【九沓・1】

     【九沓・1】


〈あんなに興味深い頭の中だとは思わニャんだ〉

〈どっかのお手伝いさんだったのネ〉

〈せっかく品のあるおばさまなのに、いつもお疲れがお顔に出てらしたので、なんだかお気の毒と思っておりましたのよ~。あんなことで悩んでらっしゃったからかしらね~〉

『読んだの?』

 口を開くことなく、王女の顔に問いかけた。

〈ええ〉

 悪びれずの答えが返ってきた。

〈結構エグイのよ。みさおも聞きたい?〉

 いたずらっぽい口調で続いたのはアリス。

『え……いや、私は……』

〈その戸惑いは、完全に聞きたい欲望からだな〉

 背高帽の低いかすれ気味の声は、図星だった。

〈知ったところで、べつにいいんでニャいかい。いくらどっかで逢ったことがあるような気がするっつっても、彼女はただの客で、友だちでも知り合いでもニャいんすから〉

 縞猫がひょうひょうという。

 どこかで逢ったことがあるような……。

 今し方、ベルを鳴らし出ていった老婦人の客。彼女がはじめて来店したとき、人形たちに即察知されていたその思いは、今でも消えてはいなかった。

 六〇代後半といった私の母と同年代の女性で、過去に逢った覚えのあるような人というと―――いつも利用するスーパーのパートのおばちゃん……ぐらいしか思いつかない。もちろん、彼女たちではない。

〈あのね―――〉

 説明好きな白兎が、席へ着いてから展開された老婦人の思考を事細かに教えると、

〈暇を出す理由って、なんだろね?〉

 興味津々なアリスの声が響いた。

 我が命の尽きるまで―――。という想いをわかすと、老婦人の脳内は、昔の、一日のテレビ番組終了後の砂嵐のようになり、店を出ていくまで、この興味深い悩み事の手がかりになる思考は読みとれなかった。それが白兎の話の結びだった。

〈当然、あの婦人に見られたくないなにかを行っている―――ということだろうが〉

〈結局おばさま、自殺の可能性捨ててらっしゃらなかったみたいですけれども、前もって計画することなんてありますかしら~? それも数日いなくなってほしいっておっしゃるんでしょ~?〉

