【須田・1】

     【須田・1】


「来年、どこの研究室希望する~?」

 肩を触れさせながらゆく静乃しずのの投げかけに、

良木よしき教授のとこ」

 さらっと答えると、

「ええ~」

 案の定の反応が返ってきた。

「マジで?」

 明里あかりもしわを寄せた眉間を向ける。

“笑ったところを見たことがない”

“冷たい感じ”

“一緒に飲みにいっても絶対面白くない”

 教授に対する生徒たちの評価は、耳にした限り“負”のものしかない。

 ―――でも、わたしにとっての選定基準は、持っている能力。

 しかし、それを訴えたところで、彼女たちの納得はまず得られない。だから「マジ」とだけを返した。

「蓼食う虫も好き好きね」

 しらっと継いだ明里の声にも、特段むかつきはしない。逆に、「そうかも」と頷いてしまう。

「でも、倍率低いだろうから、すんなり通るか~」

 静乃は特有の甘ったるい口調に思案の音を乗せたけど、絶対わたしと同じ研究室は希望しない。

「ふたりはどうするの?」

 と問い返そうとした間際、

「“どて煮”もおいしそ~」

 脇に目をそらしていた静乃がいった。

“蓼食う”に触発されたのか?

「美味しそうだけど、もう充分なんじゃね?」

 みんなの手にあるナイロン袋は、結構な数となっている。明里の意見はもっともと思えた。

「あと一品ずつぐらい問題ないでしょ~」

 というが早いか、静乃は器用に人波をすり抜けていった。

 食べ物が関係するとき、普段のおっとり動作は陰を潜める。大学二年間のつき合いで知っている。

 わたしと明里も、不器用に祭り客をかきわけた。

「“焼きとうもろこし”を忘れていた。なんたる不覚」

 どて煮を仕入れると、今度は「もう充分じゃね?」といった張本人が、隣の露店へ引っ張った。

 どうも来年度の進路話は、わたしの考えだけを訊いただけで、遥か彼方へ飛んだよう。

 H神社―――。

 副都心にたたずむこの大きな神社の酉の市散策は、当初のプランにはなかった。

 授業で使う道具、材料を購入するため、副都心にある専門店まで出向いた。その際に知った今日のお祭り。

 食事をして帰ることは決めていた。「だったら、お祭りで―――」と口を切ったのは明里だった。わたしにも静乃にも異存などなかった。

 目的通り、境内でのわたしたちの出費はまったく食べ物のみで、縁起物の熊手は、ただ眺めるだけの存在でしかなかった。

 イートスペースを探しながら、くっついた三人で人の流れに従っていると、

「なに~、あの声~」

 遠くを覗くようにして、静乃が訊いてきた。

 耳に侵入してきていた、マイクを通してのだみ声のことだろう。

「あ、そっか。この神社、毎年酉の市のときに立つんだったっけ」

 前方に目を向けたまま、明里が応じた。

「なにが立つの~?」

「見世物小屋。今じゃ見られるところ、相当少ないのよ」

「へ~」

 近年、その類の小屋の存在が消えかけているという話は聞いたことがあった。

「いつぶりだろうか?」

「え、見たことあるの?」

 驚きが甘ったるさを消した。

「もちろん。中学校のときだったかな……。ここでじゃないけど」

「見世物小屋って、気持ち悪いものとか、怖いものとか見せるんでしょ~?」

「そう。ヘビ喰いちぎったり、虫食べたり、火吹いたり」

「イヤ~」

「まあ小屋ごとに演し物違うし、同じとこでも、日によっても替わったりもするみたい」

「詳しいのね」

 挟んでみた。

「まあね。なんなら寄ってく? いずれこの世からなくなっちゃう文化かもしんないから」

 と、明里がこっちふたりに弾んだ声をよこしたときには、目の前に、

《もぐら娘》《ヘビ女》《骨なし人間》《秘境からきた野人》

 気味悪さというよりも、にやけ顔を誘う垂れ幕が、いくつもの裸電球で浮かびあがるけばけばしい店構えの前に掲げられていた。


 ―――サア、こんなネエちゃん見たこたァない! キレイなお顔して、ど~してカラダはこんな奇妙なものになってしまったのか!? 生まれつきか!? 悪食のせいか!? 摩訶不思議な女の正体が、これからまさに皆さんの目の前に現れます! はたしてヒトかケモノか!? サア、もうすぐはじまる! 見世物小屋! どうぞどうぞ!―――


