【寺・1】

     【寺・1】


「今日の来館者は、午前中に数人の学生のみ」

 控室でそうぼやき、一足先に帰っていった受付スタッフの顔には書いてあった。

『嵐の予報は前から出てたんだから、臨時休館にすればよかったのよ。そうすりゃあたしも、こんな中こなくてよかったんだから』

 それをおしゃべり好きな二〇代の彼女が口に出さなかったのは、私の立場をおもんぱかってのことでしょう。

 目的の最終バス到着時間にちょうど合うよう見計らい、通用口を出た。

 九月の頭のこの時間では、まだそう目立つことのない標識柱の明りだけど、今日はその存在を明瞭にしている。

 歩いて五分ほどのバス停―――《美術館前》。

 バスはそこを折り返し点として、最寄りの私鉄駅へと戻る循環路線。

 なので、《美術館前》では時間調整がなされ、ダイヤ通りの乗車が確実。

 一時間に一、二本のダイヤの、最終が七時前というのは、むろん、それ以降の利用客がこの路線ではほぼないから。

 駅までタクシーで……。

 と、退勤際に浮かんだことは浮かんだ。

 でも―――、

 閉館後の時間、美術館裏口付近を流すタクシーなどまずない。拾うには大通りまで出なければならず、通用口から一〇分は歩く。ただ、歩いたとしても、こんな日、たやすく捕まえられるとは思えないし、呼ぼうにも、やはりどれだけ待たされるか……。いつまでも館内に残っているわけにはいかない。

 ―――という、まず間違いないと思われる予想から、この選択肢はすぐ却下された。

 自家用車があればな……。

 の嘆きと、

 本当だったらこんな目に会ってなどいなかったはずなのに……。

 の憤りを、今日何度くり返したか。

 背後に広がる巨大な清掃工場、片側一車線を挟んでの、同規模の花卉・青果市場は、この時間稼働していないようで、出入りのトラック、人影は、まったくない。

 普段ではなんとも思わない帰宅時の風景―――。

 でも今日に限っては、そこはかとないもの淋しさを覚えさせていた。

 斜めに吹きつけてくる雨に、バス停の小さな屋根は役に立つはずもなく、傘は差したままでいた。しかしそれとて、前後左右、ふいに襲ってくる風が雨具をもてあそび、「せめて頭部だけでも」という望みを、ことごとく粉砕していた。

 そんな失望感の隙間―――、

 意識は絶えず、同じように屋根の下で傘を開いている先客へ向けられてもいた。

 今、最後の一本を待っているのは、ふたりのみ。私と、全身真っ黒の服に身を包んだ、彼女。

 ―――明らかに喪服。

 頭を傘布にくっつけるほどにして差し、車道に身を向けている彼女は、だから顔などわからないけど、そのスタイルから見て、若い女じゃないだろうか……。 

 近くに寺院や斎場などはない。では、これから通夜にでも向かうのか……。

 でも―――、

 どうして真っ赤なスニーカーなの……。

 礼装用の靴を濡らしたくない……? しかし、彼女の片手にある、これも礼装用のハンドバッグは、替えの靴の入る大きさじゃない。だいたい、スカートの大部分は雨でさらに黒色を深めている。スカートは濡れてもよくて、靴はダメ、という線引きは、変じゃない……?

 そもそもよ、こんな日、そういった儀式に向かうのであれば、自家用車がなければ、まずタクシーを使うんじゃ……。私だったらそうする。

 じゃあ、彼女もさっき私が浮かべたのと同じような判断をくだしたのか……。

 と、推測をもたげたとき、

「寺さん」

 いきなりの声に跳ねあがった心臓は、傘の下からちらちらと投げていた視線を固着させた。

 三人ぶんほど空けた間隔の向うで、喪服姿がゆっくりとふり向いた。

「……刈麻かるまさん」

 あげた傘の下に現れたのは同僚の顔だった。

「どうしたの?」

 問いが大きく出ていたのは、激しい風音のせいじゃなく―――。

 体調不良ということで彼女が職場を離れてから、少なくない日にちが経っていた。事務のほうが連絡を入れても、なかなか回復までにはいたらず、もう少し休ませてほしい、という答えが毎度返ってきていた。センシティブな件なので、病状は問えなかった。

