【九沓・5】
【九沓・5】
白由が丘駅まわりの人混みを思った頭は、時間的にも余裕のあったことから、待ち合わせのD駅まで徒歩を決めた。店から距離はあるが、歩けないことはない。
本来であれば喜楽に満ちるはずの旧友との再会は、残念ながら緊張感しかもたらしてはおらず、その感覚が呼んだのか、今まで幾度も脳内で反芻し、しかとその壁面にこびりつかせていた老家政婦の衝撃的な話を、道すがら、意識は自ずと再浮上させた。
朱美が自殺未遂にいたった理由―――。
当時、毎日風呂を沸かすのも、もちろん家政婦の仕事だった。
しかし、どうしても外せない自身の用事から、浦川さんははじめて自ら申し出た暇をその日もらっており、風呂場の役目もはたせなかった。
かわりに湯船へ火を入れたのは、朱美の母親だった。
浦川さんも休みの日である日曜日は、当然風呂を沸かす家政婦はいない。だから、母親がその役目を担う。
浦川さんのやり方を踏襲した週一回の彼女の仕事に、その日までミスはなかった。
だが、油断はいつ襲ってくるかわからなかった。
不動産関係の仕事をしていた朱美の父親は古色なものが好きで、屋敷の内部もなるべく昔の風情を残した。それは風呂場も同様で、浴槽には温度設定機能などついておらず、沸くまでのおおよその時間をこちらで計らなければならなかった。
浦川さんは湯加減を見るまで、決して朱美を風呂場へ近寄らせなかったし、近寄ってもいけないと強くいった。
これは守った朱美だったが、自分の目がちょっとでも離れると、一気に浴槽の
てっきり湯加減は見られた、と思ったのかどうなのかは定かではなかったが、ともかくも、その悪癖と母親の油断の重なりが、事故を誘った。
朱美が小学生にあがってすぐのときだった。
足を滑らせてなかなか出られなかったらしいが、幸い表に出ていた母親譲りの美形の顔と両ひじから先だけは難を逃れた。
神の情け……。
そう思うとともに、
自分が暇などもらっていなければ……。
浦川さんは悔やんでも悔やみきれない想いにさいなまれた。
また、そろそろ古い風呂のシステムだけは換えようか、という話が持ちあがっていた矢先だったということも、悔いに輪をかけた。
悲劇から時を置かず、浴槽がとり払われた。朱美が怖れるだろうという配慮からだった。
以来表では、朱美は両手と顔以外の部分を隠して生活した。
学校は事情を汲みとり、体育の時間はそのままの服装が許可され、プールの授業も免除された。
けがをしているから―――。もちろん、まわりの生徒たちにも知らされていた。
みなからは同情の思いを寄せられた。―――が、一方で、夏冬問わず隠されている身への好奇は、“気の毒”の裡にしっかり秘められており、その欲を抑えきれず、執拗に服の下を見たがる者も少なくなかったらしい。
ゆえに、いじめこそなかったようだが、朱美は友だちとのつき合いを避けるようになり、放課後は即帰宅し、ひとり部屋にこもった。
そこですることといえば、昔から好きだった絵を描くことだった。
歩行者用信号の点滅が、足をとめた。
どことなく陰のある子。私の朱美に対するイメージだった。
おそらく、冷たくも感じる美形がもたらすのだろう。そう思っていたのだが……。
ふり返ればたしかに、大学時代、顔と手以外をさらしている彼女の姿は見たことがなかったような……。
それでも一切不審に思わなかったのは、
陽に焼けるのが嫌なんだろう。
冷え性なんだろう。
大人の女の思考が働いていたからではないか……。
当然のごとく、母親は自身を責め続けた。
その心の状態と、事故以来、急速に冷えていた夫婦関係が祟ったのか、心身ともに弱っていった彼女は、とうとう病魔に連れ去られた。もともと躰の強い人ではなかった。
朱美が一五歳のとき。自殺未遂が始まったのも、そのころから。