〈そんでもって、今まで一度も自殺に踏みきった気配はない〉

〈秘密のパーティーでも開いてるんでニャいかい?〉

 縞猫の推測には嫌らしい笑いが含まれていた。

〈秘密のパーティーって、なんネ?〉

 鼠が興味津々の音で尋ねる。

〈変ニャ葉っぱとか薬とか。だってお手伝いがいる家のお嬢さまニャんしょ? どうせ金持ちだろうから、そんなもんいくらでも手に入るんでニャいかい?〉

〈金持ちには、変な輩がくっついてくるっていうのがセオリー〉

〈でもって、そこから乱交なんかが始まっちゃって―――もしかしたらお嬢さま、堕胎のくり返しだったりして〉

 背高帽の自信満々なふうの発言に、いたって楽しげにアリスが乗る。

〈そしていずれ、心身ともに崩壊を迎え、廃人に、か〉

〈お金がありすぎるっていうもの、考えものですわね~〉

〈でも、来客があった気配はないっていってたよ〉

『やめなさいよ、妙な憶測』

〈あら、意外と的を射ていると思うのですけれども〉

〈自殺願望をもよおさせる事故というのも、なかなかおつな謎よな〉

 白兎の声音には、明らかにワクワク感が滲んでいた。

〈なんじゃらほいネ〉

〈相当なアクシデントであるっちゅうことは、間違いニャいんでニャいかい?〉

 鼠と縞猫が呼応する。


 人形たちの声が聞こえるようになったのは、彼らの製作を終え、すべてを店内へ飾ってからすぐのことだった。

〈やっとそろった〉

 それがはじめて入り込んできた台詞。

 空耳。―――もちろん疑った。

 しかし人形たちの会話は、まるで今まで溜めこんでいた想いを発散するように、途切れなかった。

 その中には、私に向けられる言葉もあり―――、

〈ずいぶん待ったでニャんすよ〉

〈あたしの衣装、ちょっと子どもっぽくない?〉

〈わたくしのメイクは気に入っておりますわ~〉

〈この帽子、ぴったりフィットで、よろしい〉

〈オレ、もうちょい細かったらよかったんだけどネ〉

〈とりあえず生んでくれて、ど~も〉

 などなど。

 パニクった。

 私、おかしくなった!?―――当然の思考。

「疲れてる」―――いい聞かせた。なにせ相当な期間、閉店後の時間のほとんどを、人形たちの製作に費やしていたのだから。

 すぐに二階へあがり、休憩用のベッドに横になった。

 ―――思った通りだった。人形たちの声はまったく聞こえなくなった。

 根をつめたら躰に支障をきたす。わかっていたものの、若さが乗りきれさせると思っていた。

 過信―――をすぐさま反省した。

 もしこんな生活を続ければ、とり返しのつかないことになるかもしれない。まどろみながら戒めていた。

 しかし―――、

 再び店へおりてみると、

〈大丈夫かな〉

〈問題ないでしょ、ずいぶんさっぱりした顔になってるから〉

〈疲労はお肌の大敵でございますわよ~〉

 幻聴がまた襲った。

 と、

〈幻聴じゃニャいんすよね〉

〈まあ、そう考えるのも無理はないかもな〉

 幻聴じゃない……。

 えっ―――彼ら、私の意識読めるの……。

 ううん、違う。これって私が勝手に思い描いたことを、勝手につくった声に乗せているだけよ。

〈とりあえず信じるってことで手打たないと、あんた、本当におかしくなっちゃうわよ〉

 えっ―――この声も、自分で考えているの!?

〈違う。あたし、アリス本人の声であって思考〉

 アリス……。 

 うそだっ! アリスだけじゃなく、すべての人形たちの口は動くようにつくってはいない!

 ううん。仮に可動式にしたとしても、喉も声帯もないんだから、声なんて出るわけない!

〈しかり。ゆえにお主の鼓膜を通してではなく、直接頭の中へ語りかけている〉

 私の両手は自ずと両耳を強く塞いでいた。にもかかわらず、声はクリアーに響いていた。 

 だから、この男性の説明は理に適っている―――。

 いや、なに考えているの私は!? だからといって、幻聴じゃないとはいいきれないじゃない!

〈こんな理路整然と、いろいろな声が長々聞こえてくるって、幻聴とは考えづらくない? 明確な幻聴の定義は知らないけど〉

 今度は誰?

 兎です。

 うさぎ……。兎ってこんな声なんだ……。ううん、今そんなことはどうでもいい。

 たしかに―――たしかに兎―――と名乗る者のいうことも頷けなくはない。

 ではなんだ……。

 幻聴ではない。だとすると……。

 そうか!

 ―――いや、でも、いきなりそんな障害が発生するもの? いくら疲労の蓄積が限界を超えたとしても……。

〈多重人格でもないって〉

 あきれたようなアリスの声が聞こえた。

 ええぇ~!? やっぱり読めるの!?

〈うん〉

〈たぶんあっしら、ほかの人間の頭の中も読めるんでニャいかな?―――あ、手前、猫でニャんす。以後よろしゅう〉

 兎はしっかりしゃべるのに、猫はこれ? 

〈へんでニャんすか?〉

 へん! っていうか、すべてがへん!

 再び二階へ駆けあがり、毛布を頭からかぶった。充分横になった躰に、眠気など襲ってくるはずもなかった。

 どれぐらいの時間そうしていたか―――。

 このままずっとベッドの上にいるわけにもいかず、仕方なく階下へと、恐る恐る向かった。

〈まあ、存分に調べればいいわよ。そうすれば、自分が多重人格なんかじゃなく、あたしたちの声も、あんたがつくりだしたものじゃないってわかるわよ〉

 アリスの声でいわれた。しかしそれ以降、頭内に届いてくる音はなくなった。

 そう、アリスはやはり、 

“病院へいく前に、まずは自分で多重人格について調べよう”

 という意識を読んでいたのだった。


 多重人格―――解離性同一症には、いくつかの典型的な症状があるらしい。

 中でも注目したのは「複数の人格」。

 その症状には、憑依型というものと、非憑依型というものがあるそうだ。

 前者は、自らの中にいるべつの人格が、ほかの人の目にもわかるという。今までそんなことを匂わされたり、指摘されたことはない。だが逆に、非憑依型ははたから見て、別人になっているなどとは思われないらしい。

 となると、私は後者に分類されるのではないか……。

 しかしだ、自分が王女やアリスになっている感覚など、私にはまったくない。ただ、彼女らの想い、考えを、声として聞いただけ。そのときも、自分の意思、躰は、すっかり自分のものだった。

 これでも私は、多重人格―――解離性同一症なのだろうか。

 ただ実際、

“人格が互いにやりとりをするため、声が聞こえる。自身に直接話しかけてくることもある”

 という罹患者からの報告はあり、この点は私に合致する。

 しかし、

“複数の人格が同時に話しをし、混乱する場合もある”

