有頂天になっていた。
誕生日の日。その日は大学の特別講義があって普段よりも帰るのが遅くなってしまい、肌寒いなか急いで梅田に向かった。彼が選んでくれた小洒落たエスニック料理の店で食事をした。今ならおっさん二人でパンケーキの店に入ることも躊躇しないけど、当時の僕はまだ男が二人で食事をすることにすら人目を気にしていた。それでも生まれて初めての好きな男とのデートだったわけで「今度二人で遊園地に行こうか」とか言う彼の話を、目をハートにして聞いていたと思う。
食事が済むとお決まりのように堂山に飲みに出た。いくつか店を回って、最後に『カルシウム』という店に入った。その日はケンジという若い従業員が一人でやっていて、僕が誕生日だと言うとジンジャーエールの小瓶にHappyBirthdayと書いてプレゼントしてくれた。僕は堂山の一員になれたような気がして、とても嬉しそうにそれをカバンに入れた。
店を出てビルの出口に向かって歩いていると、後ろから急に仁さんにハグされた。彼は軽い気持ちだったんだろうけど、僕は心臓が破裂しそうなほどドキドキした。しつこいようだがこの頃の僕は本当にまだ純情だったんだ。
このまま駅でサヨナラするのは嫌だ!まだ仁さんと一緒に居たい‼そう思った僕は勇気を出して彼をウチに誘ってみた。駅まで歩いている間ずっと彼は迷っていたが、結局は一緒に僕の部屋にやってきた。いろんな話をしてから、僕はベッドに、彼は床に寝ることになった。しかしお互いすぐに眠れるはずもなく、彼は布団から出ると僕が寝ているベッドに背をもたれて座り、空を見つめていた。
「やっぱり帰った方が良かったかなぁ」
確か彼はそんなことを言ったと思う。
「どうして??」
そう言って僕は彼の方に手を置いた。彼は僕の腕を抱きしめ、それからしばらく沈黙が続いた。ふいに彼がこちらを向き、僕のほうへ顔を近づける。僕らはキスをした。僕はキスがこんなに気持ち良いものだとは知らなかったので、何度もキスを重ね、抱きしめ合った。
結局僕らはセックスした。もちろん僕は初めてだったので彼がリードしてくれた。マンションの壁が薄いことが気になった僕は、声を殺しながらも彼の愛撫に素直に感じていた。その後、さっき堂山でもらったジンジャーエールを二人で飲み、それから一緒にベッドで眠った。
彼のカラダがとても熱かったことを今でも覚えている。
翌朝、僕らは二人とも朝から授業があったのだが、もちろん大学に行く気にはならなかった。ベッドの上で壁にもたれて寄り添い、彼がインドに行った時の話をしてくれた。ネパールの星が凄く綺麗だったと言っていたのを覚えている。
カーテンの隙間から朝日が差す中で、僕らはまたセックスした。そうして昼近くまでベッドの上で過ごしてから、彼を駅まで見送り、大学へ向かった。
三限目の授業の教室に入ると、いつもと変わらぬ風景がなんだかキラキラして見えた。そこに立っている僕は昨日までとはまったく違う僕であるかのように思えた。
その後も仁さんとはウチで一緒にご飯を作って食べたり、堂山で飲んでいる彼から電話で呼び出されたりと、一応「付き合っている」という感じで楽しく過ごしていた。
でもお互いまだよく知らないままに付き合いだしたこともあり、「愛し合っている」とまでは言えない関係であったように思う。だから楽しい状態も長くは続かず、次第に会う機会が減っていった。12月に入る頃には、僕は一人でゲイバーに行くようになっていた。もちろん一人ではまだ心細いので、やっと顔見知りになったヘブンズやボギーに、それも終電後など人気の少ない時間を狙って行くしかできなかったけど。
その頃にはもういつ電話しても仁さんは留守がちで、電話に出ても大学の友人が家に来ていたりして、ゆっくり話ができない状態だった。そして12月半ばのある夜、僕からの電話に出た彼が言った。
「なぁ涼二君、付き合ってるのを白紙に戻してくれへん?」
僕ももう今の状態にけじめをつけたいと思っていたので、
「そう言われると予想してました。今までありがとうございました」
そう言ってすぐに電話を切り、辛い思いで布団を被って寝た。でもそれは別れたという出来事に対する辛さであり、仁さんに愛されなくなったことが辛いわけではなかった。仁さんがそうだったように、僕のほうも仁さんに対してそれほど恋愛感情は抱いていなかったんだと思う。
だって高校生の頃はもっと辛い毎日を送っていたのだから。
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