母親の死がきっかけであることは明らかだった。
母親が亡くなると、父親が帰宅する日は徐々に間隔が空き、とうとう、屋敷と、朱美が一生困らないだけの財産を置いて出ていった。残されたものには、「朱美が望む限り、面倒を見てほしい」という断りも一緒にあり、だから、一生困らないぶんの中には、浦川さんを雇い続けるための費用も含まれていた。
愛人がいることは、朱美も察していたようだった。
父親は当初、朱美に仕事を継がせようと考えていた。居間でのほろ酔い時、給仕をする浦川さんに、たびたび嬉しそうにそう洩らした。ただ、高校にあがるまでは当人には黙っているつもり、と。
だが、どんな理由があろうと、自殺を試みるような不安定要素のある娘には無理と判断した。また、顔はよくとも、事故のあの躰では有能な婿養子もとれはしないと考えていた。だから捨てた―――。
浦川さんの想像ではあったが、自殺未遂があってからの、父親の朱美に対する態度の変化が間違いのない証拠だと彼女はいった。目に見えてよそよそしくなった、と。
父親の所行をいさめる親族などいなかった。むろん、家政婦が意見できるはずもない。
浦川さんが所帯を持ってからも、ずっと仕えてもらおうと考えていたらしい父親は、だから彼女のため、屋敷の近くに、小さいながらも一軒家を用意した。雇われてから、そう月日も経たないころだった。
彼女はこの破格のもてなしを恐縮千万で辞退したが、「すでに購入してしまったのだから」の強い勧めは、抗う気持ちを結局しぼませた。
ゆえに、父親には多大なる恩を感じていた浦川さんだったが、
娘は自分の跡を継がせるためだけの存在だったのか……。
生まれた疑心は、それまでの感情を、「軽蔑」「憤り」の念に、ほぼ塗り替えた。
父親に捨てられたことを当然理解しただろう朱美は、姓を母方のものに変えたいといった。
年齢的に、法定代理人の必要もなく、手続きはたやすかった。
シグナルが私のためだけに変わった。
ゼブラを吹き抜ける一一月頭の寒風は、今、コートの表面ではなく、心の奥底をなでるようで、この身を寒さではなく、改めて募らせていた哀切で震えさせた。
すでに正妻となっていた父親の愛人が、子どもを産んだ。
知らせたのは、懇意にしている家政婦仲間の塚柄氏だった。
彼女がその家へ勤めだして、そして、父親がこの屋敷から去って、一年と経たないころのこと。
新たな跡継ぎをすぐにつくったということか……。浦川さんは思った。
塚柄氏が前雇い主夫妻から暇を出されたのは、高級老人ホームに移るという理由からだった。
すぐ次の勤め口を家政婦斡旋所に頼んだ彼女のもとに折り返しの連絡があるまで、たいして日は空かなかった。非常に真面目で家政婦歴も長い彼女を斡旋所も知っているので、優遇されたのだろう―――と、浦川さんの談だった。
塚柄氏は新たな職場に移ったことを、仲のいい浦川さんへいの一番に伝えた。
その主人の名前、仕事、会社名を聞いたとき、「まさか」浦川さんは思わず声をあげてしまった。
出ていった朱美の父親の家であることに、間違いはなかった。
驚きを問われ、父親が出ていくまでのなりゆきを明かした。信頼でき、長年の友人であった塚柄氏へ、ためらいはなかった。
元愛人のはじめての子供は、女児だった。
血のつながった妹ができた。それを朱美に知らせるべきか……。
十二分に考えた末、「否」を選んだ。
財産は残してくれても、当然恨みは消えていないであろう父親の、新たな子どもの存在など知りたくはないのでは……。
ただ万が一、なにかの弾みで妹のことを朱美が知るにいたり、そして「逢いたい」といったら……。
あり得るとは思えない想像ではあったが、妹の氏名、現在の父親の住所だけは塚柄氏に問い、そのメモを、自宅のタンスの抽斗に通帳とともにしまった。
