【須田・2】
【須田・2】
古い洋館を思わせるD駅の駅舎を出ると、五本の道が放射状に伸びていた。その道の要にあたる場所にあった池をまわり込み、真ん中をゆく。この道と両サイドのそれだけが、緩やかなのぼり坂となっていた。
梅雨に入っていた午後の空は、薄い灰色を広げていた。
教授の説明をしっかり刻んでいた頭は、携帯のマップ機能など必要としなかった。
葉をつけるにはまだまだ早い銀杏並木に喧騒はなく、その奥に立ち並ぶ豪壮な邸宅群は、ここが高級住宅地であることを如実に表現している。
軽くあがり始めた鼓動は、道の傾斜からか……。それとも、これから教授とふたりきりになるという昂りからか……。
あのときのことは、夢だったんじゃ……。未だに思っていた。
でも、約束した日である今日、教えられた自宅までのルートを今こうして歩いているのは、まぎれもなく現実。
梅雨入りをニュースで知った日だった―――。
「須田君」
大学からの帰り道、差した傘の背後からかけられた。
心臓が跳ねあがった。誰の声か、すぐにわかったから。
今になって思えば、わたしがひとりきりになるときを窺っていたんだと思う。
驚きと嬉しさで、うまく言葉が出なかったわたしに、
駅まで一緒に―――。
と、横に並んだ教授は、
自分の講義について不明な点はないか。
研究室での製作に意義は持てそうか。
大学生活で困ったことはないか。
といった、その口から聞けるなど想像もしなかった、温かみのこもる話題を続けた。
そこには笑みもあり、冗談も混じった。生徒たちの教授に対する評判が嘘のようだった。
三年にあがり、希望通り良木研究室に入っても、わたしは教授と会話をしたことがなかった。
したいのは山々だった。だけど、
じゃあ、どういったことを話せば……。
と、悩む日々ばかりだった。
たとえば、講義に関する質問でもぶつけ、そこから……。とも考えたことはあった。でも、いざ面前に出たとして、
「そんなこともわからないのですか?」
「自分で調べるべきことなのではないですか?」
なんていわれたら、立ち直れない。―――臆病な心は決めつけていた。
だったら講義後にでも、誰かが教授の前に進み出てくれでもしないか……と、期待したりもした。
それにくっついていけば、あるいは会話に参加できるかも……という他力本願。
でも、救世主は未だひとりも出現してはいなかった。
舞いあがる中でも、並び歩く教授の香りを鼻孔は堪能していた。いつもと変わらないトワレ。
―――あの匂い、『アラミス』ね。
いつかの明里の台詞をふり返ったとき、衝撃的な言葉を鼓膜は受けとった。
ところで、私の製作を手伝ってはくれないか―――。
「は?」
思わず、訊き返していた。
継がれた内容は、さらに驚かせた。
大学には知られたくない製作―――。
だから誰にも内緒で―――。
「どんな、製作なのでしょうか……」
「言葉では説明しづらい。それとも、聞かないと手伝ってはもらえないかな?」
「いえ、そんなことは……」
大学に知られたくない製作……。それっていったい……。
教授の声は構わず続いた―――。
製作は自宅の工房で行う。
今までの須田君の成績を見て、きみしかいないと決めた。
もちろん無償でではなく、きみの希望する就職先を、できる限り世話する。また、大学に残り、私と同じ指導者の道を望むのであっても、最大限の助力は惜しまない。
―――真剣な横顔と語調だった。
製作に対する謎と不審が払拭されたわけではなかった。しかしそれでも、考える時間をもらわず強く頷いたのは、ひとえに、想いを寄せる人の力になれる喜びが勝ったからだった。当然、提示された引き換え条件など、どうでもよいことだった。
想いを寄せる人―――。良木研究室への入室希望には、この理由も実は隠れていた。いや、こっちのほうが大きかった。
一度の製作には、最低二日間はほしい―――。
そして日を置いて、長いこと続ける―――。
泊り込みは可能か―――。
すべてにイエスと応じた。
泊り込みという言葉にドキドキした。不安ではなく、期待だった。でも、そんな思いをわかせた自分をすぐ恥じ、
「自分は製作のお手伝いにいくのよ」
いい聞かせた。
でも―――はじめての人が、良木教授になれば……。
胸の高鳴りはどうしても抑えられなかった。
だから、今日、明日という、まずのお互いの都合のよい日が決まると、たちまち頭の中で計算した。―――月の日。
解答は―――問題なし。
教授はバイトの心配も加えた。
幸い、しなくてもやっていける家庭環境と答えると、
「それは好都合」
笑んだ表情を、教授はよこした。
冷たい感じは、やっぱりそこにはなかった。
交差する細い道を渡った。
もうすぐ。
すると、再びわき起こった。―――既視感。
駅舎を出て、すぐ覚えたデジャビュ。おり立った記憶などない街。なのに、並木道をくる道すがらにも、幾度か頭をもたげていて……。
『良木』の表札を横に見せた、鉄製の立派な門扉に到着した。
“見覚えのある感覚”―――それが一段と増した……ような気がした。
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