 入口脇に立つ木戸番の、堂に入っただみ声の啖呵に結構な人が立ちどまり、そして入っていく人も多く目についた。

「やよ~」

 静乃の拒絶の声は真剣。

 垂れ幕の上方に、○○興行と書かれた大看板を掲げていた掘建て小屋のようなそこは、交差した参道の一角に、結構な広さをもってあった。

「結構盛りあがって面白いよ。生のグロさってなかなか味わえないし、舞台との一体感も楽しめる」

 明里の声にも、真剣に入りたい気持ちが滲んでいる。

「だったらひとりで入ってきてよ~。どっかで待ってるから~」

 泣きそうな訴えが、明里とわたしの顔を緩ませた。

「わかった、わかった。もしここがあの“入っちゃいけない小屋”だったら、せっかく買ったの、無駄になっちゃうもんね」

 と、明里は持っていたナイロン袋をちょっと上下させた。

「入っちゃいけない小屋?」

 おちゃらけた風な言葉へ、静乃が問い返した。悲壮な声音は消えていた。

「例の都市伝説のよ」

「え?」

「あれ、知らない? 入ってはいけない見世物小屋の話」

 少し驚いたような顔を見せると、明里は今までの歩調を再開させた。

「全国区の話かと思ってたんだけど」

 続けた彼女の話の内容はこういうものだった―――。

 自分の地元では有名な伝説で、子どものころから聞き知っていた。

 その小屋は、お祭りや酉の市に出る。だが、出没する神社は一定されていない。

 小屋の名前も、どんな演し物を見せるのかもわからない。

 そして、入ってはいけない理由―――それは、いったん入口をくぐったら最後、消えてしまうから。

「まあ、都市伝説にはありがちな話だけどね」

「じゃあ今の小屋が、その小屋かもっていうの~?」

「うん。だってどんな小屋かっていう手がかりぜんぜんないんだから、そうかもしれないじゃない」

「消えるって、入った人が~?」

「そうなんじゃないの?」

「でも、結構お客さん入ってるみたいだったわよ~。あれだけの人が一気に消えちゃうっていうの~?」

「それはわかんない。小屋内で消えるとはいわれてないから。小屋を出てから後日、ふっと消えちゃうのかもしんないし」

「後日って、どれくら~い?」

「わかんないわよ。そうかもって話なんだから」

「ふ~ん。―――まあ、都市伝説をそこまで掘りさげることもないか~」

 といった静乃の声があってからしばし間が続いたので、入ってはいけない見世物小屋の話題は終了かに思われた。―――が、

「実のところ、ありがちっちゃあいっても、この伝説だけはひと際濃く、うちの中に引っかかってるんだ」

 明里がトーンを若干変えて、再開させた。

 小学生のころの話だという―――。

「友だちが地元の秋祭りで行方不明になったんだ。

 同学年の女の子で、親しい間柄じゃなかったんだけどさ。

 その子、友だち何人かといったらしいんだけど、境内ではぐれちゃったようで、結局そのまま見つからなかった。

 そのお祭りにね、見世物小屋があったっていう話が、いろんな生徒から出てきたのよ。でも、本当かどうかはわかんない。みんな当然都市伝説知ってたから、つくり話だったのかも……。

 うちはいってなかったのよね。いきたかったんだけど、その年はたしか、風邪かなんかひいて、外出許可が出なかったんじゃなかったかな……。

 逆に、そんな小屋は見なかったっていう子も結構いたんだけどね。

 見た子の何人かは、“なになにの小屋”っていう看板がかかってたっていってたわ。“なになに”の部分は、知らない漢字だったのか、文字自体が汚れてるかなんかして判読不能だったのか……。当時、そんな追及はしなかったから、はっきりしたところは不明」