父親の死を知ったのも、塚柄氏からだった。三年前のこと。
業界では顔の広い人物だったので、新聞の訃報欄にも載った。なので、塚柄氏からの情報であることを明かすことなく、朱美に実父の逝去を知らせることができた。
朱美に特段の反応はなかった。
先代は戦後の闇で儲けた資金を元手に、土建屋を始めた―――。
建設ラッシュに乗り、仕事はうまくいった―――。
自分の代になって不動産関係の仕事にも手を広げ、これまたうまくいった―――。
当の父親本人から聞いた浦川さんは、代々商才に長けた血筋だったのだろう、と語った。
母親は、もと華族の家柄の娘だった。宮家へ嫁ぐ話も出たことがあったらしいが、頓挫したのは躰の弱さゆえだったようだ。これも浦川さんが父親の口から耳にした。
美しい人だったので、それでもほしいという男は多かったろう。が、父親と一緒になったのは、金が決め手ではなかったか……。というのは浦川さんの見立てだった。もと華族とはいえ、母親の家庭は決して裕福ではなかったらしいので。
そんな家の出だからかはわからないが、母親は家事洗濯を厳しく仕込まれたふうではなかった。加えて屋敷も広かったゆえ、浦川さんが雇われた。
父親は五つほど年下の麗しい容姿を、飾りのごとく、仕事関係者に見せびらかせた。母親も、そんな扱われ方が嫌ではない感じだった。
歩道の自販機の前で立ちどまった―――。
乾燥した空気に虐げられ続けていた喉は、すでに限界を訴えていた。
わずかばかり緊張を和らげたように感じた熱い緑茶は、続いて耳介に、浦川さんの不安げな声を再生させた。
『……あれってなんなんでしょうか』
小ぶりのペットボトルはそのままコートのポケットに入れ、カイロがわりにした。待ち合わせの場所までは持ちそうな温度だった。
積みあがった心配が忍び込ませた屋敷で、浦川さんが見たものは―――後ろ姿だった。
瞬時朱美かと思ったのは、その歩き方と、寸前にアトリエ方向からのドア音を聞いたからで……。
しかし、彼女でないことは明白。朱美はあんな躰をしてはいない。スタイルも違う。
一見、人の形はしていた。だが、異様極まりないあの姿は、妖怪や物の怪の類としか考えられない。
古い屋敷。魑魅魍魎が住み着いていても不思議ではない。
あれ以来、お屋敷内に気味悪さを感じて仕方がない。
もしや、住み着いていたものが朱美にもとり憑き、どういったわけでかは知らないが、数日の暇をたびたび出すという不可思議事を行わせているのではないか……。
そしていずれ、本当に自殺という形で、朱美を亡き者にしてしまうのでは……。
やはり神社やお寺に相談に行くべきか……。
荒唐無稽な想像だったが、浦川さんの自嘲の欠片も滲ませていない表情を目の前にして、破顔することなどはばかられた。
とり憑かれているいないにせよ、“あれ”が見られることを避けるために暇が出される。そう結論づけた浦川さんだったので、
募った心配でお屋敷へ伺った際目撃したのですが、あれは―――。
など、とうてい朱美に問い質すことはできなかった。できたとしても、「なんのことだかわからない」笑ってしらを切られるに決まっている。
しかし、このままでいるのは不安であるし、怖ろしい。
どうしたらいいだろうか……。
藁にもすがる目は、気の毒さを増幅させた。
さすがに妖怪変化などではないだろう……。思いながら、どのような異形だったのか質した。
そして返ってきた様相は、瞬時に閃かせた。
おそらく……。
自分の推測があたっていれば、浦川さんはなにも心配することはない。朱美も自殺などしない。
とはいえ、導きだした解答を提示したところで、「ああそうだったのか」と、彼女は簡単に膝を打つだろうか……。
自分の母親と同じほどの彼女が、そんな行為の存在していることを、素直に受け入れるだろうか……。
