【須田・3】

     【須田・3】


 視界にシーリングライトの柔らかな明りが戻った。

「センセー!」

 のけ反る躰が勝手に叫び、すべてが真っ白になっていた時間ときは、いつもはっきりしない。

 収まっていない胸の上下運動からして、そう長い間ではないのか……。

 耳にも嵐の咆哮が甦っていた。

 荒天は夜半すぎまで続く。でも、明日はそれが嘘のような晴れ渡った天候に―――。っていう予報だったっけ……。

 若干朦朧さの残る意識がつぶやいたのは、快楽の波の一旦の収束からか……。

 あの日から幾度、わたしはつくり替えられたか……。

 おかげで、実生活において、顔と手以外の肌をあらわにすることはできなかった。夏場はつらかったけど、文句など露ほどもなかった。好きな人の悦びになるのであれば。

 そしてあの日からどれほど、濡れそぼつ全身を先生の腕の中で狂喜乱舞させたか……。

 快感、悦楽、感動は、今なお、微塵も褪せることはない。

 あの日―――。

 驚くほど見事にわたしを異形へ仕立てあげると、先生は否応なく唇を吸った。

 どうして……。という疑問と戸惑いは、総身を一瞬固定させたけど、 

 ―――そんなことはどうでもいい!

 叫んだ脳は、すぐに両腕を先生に絡ませた。

“はじめての人が、良木教授になれば……”

 希望は、いきなり現実となった。

 夢のような喜びは、初体験にもかかわらず、わたしから羞恥をすっかり奪い、淫らな叫びや、喜悦の噴出を抗わせなかった。

 それには、異形と生まれ変わったことによる、心情的変化も作用していたのではないか……。

 たとえるなら、役者がメイクをし、衣装を身につけた途端、身体的感覚は変わらずとも、普段の自分からはまったく解離した精神的感覚になる―――といったような。

 ただ、役者は芝居のためにそうするのだけど、わたしに行為中の演技など、むろんない。

 今わたしがどうしてほしいのか、言葉にせずとも、先生はすっかり把握していた。

 こちらもお返しを―――と精一杯尽くすのだけど、のぼりつめる回数はわたしのほうが断然多かった。先生もそのほうが嬉しいようだった。

 お酒を挟んでの行為は、「もうだめ」と、わたしの躰に力がまったく入らなくなるまで、延々と続けられる。

 これほど相性の合う人はいない―――。

 先生しか知らないくせに、そう思えて仕方なかった。

 ただ、行為には不向きな先生のスタイルに、多少の残念さは持った。でも、「このほうが燃えるから」といわれれば、「変えてほしい」の要求は出せなかった。

 おそらく、あるじ的な立場を維持したいからではないか……。

 と考えたら、元来M的な性質のわたしは、逆にもっぱら熱くなれたし、だいたい、不向きであっても、充分以上の快楽を与えられている。

 自宅内では、異形のまますごしてほしい―――。

 ともいわれたのは、やはりわたしを、自分の作品と見る一面があったからではないか……。いついかなるときも、つくり替えたわたしを目にしていたい。だから……。

 もちろん、主人には服従した。

 一切の服を身につけずでのあらゆる行動はまた、わたしに興奮をもたらしてもいた。

 そして先生の要望は、ご自宅内に、わたしたちふたりしかいないことを意味していた。

 けど―――、

 なぜか工房内に限っては、

 ほかの誰かに見られているような……。

 の気持ちを、未だ拭い去ることができずにいた。


 鼓動は収まったけど、まだほてりは保ち続ける身でテーブルへ向かった。

 裸の腰を椅子に落ち着かせると、

 ちょっと珍しいのがあったから、思いきっておごった―――。

 一足先にベッドを離れていた先生が、柔和な表情で、薄い琥珀色の液体を二つのグラスへ注いだ。

 ワインの銘柄など全然詳しくなかったので、それがどれほどの珍品なのかはわからなかった。だけど、先生の出してくれるものはすべて、間違いのない味であることは知っていた。