 なになにの小屋……。

「あったのかなかったのか、どっちが本当だかわかんない。でもね、そっから一つの意見が生まれたのよ」

「なに~?」

「その小屋は、見える者にしか見えないんじゃないかって」

「見える者にしか見えない……」

 思わずわたしの口はなぞっていた。

「ことがことだったから、みんな冗談半分ふざけ半分じゃなかったのはよく覚えてる」

 明里の声はわたしに送られたようだった。

「ねえ―――もし、行方不明になった彼女が見える子だったとして~、見物料って払えたのかしら~? そう安いものでもないんじゃな~い? ほかの出店も楽しみたいでしょうし~」

「たしかに。―――考えられることは、もぐり込んだか……っていうぐらいね。だから、それも謎っていえば謎か……。

 とりあえず、翌年の秋祭にもみんなでいってみたのよ。でも、見世物小屋なんか出てなかった」

「どういう人が見えるのかしら~?」

「それも当然謎。ただわかってんのは、今でも彼女が見つかったなんていう情報のないこと」

 近くをすぎたグループの爆笑が、話の隙間に入り込んだ。

「まあ、彼女が小屋に入った現場を見た子なんていなかったわけだし、結局、いたずら目的の誘拐だったんだと思う。なにせあの子、美形だったから。

 ドラマの知識だけどさ、いたずら目的の場合、犯人の大半は性犯罪者で、用済みになればまず殺されるんだって」

「やだ~、やめてよ~」

「生存率は誘拐後、一時間半以内で七割五分で、二時間以内だと半分ぐらいだったか……」

「でもさ~、遺体が見つかったっていう情報もないわけでしょ~? だったらまだどこかで……」

 願うような静乃の言葉だった。

「うん。―――だとすりゃあ、現在も人知れず、監禁でもされているか……。そんな事件、前にもあったじゃない。

 またはどっかへ売り飛ばされて、そこで自由の利かない身でいるか……」

「外国の話じゃないんだから~」

「いや、日本にだってあるわよ」

 こともなげに返した明里は、すると「あっ」口走るや否や、すぐさま人波を外れた。

 何事か……と彼女を追った目は、その向うに目的の場所を映した。

 露店と露店の間に結構な広さのイートスペースがとれるのは、規模の大きな神社だからだろう。

 並んだ数脚のテーブルと長椅子はほとんどが埋まっていたけど、明里は驚異の眼力で、空いていた四人掛けをその中に見つけた。

 テーブルにナイロン袋を置いた明里は、腰を落ち着けることなく、

「偉瑠はドライで、静乃は生ね?」

 あげた口角を向けてきた。

 冷えた飲み物は席をとってから購入、としていた。

「とりあえず、二本ずつぐらい買ってきてもらったほうがいいんじゃな~い」

 酒と食べ物にやっとありつける喜びからか、静乃の口調は打って変わって弾んだものになっていた。

 わたしも頷いた。

「OK!」

 疾風のごとく明里はスペースを飛びだし、人波を縫っていった。

 みな相当なお酒好き。それが三人を強固に結びつけている理由かもしれない。

 静乃はテーブルに食べ物を並べながら、この秋新発売のビールの話をふってきた。行方不明になった子の悲劇はやはり、すっかり頭から消え失せたよう。

 饒舌な甘ったるい声に集中しようとした。でも、ずっと脳内で反芻している、

『見える者にしか見えない』

『なになにの小屋』

 二つのワードはどうしても消えず、音だけの返事を返すだけに終始してしまった。


     *


 通学では使わない電車は、思いの外すいていた。

 各駅停車だからかな……。

 車窓に映るほろ酔いの顔を眺めながら思った頭は、今日、久方ぶりに浮かびあがった問いを、続けて連れてきた。

 都市伝説の見世物小屋に、わたしはあのとき、入ったのではないか……。