受け入れたとしても、それはそれであり、朱美に対する心配が冷静さを薄めている今、自分の見たものはやはり妖怪の類、との考えは固持するのではないか……。
とするなら……。
「もう一度忍び込んで、今一度しっかり確認したらいいのではないでしょうか。異形が本当に妖怪であるか、それとも、本当に人間の友人なのであるか」
浦川さんに安堵の吐息をつかせるにはこれしかない、という提案に目を見開いた彼女は、その口から、「友人?」ともこぼした。
浦川さんひとりでは足がすくむだろう。それに、
「どんな理由があろうと、長年あなたに尽くしてきた歳老いた彼女を心配させるのは、気の毒すぎる」
と、旧友へ意見する気持ちが固まっていた私は、だから強い声で約束した。
―――同行します。
実行すれば、忍び込みはばれる。ばれたほうがいいと思った。
「忍び込むほど、浦川さんはあなたを心配しているの」
そう訴えるつもりだった。
だから、次に暇の出される日が決まれば、すみやかに連絡を欲しいと告げた。
頷いた浦川さんの表情に、微かな明りがやっと灯った。
異形を見たのは夕暮れ時。なので、同じ時間帯がいいのではないか―――。
在宅中の朱美は、玄関に必ずチェーンをかける。それゆえ侵入は、直接表へ出ることのできる女中室からしかない―――。
そこへはまず立ち入らない朱美なので、スタンバイが可能―――。
女中室のドアは、裏木戸をくぐってすぐである―――。
浦川さんの真剣な声に耳を傾けながら、自分の推測に確たる自信を持っていた私は、一方で浮かべた。
だとして、朱美は、なぜ暇を出すのか……。
後ろめたいことでは決してない。
この事態は、当然心配をともにしている美緒にも伝えなければならない。
ドアベルを鳴らした浦川さんの背を見送ると、クローズの札を出し、携帯を開いた。
ダイヤルの理由は、当初企んでいたものから大きく変わることとなった。
逆に、すぐに聞こえた美緒の声は、今までとまったく変わりはなかった。
長年のライバルにして友人を失くし、まだ一月ちょっと。悲しみが薄れるわけはない。それでも変化を感じさせないところは彼女らしく、安心もした。
どうしてた? などあえて持ちださず、再会できた浦川さんからの告白をさっそく話し、“異形”に対する自分の推理も添えた。
―――まず間違いないと思う。
同意した彼女だったが、暇を出す理由については、やはり思いつかなかった。
そして、私が朱美に意見する心積もりであることを知ると、
―――あたしもいく。
力強く返してきた。
弁が立つ美緒の同行はありがたかった。
ただ、自分はいつでも店を休むことができるが、会社員の美緒は土日しか躰が空かない。
なので、“暇”の報告があっても、実行は週末に限られてしまうということか……。
と思っていると、
―――前日の連絡でなければ、平日でもまず空けられる。
再び嬉しい言葉がよこされた。
ところが、携帯の連絡先を交換した浦川さんの声は、それからなかなか聞くことができず……。
もう暇は出されなくなったのか……。
浦川さんの心配が排除されたのなら、それに越したことはないが……。
思いながらすごした日々は、しかし、ずっとは続かなかった。
洋館風の駅舎の入口に、浦川さんはすでに待っていた。
深々と腰を折った彼女の顔は、案の定硬かった。
一緒に向かいますので―――。
そう浦川さんに伝えていた美緒の姿も、待つことはなかった。
初対面の感覚であろう浦川さんと挨拶を交わす彼女の変わりのないようすは、改めて安堵をもたらした。
後から構内より出てきた乗客幾人かの手に、熊手があるのを見た。
酉の市……。
もう、そんな時期か……。
暮れかかる陽の中で思った。
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