僕が初めてこの世界、つまりゲイの世界に足を踏み入れたのは今からちょうど30年前、大学一年の秋頃だった。それまでにもゲイだと自覚はしていたものの、今のようにインターネットもスマホもなかった時代だったので、自分がそうでありながらも何か遠い世界のように感じていたように思う。高校までは熊本の田舎にいて、古本屋にあったゲイ雑誌くらいでしかそういった情報を得られなかったからだろう。

 そんな僕が大阪の音大に行くことになり、梅田から数駅はなれたところに建つマンションで一人暮らしを始めた。大阪の中心地からからほど近いこの広めのワンルームマンションで、当時流行っていたトレンディドラマのような生活が始まるんだと期待に胸を膨らませていた。


 大阪での生活は、それまでの熊本の片田舎の環境から一変した。近所の小さな書店にもゲイ雑誌が売っていて、そこから多くのゲイ社会の情報をリアルタイムで得ることができた。そして何よりも嬉しかったのは、自分と同じような人間がたくさんいることを知り、彼らの存在をすぐ身近に感じることができたことだ。

もちろん地元の熊本にもゲイはたくさんいたんだろうけど、親元で暮らす高校生には縁のない裏社会のようなものだった。それが都会で一人暮らしを始めたことで、いつでもその裏社会に飛び込めるようになったというわけだ。

 その裏社会への最も近い入り口が堂山町のゲイバーだった。でも当時の僕はその界隈にまだ少し怖いイメージをもっていて、とても一人で行く勇気はなかった。身近に自分と同じような人間が集まっている場所があると分かっていながら、いざその裏社会に飛び込むまでには、大阪に来てから半年もかかってしまうこととなる。


 音大では音楽学を専攻した。六歳から始めたピアノは早々に才能のなさに気づいていたものの、これといって将来の夢もやりたいこともなかった僕にとって、音楽だけが唯一の技能、いわば公にすることができる唯一の個性だったんだ。実技はダメでも学力はそれなりに良かったので、音楽を学問として学ぶ音楽学を専攻したというわけだ。

 音大は、いわば変わり者の集まりだった。地元の高校は市内でも有数の進学校で、聞こえてくる話は「○○大の指定校推薦を取りたい」や「全国模試で志望校がA判定になった」など受験に関することばかりだった。それに対して音楽学専攻の学生は目的が十人十色で、バロック音楽の演奏家を目指していたり指揮者になりたかったり、浅草オペラの流行についての研究なんて面白いことをやっている学生もいたりと、みんな自分のやりたいことに貪欲で、個性をどれだけ伸ばせるかを楽しんでいるように見えた。どちらかというと内向的で積極性に欠けていた僕は、最初は少なからず劣等感を抱いたものの、だんだんとそれが刺激的で楽しいと思えるようになった。

 そのうち僕は民族音楽の魅力に惹かれ傾倒し、独自のやりたいことを見つけることができた。そしてそれが評価されだすと、徐々に自分の個性に自信を持てるようになっていく。  


 変わり者の多い環境に影響され少しずつ変わっていく自分に気づくことが、ゲイである自分を解放したい気持ちとリンクしていった。

 

 音大に入学してから半年が過ぎた10月半ばの土曜日、その日は朝からずっとそわそわしていた。ゲイ雑誌に載っていたゲイサークルに参加するかしないかを迷ったあげく、夕方近くになってやっとそこに電話することができた。当時の僕にとって、それこそ一大決心だったと言える。

 梅田にあるそのサークルの集会場に着くと、意外にもごく普通の人達の集まりという雰囲気、いや、どちらかというと地味で暗めの雰囲気に少しだけ期待外れな気持ちになった。まぁゲイ雑誌のグラビアに載っているようなイケてる人たちの集まりだと勝手にイメージしていた僕が悪いのだけれど。


『はじめまして、涼二と言います。今年の春に大阪に来て、初めてこういうところに参加しました。緊張していますが、よろしくお願いします』

 生まれて初めてゲイ社会に足を踏み入れたという一大事に、最初は心臓がドキドキしていた。でもあたり障りのないことを聞かれた後はメンバーさんの雑談を聞いているだけだったので、早々に緊張感は薄れていった。しかし特にテーマもなく各々が適当に会話しているだけのメンバーさんたちの輪に入ることができず、ここに来たことを後悔しかけていた。