 一昨年―――高三のあの日のことは、昨日の出来事のように思いだせる。


 イラストでも非常に有名である、大好きな漫画家のギャラリーがM駅近くにあった。月に一度は足を運ぶそこへ、放課後向かった。

 グランドピアノも置かれる白を基調にした空間には、作品や商品がゆったりと陳列され、毎度、時を忘れた。

 毎年、壁掛け、卓上、二種のカレンダーを買う。あのときは、まだ発売には早かった。

 M駅から出ると、今日が酉の市であることを知らせる立て看板が目に入った。近くのO神社でだった。

 特に惹かれはしなかった。

 だけど、そんな時期だったからか、ギャラリーで酉の市の風景を描いている版画が展示されており、その温かみのある華やかさが、

 いってみようかな……。

 思わせた。

 ギャラリーから駅に戻り、さらにゆくO神社までは、結構な歩き出があった。

 陽はすでに暮れかかっていた。


 大きな神社ではなかったけど、人出は凄かった。

 酉の市ははじめての経験だった。

 普通のお祭りでは見られない熊手の露店が新鮮に目に映り、境内のにぎわいを助長しているように感じられた。

 きらびやかな縁起物を眺めながら人波に身をゆだねていると、ふいに、お腹が大きく鳴った。―――混じり合ったあらゆる食べ物の匂いのせい。

 喧騒でまわりに気づかれる怖れはないと思ったけど、顔は熱くなった。

 腹の虫の訴えを機に、鳥居へ向かった。

 境内を出る間際だった。

 並ぶ露店の一番端に、テントがあった。

 酉の市関係者の詰所的なもの……?

 だけど、締め切られたテント幕に貼りつけられているベニヤや段ボールのようなものが興味を惹き、足が寄った。

《脱走妻の小屋》

『見物料○○○圓。但し、御代は御気に召せば』

 これって、見世物小屋的なものなんじゃ……。

 興奮した。

 入ってはいけない見世物小屋。―――小学生時分に知った都市伝説。

 それこそが、“見世物”という言葉との出逢いだった。

 言い知れぬ背徳的匂いに包まれた名称を冠する小屋の中は、いったいどんな世界が広がっているのか……。

 興味はたちまち膨れあがった。

 伝説自体は信じてなどいなかった。

 はじめは書物で調べた。のち、動画を閲覧しまくったのは、元来持っていたグロテスクなものへの強い関心からだったのだろう。

 都内ではいつどこで小屋が立つか、もちろん知っていた。だけど、足を運ぶタイミングが今までなかった。

 しかし―――呼び込みもおらず、けばけばしい構えでもなく、中から悲鳴や演者の声もない。

 情報で得ていた小屋の様相と、ここはまったく違う。

 ではいったい、どんなものを見せるのだろうか……。

 疑問が期待を一層大きくさせた。

『そっと開いて御入り下さい』

 ダンボールの文字に従い、オレンジ色の幕をさばいた。

 中身と小屋名に、なにかつながりがあるのか……。 

 と考えながら入った内部は、予想外に暖かく、また不思議と、外からの一切の音を遮断していた。

 ほかの客の気配は感じられなかった。

 いきなり目前に垂れていた黒幕を、恐る恐るまわり込んだ。

 度肝を抜かれるとは、ああいうことをいうんじゃないか……。

 ―――蝋人形。すぐにわかった。

 でも驚いたのは、つくりの精巧さではなく、二体の状態だった。

 ―――裸の女同士の合体。

 しかも若い二体、快感に歪む表情は違えども、同一人物。瞬時に知れた。

 知識にあった見世物とは、やっぱり違った。でも―――見世物には違いなかった。

 人の姿を忠実に再現していた目の前の彼女たちは、交わりの経験などまだなかったわたしの下腹部を、たちまち疼かせた。

 ―――と、

 彼女たち、どことなく自分に似てない……?

