午後4時の約束

りぃ

午後4時の約束

放課後の教室には、温かい光が差し込んでいた。窓から見える景色は秋の訪れを感じさせるような色合いに染まっていて、金木犀の香りが風に乗って運ばれてくる。教室の片隅で、一人の少女がうつむいていた。彼女の名前は佐藤千夏(さとうちなつ)、この学校では目立たない存在だ。


「千夏、どうしたの?」隣の席に座っていた友人、山本美咲(やまもとみさき)が声をかけた。美咲は明るくて社交的な性格で、千夏とは正反対のタイプだ。


「いや、なんでもないの。ただちょっと、考え事してた。」千夏は微笑んで答えたが、その笑顔には少しの影があった。


千夏は最近、ある男子生徒のことが気になっていた。彼の名前は藤井拓海(ふじいたくみ)。拓海はスポーツ万能で、誰からも好かれるタイプ。いつもクラスの中心にいる彼が、なぜか千夏の目に留まるようになったのは、先月の体育祭のときだった。


その日は偶然にも、千夏と拓海がリレーのチームメイトになった。拓海の走りは速く、千夏がバトンを受け取るとき、彼の手から一瞬感じた温もりが心に残っていた。そこから、彼のことが気になって仕方がなくなったのだ。


「千夏、また考え込んでる。もしかして、誰か好きな人でもいるの?」美咲がからかうように聞く。


「えっ、そんなことないよ!」千夏は顔を赤らめて否定するが、その様子がますます怪しい。


「ふーん、まあいいけどさ。でも、好きならちゃんと伝えなきゃダメだよ。黙ってると後悔することになるよ?」


その言葉に、千夏は少しだけ心を動かされた。確かに、好きな気持ちを伝えずに終わってしまうのは嫌だ。でも、どうやって伝えればいいのか分からない。


放課後、千夏は思い切って拓海に話しかけることにした。教室を出るとき、彼はまだ一人で机に向かって何かを書いていた。心臓がバクバクと高鳴る。こんな風に緊張したのは初めてだ。


「拓海くん、ちょっといいかな?」千夏は声をかけた。


拓海は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。「ああ、千夏さん?どうしたの?」


「えっと、その…明日、放課後に少し時間をもらえないかな。話したいことがあるんだ。」


「うん、わかった。じゃあ、午後4時にこの教室でいい?」


「ありがとう、それじゃあまた明日。」


千夏は自分の心が一気に軽くなったように感じた。決心したからには、後悔しないようにしよう。美咲の言葉が胸の中で響いていた。


翌日、午後4時。千夏は教室で一人、拓海を待っていた。心臓が再び高鳴り、手汗が止まらない。ふと時計を見ていると、教室のドアが開く音がした。拓海だ。


「待たせてごめんね。」彼は少し息を切らしながら、千夏に向かって歩いてきた。


「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう。」


千夏は深呼吸をして、心を落ち着ける。今だ、伝えるなら今しかない。


「私、ずっと拓海くんのことが気になってて…好きです。もし、迷惑じゃなければ、私と付き合ってくれませんか?」


教室は静まり返った。数秒間が永遠に感じられるほど長く感じた。拓海は驚いた表情を見せたが、すぐに優しく笑った。


「ありがとう、千夏さん。そんな風に思ってくれて。でも…ごめん。今、好きな人がいるんだ。」


その言葉に、千夏の心は一瞬で冷え込んだ。まるで凍りついたように、何も感じなくなった。


「そうなんだ…ごめん、急にこんなこと言って。忘れて。」


千夏は笑顔を作ろうとしたが、目から涙がこぼれ落ちてしまった。拓海はそれを見て、優しく頭を撫でた。


「ごめんね、千夏さん。でも、君とこうして話せて嬉しかったよ。これからも友達でいてくれる?」


千夏は涙を拭いながら、頷いた。「うん、もちろん。」


その日、千夏は泣きながら帰ったが、少しだけ前に進めた気がした。告白が失敗しても、彼女の中に新しい一歩が生まれたのだ。



翌日、千夏は昨日の出来事を思い出しながら、少し重い気持ちで学校に向かった。教室に入ると、いつも通りの朝が広がっていた。美咲は元気よくクラスメイトと話していて、千夏に気づくと手を振ってくる。


「おはよう、千夏!昨日はどうだった?何か進展あった?」美咲の無邪気な声に、千夏は少しだけ胸が痛んだ。


「うん、まあ…ダメだった。」千夏は少し笑って答えた。


「えっ、そうなの?でも、ちゃんと告白したんだね。すごいじゃん!大丈夫、千夏にはもっといい人がいるって!」美咲は千夏の肩をポンと叩いて励ましてくれた。その明るさに救われる反面、どこか寂しさも感じる。


午前中の授業が終わり、昼休みになると、美咲はいつものように千夏を誘って食堂へ向かった。しかし、その途中で拓海の姿を見かける。彼は一人でベンチに座り、何かを考えているようだった。


「ねぇ、美咲。私は先に教室に戻るから、先に行ってて。」千夏は咄嗟にそう言った。


「え?なんで?」美咲は驚いたが、すぐに頷いた。「分かった。でも、何かあったらちゃんと言うんだよ?」


千夏は軽く頷き、足早にその場を離れた。彼女は少し離れた場所から、拓海の様子を見守ることにした。


拓海は少ししてから立ち上がり、近くでおしゃべりしていた美咲の方へ歩いていった。千夏はその様子を固唾を飲んで見つめる。


「やあ、美咲ちゃん。ちょっと話せる?」拓海が声をかけると、美咲は驚いたように振り返った。


「あ、拓海くん!どうしたの?」


「いや、昨日の数学の問題、ちょっと分からなくて…教えてくれないかな?」拓海の声はどこか柔らかくて、親しみを感じさせるものだった。


「ああ、あの問題か!いいよ、じゃあ昼休みに一緒に勉強しようか。」美咲は笑顔で答えた。


その瞬間、拓海の顔に一瞬、嬉しそうな表情が浮かんだ。それは千夏にとって、見たこともないような表情だった。彼の視線は、美咲に向けられたもので、、、温かさが込められていた。


千夏はその様子を見て、胸が締め付けられる思いだった。拓海の好きな人が誰なのか、気づいてしまったのだ。美咲は何も知らず、いつものように明るく拓海と会話を続けている。その無邪気な笑顔が、千夏には少しだけ眩しく見えた。


千夏は静かにその場を離れ、教室に戻ることにした。心の中で何かが崩れたような感覚だったが、同時に、それはいつかは避けられない現実だと理解していた。


その日の放課後、千夏は一人で帰る準備をしていた。美咲も拓海もいない教室はどこか寂しく、千夏の心をさらに沈ませた。


すると、教室のドアが開き、拓海が入ってきた。


「あれ、千夏さん、まだいたんだ。」拓海は少し驚いた様子で言った。


「うん、忘れ物してて…」千夏は無理に笑って答えた。


「昨日のことだけど、気にしないでね。」拓海は優しく言った。


「ありがとう…でも、私、分かったんだ。拓海くんの好きな人って、美咲でしょ?」


拓海の表情が一瞬固まったが、すぐに静かに頷いた。「…そうだね。でも、それは俺の勝手な気持ちだから。美咲ちゃんにはまだ何も言ってないし。」


千夏はその言葉を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。「そうだね。でも、頑張ってね、拓海くん。」


「ありがとう、千夏さん。」拓海は微笑み、教室を出て行った。


千夏は一人残された教室で、しばらく窓の外を見つめていた。金木犀の香りが、少しだけ切なく感じられる午後のことだった。

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