【良木・6】
【良木・6】
キッチンより運んできたティーポットから、あらかじめテーブルに用意していた二客のカップへアールグレイをそそぐと、彼女の正面に腰をおろした。
酒宴のときと同じポジション。
だが今、私たちをとりまく空気は、あのときとはことごとく違った。
およそ二か月ぶりに見るか……。
彼女の足もとに置かれたトートバッグへ落とした目が思わせた。
ハンドルとボトム部分の青が、白いボディーに映えるキャンバス地のそれは、有名なアウトドアブランドのロングセラー商品。
ここへくるときの変わらないお供は、大学での彼女の手に見かけたことはない。
重要な話がある。ついては自宅まできてほしい―――。
メールでのメッセージに従った彼女の唇に、「お邪魔します」の挨拶以降、動きは見られず、うつむき加減の首は、話の内容を察している証だった。
「実は」
カップから立ちのぼる湯気に戻した視線で押しだした声は、
「ほかに好きな人が?」
かすれた声とぶつかった。
「そんなこと……」
「じゃあ、わたしが嫌いになったんですか?」
そんなこと……。同じ台詞は、胸の裡でくり返された。
「いけないところがあったんなら……あったんなら、なんでも直しますから……」
涙の滲む震え声が、途端、やるせなさを溢れさせ……。
私は立ちあがり、午後の柔らかい陽を映すアトリエ内のすべての窓にカーテンを引くと、ベッドを背後にし、身につけていたものを脱ぎ始めた。
こちらにふり向いていた彼女の悲しみをたたえる面は、その上にみるみる驚愕の色を広げた。
「実は―――これが服を着たままでいた理由。燃えるからなどではなく」
家族以外、誰の目にも触れさせなかった“凄い”裸体で、明かした。
下着も外していた私を、瞬きも忘れたように凝視している目が、彼女の受けている衝撃の大きさを如実にしていた。
予期していたこと―――。
それでも、鷲づかみにされたような胸の痛みは、避けられなかった。
―――子どものころの浴槽での事故。
医者は力を尽くしてくれたが、ここまでが治療の限界だった。
自分こそが異形だった。
そんな躰への好奇の目が、友だちづきあいを放棄させた。
放課後は与えられていたこのアトリエにこもり、好きだった描画に、ひとりふけった。
描くもののほとんどは、自然と異形の生き物たちになっていた。想像からでもあったし、書籍の挿絵などを参考にもした。
いつしか欲望も、異形のものにしか向かなくなっていた。
だからきみをつくりかえ、自分の真の姿を隠し、欲求を昇華させた。
きみを選んだのは、私に送る視線に「好意」を確信し、たやすく誘いに乗ると思ったから。
しかし、変わらないどころか、重なるごとに情熱の度を増していくきみを感じていたら、自分の企みに、嫌悪をもよおすようになった。
それは、本当の姿を隠し続けていることについても。
ゆえに最後、罪滅ぼしの意味から真の私をさらし、しまいにするという決断をした。
自分勝手を許してほしい―――。
真実と虚偽を混ぜた告白を聞く彼女から、挟まれる言葉はなかった。
目をそむけたくなるような肌に私の卑劣さも重ねた彼女が、立ち去るときを待った。
そして、ゆっくりと椅子が引かれるまでは、わずかばかりの間だった。
これですべて終わり―――。
が、
「そんな躰だからということで、わたしの気持ちがそれると思っていたんですか?
そんな嘘で、わたしが離れていくと考えていたんですか?」
彼女は背中で静かにいった。
嘘……。
ふり返った顔には、いかなる感情も探せなかった。
「嘘なんかでは……」
弱々しくしか出せなかった反論をとめたのは、いきなりの強烈な抱擁だった。
固まっている私の唇に唇が重なり、潤った舌は断りもなく侵入してきた。“行為”での、決まったプロローグ。
いけない!