 するとひとり遅れて参加者がやってきた。その人が僕の好みのタイプだったので別の意味でドキドキが復活した。でも彼は初めましての挨拶をしてくれただけで、特に僕には関心がなさそうに見えた。それでも僕はやっとこのサークルに来てよかったと思えた。


 集会が終わると、何人かで食事に行くこととなった。もちろんそのタイプの人も一緒だ。そこでどんな話をしたかも覚えていないが、食事の後に堂山のゲイバーに行こうという話になってから急にテンションが上がったことは確かだ。たぶんこの時の僕はサークルなんかじゃなくて、最初から堂山のゲイバーに行きたかったんだと思う。


 僕の記念すべき堂山デビューの店となったのは『ヘヴンズ』という名の静かな店だった。そもそも僕はバーやスナックという類の店に来たのも初めてで、酒もほとんど飲んだことがなかった。何を飲む?と聞かれても返答できずにいたところ、

「へー、メーカーズマークなんて置いてるんや」

例のタイプの彼が横から口をはさんだ。

「こういう店ってもっと安い酒しか置かないのにね」

彼はゲイバーでバイトしたことがあるらしく詳しかった。

 僕は彼の真似をしてメーカーズマークの水割りを頼んだ。初めて飲んだバーボンの水割りは不味くて、まだ酒に慣れていなかった僕はその一杯で眠くなってしまった。

「こんなところで寝たら襲われるわよ~」

お店の人の冗談を真に受けた僕は必死に眠気と戦った。

 この時カウンターの中にいたのはヘブンズのチーママさんだったが、その人の喋り方、いわゆるオネェ言葉が気持ち悪かったのが印象的で、このことだけがゲイに対して嫌なイメージを抱かせた。しかしこの数カ月後には自分もゲイバーでバイトして同じ喋り方をすることになるのだから、慣れとは怖いものだ。

 それともう一つ、この店で驚くことがあった。なんと僕と同じ音大の学生がよくこの店に出入りし、たまにバイトしている人もいるそうじゃないか。詳しく聞くと、僕の通っている音大にはゲイが多く、特に僕と同じ今年の新入生は特に多いとのこと。さらに音大の先生までもが客で来ているらしい。ずっと隠してきた秘密、自分は普通じゃないという後ろめたさがみるみる解放されていく気がした。


 ヘヴンズを出るとそのサークルはお開きとなった。どうやらみんな家が遠いらしいが、僕は梅田から数駅のところに住んでいる。せっかくだからもう一軒くらい行ってみたいことをアピールしてみると、

「じゃ俺ももう一軒くらい行こうかな」

ラッキーなことにタイプの彼と二人で行けることになった。

 僕たちはヘブンズと同じ雑居ビルの地下にある『ボギー』という店に入った。ここはヘヴンズとは雰囲気ががらりと違い、ガッチリした体格の客が多く、店の人もすごくイケてる。そんなイケてる店で、タイプの男と二人で飲んでいることにワクワクしないはずはない。そしてその期待どおり、僕はそのタイプの彼とだんだん良い雰囲気になっていった。

 彼の名は仁さんといって、二つ年上の神戸の大学の学生だった。神戸のゲイバーでバイトしたことがある彼はこのボギーのマスターとも知り合いで、ゲイバーに詳しかった。高校生の頃からずっと胸に秘めていた思いを吐露し、これからのことを相談に乗ってもらうには理想の相手だったと言える。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ終電の時間となってしまったので、ひとまず電話番号を交換して店をでた。二人とも同じターミナル駅から電車に乗るので、券売機のところまで一緒に向かった。

「今日はありがとうございました!」

「こちらこそ。また電話するな。気いついけて帰るんやで」

そう言って別れた直後、すれ違いざまに彼が僕の頭を撫でた。まだ純情だった僕はドキッとして振り返った。そんな僕の反応に彼のほうも驚いたようだが、ニコッと笑って手を振ってくれた。


 僕は電車に乗ったあともずっと心臓がドキドキしていた。

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