【良木・5】
【良木・5】
葛藤の日々は、今日終わる。
あの嵐の夜に聞いた彼女の告白は、私の全神経を凍結させた。
うずまいた「まさか……」の気持ち。
と同時に脳髄に表出した疑心。―――もし、父がこの家から出ていってすぐ……。
お門違いとは知りつつも、あんな打明け話をした彼女を恨む気持ちもわいて……。
しかし知ってしまったからには……。
ただ、私の憶測が100%あたっていると決まったわけではない。
彼女の話が、それこそ100%真実かどうかはわからない。
―――いや、彼女がつくり話などする必要はない。
だが、戯れから―――という万に一つの可能性も……。
気持ちは必死に“間違い”という藁をつかもうとしていた。
確認する術はあるだろうか……。末に生じた考えだった。
彼女の家庭内の情報を得るには……。
思いつくものは一つしかなかった。
“入学手続提出書類”
はたしてそこに、私の欲望を満足させる事柄が記されているものだろうか……。
それでも、思いついた以上やってみる価値は……。
決めた意は、私の足をすみやかに事務室へ運ばせた。
生徒の個人情報は、いくら担当教授であっても訊きだすことはできないが、職員にも私のファンはいる。
“間違いのない憶測”に大きく傾斜している心を必死に引き戻そうとしながら、私の要望に案の定頷いた女性職員からの連絡を待った。
くれぐれも外部に漏れないように―――。
必要な情報が得られたら、即シュレッダーへ―――。
囁き声でいったベテラン職員の彼女から、プリントアウトした入学手続書類一式を渡されたのは、その日のうちだった。
どうしてこんなものを? など、一言も口に出さなかった彼女へ、「今度、必ずお礼をする」告げると、眼鏡のまる顔には途端に赤みが差した。
価値はあった。
それは保証人である母親の仕事の欄がもたらした。
とある不動産関係の会社の役員―――。
今でもしっかりと脳裡に残存していたその企業の名称が、私の期待を完膚なきまでに破壊した。
「こんな偶然は、絶対に存在しない」
確信の硬い声が、脳髄を衝いた。
異形と混じり合いたい―――。不埒な欲望を抱かせるきっかけとなった、あの見世物小屋の小屋主は、悪魔だった。
―――いや違う。
愛欲を満たす相手として、「否」を突きつける可能性が限りなく低い須田偉瑠を選んだ、私自身が悪魔だったのだ。
異形となった彼女との営みを続けることは、もうできない。そう決めてからすでに二か月がすぎようとしている。
快楽を味わいたい思いは、消え失せるものではなかった。
愛友を―――。
刹那走った考え。
しかし、一方の自分がすかさず諭した。
ほかの女に手を出すのは、偉瑠に対する裏切りではないか……。
ゆえに、彼女との行為をなぞりながらの、孤独の慰めに走った。
快楽は比べものになるはずもなく、事後に得られていた満足感は、虚無感にとってかわられた。
携帯の向うでさんざん逢いたがる彼女に、「都合が悪い」の一点張りを通した。
学内で私に向ける彼女の目は、いつしか、挑むような、また懇願するような色を携えるようになった。その異様な視線はいずれ、自分たちの関係をまわり中に悟られることへつながるのでは……との危惧を私は強くしていた。
自分はいい。しかし、彼女に好奇の目がいくのは本望ではない。
別れを切りだす決心は早々についていた。が、「彼女を手放したくない」という本心が、どうしても二の足を踏ませていた。
だが、これ以上先延ばしにはできない。お互いの先の人生のためにも。
こっちの申し出に、彼女がすんなり応じるとは思えない。とはいえ、別れを決めた理由はいえない。いうつもりなどもない。明かせば、彼女にまで地獄の苦悩を与えてしまう。
だから今日、こうするしかないと決めた。これを目にすれば、いくら極上の快楽を覚えた彼女でも、私のもとからきっと去る。
玄関のチャイムが鳴った。
壁の時計に目をやった。
午後二時。約束の時間ぴったりだった。
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