 ふとわいた思惟が、不思議と淫心を大いにあおっていった。

 彼女たちの下に敷かれたござの端に、ダンボールでつくった札が立っていた。

『つり橋』

 そう書かれていた。

 合体の型は四十八ある。―――知識はあった。

 今、彼女たちがさらしているのは、『つり橋』という名前の、その一つなのだろう。

 湿った地面の土の臭いを嗅ぎながら、ここでもわたしは時を失った。熱は下腹部にとどまらず、全身を包んでいた。

 重なる二対の情景は、全部で五つだったようだ。

 それというのも、五つ目の展示の横の黒幕に、

 御出口は此の裏―――。

 と書かれた段ボールが貼りつけられていたから。

 結局どのコーナーの彼女たちも、表情、ポーズこそ違え、すべて同じ女性ひとだった。

 お代は……。悩んだ。

 黒幕の向うにおそらくいる小屋のスタッフに見られるのは、恥ずかしかった。なにしろ制服姿の女子高生。そして上気しているであろうおもても、隠せないのではないか……。

 でも―――一度逢うだけの人だし、顔は伏せていれば……。

 自らにかけたけど、それでも出口への足はどうしても動かず……。

 だから、

 御出口は此の裏―――。

 のあとの、

 ―――御気に召さなかった場合は、そのまま入口より御帰り下さい。

 の言葉に、結果、甘えさせてもらった。

 そうそうに湿ったスカートの下は、最後のふたりを見る以前から大部分を浸潤させていた。かといって、替えを持ってきているわけでもない。

 家までの不快感は我慢するしかなかった。


 自室の鍵をかけると、右手はすぐに、粘液まみれの茂みをかきわけた。『つり橋』をまねた形で―――。

 途端、

「アアァ!」

 ビクンッと半身が反ると同時に、思わず声を洩らした。

 いつもより、遥かに大きな快感。

 咄嗟に、脱ぎ捨てた下着をまるめて咥えた。

“このとき”の習慣だから、ためらいなどあるはずもない。

 すっかり重さを持っていた綿製は、鼻孔を普段よりも濃厚な汗臭と淫臭で衝き、やはり高密度の、しょっぱさ、酸っぱさのエキスで、口内を襲った。

 わたし……こんな臭い……こんな不味い……。

 はじめて経験する臭気と味のもたらす羞恥が、興奮に拍車をかけた。

 二指を内部に侵入させた。

 下着は、うまいことあえぎをこもらせる。

 内壁をゆっくりとさすった。

“オオオォ……!”

 今わたし、彼女たちと同じように、快楽に歪んだ顔をしているの……?

 口のつめ物を噛み締めながら思うと、手の動きは自ずと速度を増した。

 荒い息遣いと、両の足の間が立てる淫らな音の競演が、躰をさらにうねらせた。

 合体した彼女たち……いったいなにでつながっていたんだろう……。

 快楽で霞む脳内が、それでも想像をわかせると、普段の人差し指と中指に、薬指が添えられた。

“ハアアアァ……”

 裂けるぅ……! でもいいのぉ……!

 痛みもが昂揚を後押しし、虐げは続いた。

 見てきた彼女たちの姿勢をすべてまねた。五パターンは、しっかりと記憶に刻み込んでいた。

 熱い淫汁に侵された手には、いつしか白濁に血が混ざっていた。

 口かせを外し、舌を這わせた。

 いつもとは違うわたしの匂い、味……。

 美味しい……。

 夢中になって舐め清めると、下方の唇に、五指を再び向かわせた。

 幾度全身をわななかせたか……。

 これほど激しく自分をいじめたことは、今までなかった。

 ベッドのシーツは、大きなしみを広げていた。


 父が急死したのは翌日だった。

 心不全。

 衝撃のあとに続いた、

 風邪一つ引いたことのない父がどうして……。

 という謎がすぐさま呼び起こした。―――入ってはいけない見世物小屋。

 昨日の《脱走妻の小屋》こそが、あの言い伝えの小屋だったのではないか……。

 なぜなら、“入ったら消えてしまう”のがなにであるのか、都市伝説は規定してはいなかったから。

 ただそれでも―――。


 車窓の自分に意識が戻った。

 ただそれでも―――当時の思考は「偶然」のほうに傾いていた。

 しかし、今日得た明里からの情報―――、

“小学生時代の事件時、見世物小屋を見たという友人たちの何人かは、「なになにの小屋」という看板を見た”

 それが今になって、一気に「必然」方向に重量を持たせた。

「なになに」は「脱走妻」だったのでは……。

 また、わたしが甘えた言葉―――、

『御気に召さなかった場合は、そのまま入口より御帰り下さい』

 行方不明になった子は、このダンボールの意味を理解したのではないか……。だから、もぐり込んだのではなく、はじめから払う意思はなく、入口の幕を開いた……。

 入ってはいけない見世物小屋。―――あくまで都市伝説。

 でもそれを、

“見える者にしか見えない―――”