心で叫んだあと、彼女の両肩を押した。
「いけない!」
今度はしっかりと音にした。
しかし彼女は意に介さず、そのまま私をベッドへ押し倒した。
こんな力がこの子にあったなんて……。
弾んだ躰で思った。
そのまま覆いかぶさってきた彼女は、引きつりを縦横に浮かべる両胸のふくらみを揉みしだきながら、狂ったように、さらなる吸引力で私の口中を貪った。
逆に反らされた腰の痛みと、「いけない」の意思が、彼女を突き放す力を与えた。
それでも彼女の半身は、私の腕の長さぶん
私を見おろす挑むような目から視線を離さず、いや、離せずに、継いだ。
「だめ! もうこれ以上だめなんだって!」
彼女からの反応はなく、無音の見つめ合いが続き……。
このままでは一生組み伏せられている。本気で危惧した私には、観念するしか道はなかった。
―――きみの、入学手続提出書類を調べた。
吐露した。
―――きみの母親が役員となっている不動産関係の会社の名称は、私の父親がつくったものと同一だった。
父親は、私の母が亡くなると、家を出て愛人のもとへ向かった。
それを機に、私は父方の姓から母方のそれへ変えた。
出ていった父親が死んだのは、三年前のこと。
父親がこの家を去ったのは、私が一五のとき。
あれから二〇年。もし出ていってすぐ、愛人との間に子供をもうけたとしたら、その子の年齢は現在、大学生ほど。
そして、私のもとの姓は―――。
「知っていました」
冷静な声がさえぎった。
知っていた……。
つぶやいた脳は、すぐには彼女のいった意味を計りかねた。
「先生もその事実にゆき着いたから、こうしようと決めたんでしょ」
いっときたりとも私から外さない目で送りだされた言葉は、やはり落ち着いたものだった。
わたしが知るきっかけとなったのは、ここへきた最後の日のこと―――。
はじめて訪れたときに抱いた、道すがらの、そして、この家の外観が覚えさせた、既視感。それの理由が、あの嵐の夜に判明した―――。
続けた彼女の告白は、躰の痛みを忘れさせた。
―――雷の光りを受けた踊り場のステンドグラスの、青、赤、黄色が、ふいに想起させた、嵐とは真逆な位置にある「虹」。加えて、ガラスの向うを滝のごとく流れ落ちる雨水。
二つの要素が、意図せず脳裡にスライドさせたのは、D駅駅舎前の池だった。
それは、現在に見るものではなく、あの日目にした、陽光で虹を抱いたもの。
あれは単なる池ではなく、まわりを花壇で囲まれた噴水池だった。
虹、花々の美しさ、そしてはじめて生で見た噴水が、あのときのわたしの足を、相当な時間とめた。
今では経費の問題からか装置自体がとり払われ、水の噴きあがることはない。花壇も跡形はなく、石畳となっている。
華々しさを失くした情景は、それが想い出の地の姿であると、あの荒天の夜までわたしに判断させなかった。
だがここへきて、記憶はすっかり明瞭となっていた。
自分はこの場所へ確実にきている。それは遠い昔。
経年を滲ませる風情から、あのころにもあったと信じさせる特徴的なつくりの駅舎で思いつかなかったのは、建築物など、子ども時分のわたしの興味の範囲外のものだったからではないか。だから、微塵も脳内にとどめなかった。
どうしてきたのか……。
と同時進行していた、
誰ときたのか……。
の謎の解明されるほうが先だった。
つないだ、母よりもふくよかだった手の感触……。
引率者がわかると、脳細胞は芋づる式に、当時の記憶を鮮明にしていった。
末に掘り起こせた、「どうして」の理由は、鼓動をとめた。
その時思った。この頭内の不思議な働きは、わたしの先生に対する本心をたしかめるための、天の計らいによるものだったのではないか……。
姉がほしい―――。
幼き日、わたしは事あるごとに口へのぼらせていた。幼稚園の友だちに、姉のいる子が多かったから。可能だと信じるのは、そのころの年代の子であれば誰しもであろう。
そんなわたしをなだめるためか、あるとき家政婦の塚柄さんはいった。
お姉さんはいる。今は逢えないけど、大人になったらきっと逢えるから―――。
するとわたしはせがんだ。
いるなら見てみたい。逢わなくていいから―――。
とうとう塚柄さんは折れた。
そして連れられてきたのが、この家の前だった。
今でははっきりいいきれる。塚柄さんは適当に家を選んだのではない。D駅までは自宅から電車を乗り継がなければならない。わざわざそこまでして、嘘はつかない。