 だから、彼女の担当と決まっていた次回の展示企画を、このような事態ゆえ、急遽私がかわって受け持つこととなり、前々から申請していた今日の休みも、叶わなくなったのだった。

 当然、保管庫内の資料をあさるため、リモートワークなどでは対応できない。

 こんなことがなければ、今日一日彼とすごし、明日もそのまま一緒に自分たちのパーティーへ向かう段取りだった。

「なんでこんなところに?」

 なかなか答えを返さない彼女へ続けた。

 彼女の自宅は、バスと電車を乗り継いでずいぶんとある。散歩がてらくるところではない。だいたい、こんな日に散歩などする人間はいない。しかもそんな装いで。

 と―――投げたその質問が、脳を衝いた。

 面と向かって謝りにきたのかしら……。さっぱりとした気持ちで明日のパーティーに参加するために……。

 企画展示は寺さんがかわることになったから安心してほしい―――。

 そういった連絡を、事務のほうから彼女は受けたんじゃ……。

 そしておそらく、今日も最終のバスまで私が仕事をしていると踏んだんじゃ……。

 私の結婚が決まってから、彼女のようすになんとなくおかしさを感じるようになった。会話が少なくなったというか……よそよそしくなったというか……。

 これは彼女に限ったことで、一緒に合コンへ参加したほかのメンバーにはまったく見られなかった。

 あの会の主催者であった彼女は、もしや彼を狙っていたのかしら……とも考えたけど、すぐ「否」の答えを出した。そうだったとしたら、合コンなんて企画せず、個人的にアプローチすればいい。

 とすると、単に、私ひとりだけがうまくいったことに対する、嫉妬か……。と、意識は向きを変えた。

 同性として、充分理解できる。事実私自身、結婚していった友人、同僚に、そういった心情を抱いたことはあった。もちろん、彼女らの前では必死に押さえ込んだけど。

 でも、押さえ込むことができなかった彼女は、それを恥じ、こうやってこうべを垂れようとやってきたんじゃ……。

 気の合っていた彼女との関係がこんなことになるのだったら、合コンなど参加しなければよかった……。

 とため息をつき、

 でも、そうすると彼と出逢うこともなかった……。

 と天を仰ぎみもした私は、途端、喜悦を含んだ安堵を込みあげらせ、

「躰のほう、もういいの? 実は明日のパーティー、出席の返事もらってたけど、大丈夫かなって思ってたの。でも、元気そうで安心した」

「―――今日が明日じゃなくてよかったわね」

 やっと反応が返った。

 今日が明日……?

「もし明日が今日だったら、誰もきてくれなくなっちゃうかも」

 天候のことをいっているのかしら……。

 予報では、明日は今日の天気が嘘だったような晴天に恵まれるということだった。たしかに今日じゃなくてよかった、と胸をなでおろした。―――けど、それにしても、ずいぶん失礼な言い種じゃない?

 さっぱりした気持で―――。

 私の思い描きは、まったくの見当外れだったようだ。

「どの道、あたしは参加できないんだけどね」

 平然といってのけた彼女の視線は、私の顔には向けられず、そのわずか下の首もとに、ずっと添えられている。―――無表情を崩さず。

「……そお……なの……」

 おかしい……。

 いや、それにはすでに気づいていたはず。

 今、ここにいることもさることながら、彼女の服装―――。

 さっぱりした気持で―――。それを想像させたのは、この“おかしさ”を覆い隠そうと、我知らず努めたためか……。 

 だから努力が破綻した今、“不気味”という意味での“おかしさ”が、前面に躍り出た……。

 バスはどうしたのよ……。

 突如問いが走ったのは、どこかで危機意識が働いたせい……?