 という証言は、私には適合しない。人形たちの会話は、しっかりと順番が守られ、内容の筋道もまとまっていた。

 そもそも、子どものころにひどいストレスやトラウマを経験した人に発症しやすい―――といわれるこの症状だが、ごく普通の家庭で、厳しくもなく、かといって緩くもなくしつけられた私に、そんな経験はまったくないといいきれる。だからといって、罹患可能性はまったくないとは、それこそいいきれないことなのかもしれないが……。

 結局、「わからない」という結論にいたると、

〈つまるところ、この現象が起こったのは、操がぼくたちに命を吹き込んだからなんだけど、まあ、わからないんだったら、そのままでもいいかもね〉

 白兎の声で、人形たちのおしゃべりは再開された。

 たしかに精魂は込めた。でも、それで命が宿るの……。

 とはいえ、兎の意見に頷く道しか、私にはないように思った。

 では私以外にも、自身の作品の声を聞く人形作家はいるのだろうか……。

 彼ら以外にも、意識、思考、感情―――命を吹き込まれた人形は、この世に存在するのか……。


 ―――以来、人形たちとの会話でいろいろなことが判明していった。

 彼らには、製作者である私の人生経験がすべて刷り込まれている。また、重ねる日々のうちで私が新たに得た知識、経験も、自ずと摂取される。私の思考、見たもの聞いたもの経験したことは、言葉にせずとも読めるのだから、当然のことではあると思えた。

 加えて縞猫の予想通り、人形たちは客の頭にも侵入できた。それは、私のものでない知識、経験も得られるということであり、豊富になりゆく世の中の風景をもとにくり広げる彼らの脳内世界は、瞬く間に、私のそれよりも広大になっていった。

 人形とはいえ、当然みんな違うキャラクター。それゆえ、人格もまったく別物になるという話には頷けた。なので、同じ知識を持っていても、思考回路も同一というわけではなかった。だから人間同様、まったく違う想い、考えを戦わせ、末に、一致点を見出したりもした。

 ただ、脳内への侵入は店内においてだけ―――いわゆる、同じ空間にいる人のものに限って可能であり、それも、ひとりしかいない場合に限定された。

 当初は複数の来店者、それぞれの思考を読もうとした。しかし、いざトライすると、標的以外の人間の思考も流入してきてしまい、頭内で内容を整理することが極めて困難となった。

 余計な意識を排除しようと集中力を高めれば、なんとか読みとることはできたが、見返りの疲労は並みのものではなかった。

 いつしか〈そこまでして行うこともないのでは〉と意見が合い、今の決まりとなった。

 だから、老婦人の思考を今日はじめて読んだのは、今までの彼女の来店時には、ほかの客がいた、ということだろう。まあ、ひとりふたりではあったはずだが。

 ただ、彼女の初来店のときは、ほかに客のいなかったことをはっきり覚えている。それでも人形たちが今日のような思考を読まなかったのは、その時点ではまだ“お嬢さま”に対する悩みは、彼女の裡に発生していなかった―――からではないだろうか。

 人形たちの話を鑑みると、

“多重人格ではない”

 に傾斜したが、それでも完全に引っかかりが解かれたわけではなかった。

 だが、声は店内にいるときに限りで、疲労時や仕事中は、同空間内にいても不思議と届いてこなかった。

『私の意識が知らずにそうするの……』

 尋ねると、

〈自分たちの配慮〉

〈生みの親の生活に支障は起こせられないから〉

 と、殊勝な答えが返ってきた。

 たしかに妨げはなく、逆に、暇なときはいい話し相手にもなるので、

“そのままでもいいかもね”

 という白兎の意見だけではなく、私自身も声を出さず彼らと交流が持てる不思議をも、今ではすっかり受け入れていた。

 また、ずいぶん以前から、ごく微かにだが、人形たちは勝手に動くようになった。移動の欲望を持っていたら、いつの間にか可能になったという。

 ではいずれ、人間と同じような関節を持っている彼らは、店内を、いわんやこの世界を、闊歩し始めるのだろうか……。

 命が宿っているのなら、そんな推測も不合理ではない……。


“自殺願望を起こさせる事故”について戦わせていた会話は、“自分に原因がある”とはどういったことか―――に移行していた。

 私も意見を求められたが、わかるはずもなく、ただ首をふった。

 それからも続いた彼らの憶測に耳を傾けるだけでいた私だったが、脳内の半分以上は、 

 老婦人をどこで見たのか―――。

 の探索に今日も費やされていた。

〈また客のいないとき、新たな思考を展開してくれればのお〉

 背高帽のしかつめらしい台詞で、店内はしばらく、ピアノの音色だけとなった。

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