しかし、姉の姿を見ることはできなかった。
そう都合よくいかないことは、彼女もわかっていたであろう。それでも手を引いたのは、姉が本当に存在することを印象づけ、わたしの気持ちを少しでも落ち着けるためだったのではないか。
ただ、これもふり返ると、塚柄さんの一存でそんなことができたとは思えない。するような人でもない。
姉の存在を明かすことも、おそらく母の了解を得ていた……。
まずは主人である父親に持ちかけるべきことなのかもしれないが、おそらく、「明かさなくてよい」という答えを塚柄さんは予想した。心底ではわたしに実姉の存在を知らせてやりたいという思いを持っていたであろう彼女は、だから母親のみに伝え、それでもNGが出れば、あきらめる腹積もりだった。―――これも推測であることは同様だが、間違っている気はしない。
短くはなかったであろう妾生活の間に、向うに子供のいることは、語られることがなくとも知り得ていたはずの母に、葛藤はあったはず。
許可した結果、いずれわたしがひとり、逢いにいくことになるかも……。そして、妹の存在を知っていたにせよいなかったにせよ、名乗ったわたしに、姉は不快な顔を隠さないのでは……。なにせ実父の妾の子ども。さすれば、わたしに刻まれる傷は、どれほどの深さとなるか……。
だが、母は塚柄さんに頷いた……。
歳を重ね、友だちが増えるに従い、“姉がほしい熱”も知らぬ間に冷めきり、わたしがこの家にひとりで赴くことなど、結局なかった。
嵐の日の翌日、塚柄さんに問い質した―――。
あなたに連れられていったあの日のことを、わたしは覚えている。
大人になったらきっと逢える。あなたはそういった。その約束を果たしてほしい。
わたしの姉は、D駅をのぼったところの屋敷に住む、良木朱美なのだろう。
はじめ口ごもっていた彼女は、
もう子どもではない。知る権利はある―――。
強く向けると、静かに認めた。
その際、姉の存在を知ったいきさつも、彼女は語った。それは父や母からではなく、仲よくしている家政婦仲間からだった。
「こういう体質となったのは、姉への思慕が、心の奥底に息づいていたからかもしれません」
いいながら、私から身のすべてを離した彼女の両腕は、おもむろに自身のセーターをまくりあげた。
自分は母親への思慕からかも……。と思った頭は、とめる意思を働かせなかった。
地獄の苦悩など、彼女は抱かなかった。異形をまのあたりにしても、彼女の想いは変わらなかった。
それなのに、「彼女を手放したくない」という本意を隠しおおすのは、はたして正解なのだろうか……。
彼女の私に対する想い、私の彼女に対する想い。両者がまったくの同一と判明した今、抗う理由などあるだろうか……。突き放すわけを、探す必要などあるだろうか……。
「でも、実のところはわからないし、先天的なものかもしれない。だいたいそんなことはどうでもいい」
静かな声を聞いたとき、彼女の四体にまとわれるものの一切は、消えていた。
しみ一つ見られない、白く美しい人肌。
―――しかし、これはタブー。
いった頭内に、
―――ううん。好きになることにタブーなんてない。
冷静な声音が侵入してきた。
これは私のもの……。
それとも彼女の……。
もし後者であるとするなら、それは実の姉妹だからなせる業なのか。
―――こういう形の姉妹は異形かもしれない。
―――でも、異形だからといって、誰に迷惑をかけるというの。
―――そもそも姉妹の関係に、こうでなければいけないという決まりなどあるの。
続いて響いたのは、私と彼女の、ぴたりと重なった声で……。
そして合わさったのは、それだけではなく……。
知らぬ間に、すべてをベッド上に横たわらせていた私の裸体に、彼女の裸身は密着していた。
彼女は全身で、変色と引きつりを広げる躰を慈しんだ。
わたしも彼女の背中にまわした腕を離さなかった。
今までと微塵も変わらない熱情で同調する蠢きは、ようやくの出逢いを喜ぶ、実姉妹の会話だった。
閉じた瞼から自然と流れ出た涙は、快楽からではなかった。
熱い吐息の隙間に洩れる囁きが、「センセイ」から「お姉ちゃん」に変わった。
異形にしか惹かれない
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