 最終の到着時刻はもうとっくにすぎている。腕時計を検めなくともわかる。

「これからね、彼の部屋にいくの」

 尋ねもしないのに切りだしてきた。

 彼の部屋―――。

 彼といえば、普通恋人のことだろう。

 初耳だった、彼女にそんな人がいたなんて……。

 いや、それはそうと、そのかっこうでいくというの……。

 絶対におかしい……。

「そして彼の好きな料理、たんまりとこしらえて、一緒に食べて、お酒も飲んで、お泊りするの」

 私の首もとから視線を離さず淡々と話した彼女の面には、嬉しさも恥ずかしさも覗けず……。

「そしていずれ、あたしたちは一緒になるの」

 と、変えない顔色で続けた彼女は、そこで言葉を切った。

 強風の音の中に間が流れ―――。

 彼女から話が再開されそうな気配はなく―――。

 生まれていた怖れを含む不安が、口を開かせた。

「―――それはおめでとう。でも、知らなかった。いつできたの? 恋人」

 意図せず大げさな、芝居がかった物言いになってしまった。

「……これからなの」

 これから……。

 どういうこと……? 

 どういう意味……?

「ああ、この服装? これはせめてもの礼儀だと思って」

 訊いてもいない話題の変化は……やっぱりおかしい。

 バス、まだ!?

 車道の向うに目を投げたかったが、彼女から視線をそらすことはどうしてもできず……。

「彼、以前あたしの友だちとつき合ってたの。結婚の約束もしたの。でも、事件が起こって、ないことになっちゃったの」

 事件……。

「その事件が起こってから、あたしがなぐさめてあげたの。そしたら自然といい関係になっちゃって、あたしが一緒になることになったの」

 自然のなりゆきよね―――。

 風にあおられる傘などに頓着するふうもなく、やはり棒読みのような口を利いた彼女だったが、

「彼、すっごくタフなの~」

 途端、口調を熱く甘ったるいものへ変えた。

「彼の部屋にいくと~、昼夜関係なく挑んでくるの~。後ろからいきなり胸つかんできたり~、正面から抱きすくめられて、唇むさぼられたり~。

 衣服は彼が剥ぐときもあるし~、あたしから脱ぐこともあるの~。だって、あたしも大好きだから~」

「な、なんの話……」

「愛撫もすっごい激しいの~。彼、あたしの隅から隅まで揉みしだいて~、舐めまわしてくれるの~。だからあたしも負けずに~、彼の隅から隅まで舐めて~、何度も彼を飲むの~。彼もあたしを飲み干すの~。

 ベッドの上でもキッチンでもお風呂でも玄関でも、彼、すっごい勢いで腰ふるのよ~。もう、あたしの骨盤が壊れちゃうぐらい突くのよ~。いっつもあたしの中に出してくれるのよ~。あたしも彼の上に乗って~、腰振るのよ~。もう裂けちゃうぐらい動かすのよ~。こうやって~、こうやって~」

 と、彼女は私の目の前で、スカートの中の腰を前後に強く揺らした。

 恐怖を孕む衝撃が、制止の意識など飛ばしていた。

「こうやって。こうやって」をひとしきり続けた彼女は、つとその卑猥な動きを終了させると、

「ふたりでイってから~、いつも彼、あたしを腕枕していうの~。

『あんな女より、おまえのほうが断然いい。食事の味も、目合まぐわいも。

 あれは見た目と同じく、つくるものも地味。ベッドも地味。面白味もへったくれもなかった。

 どうしてあんな地味な女と結婚しようと思ったのか。

 事件が起こってくれてよかった』って~。

 そしてそれからまた~、たくましさをとり戻したジュニアを~、彼、あたしの中へ突き入れてくるの~」

 返す言葉などあるはずもなく、再びの真空が、ただ私たちの間に訪れた。

 彼女は確実に、今までの彼女じゃない。

 私の知る彼女は、いくら酔いの席でも、こんな破廉恥極まりない話をする人じゃなかった。

 休んでいる間に、彼女になにがあったの……。

 こんな短期間に、人間とは狂うものなの……。

 バスはまだなの……!?