 お酒を楽しめる体質でよかった。

 酒宴のたびにつくづく浮かべていた思いが、なぜか今日に限って突然、父の姿を同じ頭内に引いた。

「おごった」という言葉が、“高級酒”と結びつけたからか……。

 そう、わたしがお酒をたしなむようになったきっかけは、父が居間に残した来客用の洋酒だった。

 すると、

 今こそ明かすべきでは……わたしの生い立ちから今までのことを。

 父の面影を脳裡に再生した意識は、囁いた。

 仲のよい明里や静乃にも、未だ話したことはなかった。

 口にのぼらせる必要なはいのかもしれない。でも、

 先生とずっと一緒にいたい―――。

 新たな希望が芽生えていた以上、自分の恥部といっていいものを包み隠さずに明かすべきではないのか……。

 この身同様、知ってもらうべきなのではないのか……。

 それこそが、真に先生を慕う者の姿なのではないか……。

「父が生きていたら、先生と出逢うことは叶わなかったかもしれません」

 辛口のワインで口を湿らすと、ゆっくり言葉にした―――。

 不動産関係の会社を経営していた父は、裕福といっていい生活を与えてくれたこと。

 しかしその環境ゆえ、小学生時代、ねたみそねみからいじめに遭ったこと。

 末には、「妾の子」といわれたこと。

 厳密には事実ではなかったけど、母が父の愛人だったのは真実だったこと。

 家には家政婦もいたこと。

 彼女はわたしのよい理解者、かつ親しい友人でもあったので、寂しさや悩みなどまったく覚えなかったこと。

 小学生時代の経験から、以後、入った中高一貫の女子校では、友人はつくらなかったこと。

 ただ、高校にあがると、大きな悩みができたこと。

 それは、進路についての父との考えの相違。

 それまで何事も自由にさせていてくれた父だったけど、この件に関してだけは譲らなかったこと。

 そんな父が突然他界したのが、もうすぐ大学の願書提出というころだったこと。

 母のひどい落胆を見て、自分がしっかりしなければ、という気持ちになると、クラスメイトたちからのいじめに対する恐怖など、なくなったこと。

 ともかくも、結果的に、希望する大学へ進めたこと。

「だから、先生と出逢えたのは、運命だと信じているんです」

 そう締めくくると、二口目を吸った。

 幸い舌は、酔いに邪魔されることなく、理路整然と語ることができた。

 じっと黙って耳を傾けていた先生の口も、告白の間、一度たりともグラスには触れなかった。

 カーテンの引かれた窓を打つ強い雨音だけが、しばし工房内を好きにした。

「だから、これからもずっと先生と―――」

 意を決し、三口目を飲み込んでから送りだした願いは、しかし、

「シャワーを」

 最後までを許さなかった。

「えっ……」

「シャワーを浴びてらっしゃい」

 先生は、視線をよこすこともなく命じた。

 シャワーは慈しみ合いの完全燃焼後、と決まっていた。でもその状態まで、少なくともわたしはまだ半分も到達していない。いつもの行為から考えても、先生もしかりなのでは……。

 なのに……。

「あ、申し訳ない。今夜はどうしてだか、疲れが出てしまったようで……。仕事が立て込んでいたからかも……」

 わたしの不審を感じとったかのように答えた先生は、「申し訳ない」と今一度くり返し、やっとグラスを傾けた。

 疲れている―――。そう主いわれ、わがままなどいえるはずもない。

「はい……」

 グラス内を一気に空け、再びほてりを強くし始めていた躰をドアへと向けた。


 まだ暑さの退かない九月頭でも、ひんやりとした空気の淀む廊下や階段に不快さはなかった。

 二階にある浴室は、いつもひとりきりで使った。

 先生と一緒にシャワーを……の思いはあったけど、

 これも、主的と考えるあのスタイルを崩したくなかったゆえの選択だったのだろう……。

 と推測し、意思は伝えなかった。

 ただ、浴室の妙なつくりについては質問を投げた。

 両親のやったことだからわからない―――。

 単に広々と使いたかったからではないか―――。

 返った答えは、納得のいくようないかないようなものだった。

 でも―――「疲れてる」は、本当だろうか……。

 踊り場へ足をかけると思った。

 そこの上方にさがる小さなシャンデリアは、不安な足どりとならない程度に絞られた明りを、階段全体に広げていた。

 本当でなければ、理由は……わたしの吐露。

 その中で引っかかったと思われるのは―――、

「妾の子」か……。

 わたしの一般的ではない生い立ちが、嫌悪感を持たせた……。

 ううんっ。

 心中で強く首をふった。

 先生はそんな偏見を持つ人じゃない。

 それに、事実はそうではなかった、とも話した。

 だけど……だったら……。

 いつからか響いていた雷鳴が、一段と大きな叫びをあげた。

 それが模索の意識を、踊り場にはめ込まれたステンドグラスのまる窓へ移した。

 と、

 あっ……!

 すかさず胸中で声を立てさせ、しまい込まれていた記憶の断片を突如引きだしたのは、滝のような雨の流れを向うに見せる、雷光に照らされた着色ガラスだった。

 次いで、あらわとなったその想い出は、

 わかった!

 たちまち脳内に、雷以上の閃光を轟かせた。

 ただ、判明したのは、先生の不可解な態度のわけについてではなく―――、

 先生のお宅へくる道すがら、そして、立派な門扉を見たときに感じたデジャヴュの意味についてだった。

 ということは……。

 急浮上した驚愕は、わずか前まで抱いていた不安を瞬く間に沈め、それからどれほど踊り場にたたずみ、どんな足どりで浴室へ向かったのかを、定かにしなかった。

 動揺は、熱いシャワーをいくら浴びても、流し落とせるものではなかった。

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