 相変わらずふたりきりの屋根の下に、ほかの誰かが入り込んでくる確率は泣きたくなるほど低い。

 いや待って―――。

 バスがきたとしても、彼女が去るとは決まってないじゃない。

 ううん、彼女の目的は完全に私なんだから、そのまま一緒にタラップを踏むに決まってる。

 そもそも今、最終バス以外に、帰宅する交通手段はない。

 じゃあ、どこまで同伴するの……。

 傘を持つ手に一層の力を込めた。

 こうなれば、バスは捨てる……。

 では、そしてどうする……。

 と、脳はすぐさま答えを出した。

 ―――館内に忘れ物をした。

 という理由での、職場への避難。

 警備員は二四時間常駐している。だからわけをいえば入ることはできる。

 でも、

 ―――だったらあたしもつき合う。彼は逃げやしないから。

 私が目的の彼女なら、確実にそうなる。

 断る理由……考えつかない。

 であれば、同行させ、

 この人はおかしい。だから助けて―――。

 警備員に訴える。

 ―――いや、彼女を横にして、そんなことできるとは思えない。すれば、それこそなにをされるかわからない。

 逆に、彼女も学芸員であることを当然知っている警備員は、私の神経のほうを疑うかもしれない。

 走って逃げる……。

 だけど、それが刺激となって、やはりなにかをされたら……。

 だいたいこっちはパンプス。スニーカーの彼女を引き離すことなどできるか……。 

「その事件てね―――」

 今度は彼女が沈黙を割った。

「彼の結婚パーティーの前の日に起こったの」

 彼女の顔はなぜか再び、真っ赤な傘に隠れていた。

「あれは嵐の日だったの。もう、笑っちゃうぐらい荒れた夜だったの」

 と続けた彼女は実際に、

“ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィ―――”

 狂ったような笑い声をあげた。

 えっ……。

「あれは嵐の日だったの。もう、笑っちゃうぐらい荒れた夜だったの。ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィ―――。

 あれは嵐の日だったの。もう、笑っちゃうぐらい荒れた夜だったの。ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィ―――。

 あれは嵐の日だったの。もう、笑っちゃうぐらい荒れた夜だったの。ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィ―――」

 壊れたレコードごときとなっていた彼女は、私に金縛りをかけていた。

 真っ赤な傘が強風に奪われた。いや、あえて彼女は手を離したのか……。

 今日はじめて、彼女の両眼が私の瞳に重なった。

 感情の色などなかった。

 壊れたレコードを消していた彼女は、視線を外すことなく、空いた右手でハンドバッグの蓋を開けた。

 刹那、真っ黒なそれの中に、“鈍く光るもの”を透かし見た気がした。

 それは、事故に遭った地味な女が誰であるのか、すでに見当がついていたからか……。

『なぜあんたが』

『なぜあたしじゃないの』

『こんなことあり得ない』

『あっていいわけがない』

『ふざけないで』

 無感情の顔は、私の頭の芯に、温度のない声をくり返し刺し続ける。

 やはり、嫉妬だったんだ……。

 嫉妬とは人をここまで追い込んでしまうものなの……。

 いや、追い込まれたんじゃない。嫉妬に彼女は飲み込まれたんだ。

 飲み込まれた彼女はいつしか自身を失い、ついには、嫉妬を「憎悪」に昇華させていた。

 その変容は、相手が私じゃなければなされなかったんじゃ……。

「地味な女」―――まわりのほとんどの人にそう認識されている、私じゃなければ……。

 地味な女は事故に遭ったんじゃない。事件に―――それも、これから遭うんだ……。

 猛烈な焦燥に駆られる中、“光るもの”はつと、

 そうか……。

 べつの思考を引きだした。

 せめてもの礼義―――。

 恋人の部屋へいくのにふさわしい服が喪服。おかしくなっている彼女の脳内がそう判断しているからこその、その台詞だと考えていた。

 でも、間違いだった。

「あれは嵐の日だったの。もう、笑っちゃうぐらい荒れた夜だったの。ヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィヒィ―――」 

 壊れたレコードに、また針が落とされた。

 傘布を連打していた雨音はいつの間にか鼓膜から失せ、顔を叩く雨粒の痛さも感じることはなくなっていた。

 押し寄せる恐怖の激流は、躰に食い入る見えない縛めを、さらに強くしていた。

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