 再び現れた明里の台詞が、さらに「実存」へ大きく傾斜させたのも事実だった。

 なにせ、テント内で彼女たちの痴態を見ている間は決して短いときではなかったのに、その間、誰ひとりほかの見物客は入ってこなかった。代金を払わず入口へ戻るときにも、人の姿とすれ違うことはなかった。

 酉の市のあれだけのにぎわいの中、誰も興味を示さないのはあまりにも……不思議。

 あとになって首を傾げたことを覚えている。

 その疑問を、明里は解いてくれたのではないか……。

 あの小屋は、誰もが見えるというものではなかったのかも……。

 言い換えると、わたしは見世物小屋に入る資格を持った、数少ない人間だった。

『どういう人が見えるのかしら~?』

 静乃の声が続いた。

 わからない……。さっぱり……。

 わからないことはもう一点。

 なぜ父だったのか……。

 ただ当時、さんざん思考をめぐらした末に、一つだけ、不確かながらたどり着けた答えはあった。―――現在の父との関係性。

 高校に入ってわずかもすると、父はいってきた。

 将来は自分の会社を継いでもらう。だから経営方面が優秀な大学へいけ―――。

 経営など興味がなく、進みたい大学もしっかりあったわたしは、猛反発した。

 とくに生活態度にうるさいわけでもなく、何事も自由にさせてくれていた父だったけど、この件に関してだけは譲らなかった。

「自分の好きな道へいけないのは人権の無視!」

「日本には職業選択の自由が保障されている!」

「わたしはお父さんの奴隷なの!?」

 張りあげた声で幾度となくぶつかった。

 まったく口を利かない期間もあった。

 だから、あのころ思っていた。―――父がいなくなってくれれば……。

 父の死は、両大学の願書提出期限まで一月ほど、というときでもあった。

 それだけのことでいなくなってほしいと思うなど……。と、眉をしかめる人はいるかもしれない。でも、わたしには重大問題だった。

 結局は、自分の希望通りの大学へ進めた。それにはもちろん、うちの経済的事情の手助けがあったことは承知している。

 立派な家。

 裕福な暮らし。

 それはまず間違いなく、今後一生保障される。

 なので、その点に関しては父に感謝している。

 しかし、裕福さには一方で、精神的つらさという税もかけられたことがあった。


 小学校は地元の区立。

 広い部屋と庭、多数の遊び道具。おやつも豪勢だった自宅は、低学年のころ、放課後の遊び場として人気だった。

「お金持ちでいいな」

 みな口をそろえた。

 でも高学年になるに従い、その言葉に、ねたみ、やっかみの色が乗るようになり、わたしと放課後をともにする子は徐々に減っていった。

 そしてしまいには、ひとりもいなくなった。

 嫉妬心など持っているとは思えなかった友人も離れていったのは、

 須田さんとつき合っていると、自分も仲間外れにされる―――。

 に気づいたからに違いない。

 完全なるいじめ。

 嫉妬から派生したいじめには、

「あの子は妾の子」

 という陰口もあった。

「妾」―――意味がわからなかったので辞書を開いたが、小学生向けのものには載っておらず、図書館へいった。

 高学年になっていたわたしに、意味は飲み込めた。

「あの子は妾の子」―――それは本当なのか? だったらわたしは、母の子どもではないのか?

 とても両親に訊けなかった。

 だから塚柄つかえさんに尋ねた。彼女とはなんでも話せる間柄だった。

「お嬢さまはれっきとした旦那様ご夫妻のお子さまです。ですから気にしてはだめです」  

 陰口に憤った彼女は、強めた語気で返してきた。

「れっきとした子どもなら、どうしてそんなこといわれるの?」

 こっちも声を張った。

「わかりません。わかりませんが、そもそもその陰口は大きな勘違いです」

「どういう勘違いなの?」

 彼女は口を結んだが、

「ねえ、どういう?」

 食いさがった。

 すると、

「たしかに奥さまは、旦那さまが前の奥さまとご夫婦のときに、旦那さまとお知り合いになりました。ですが、お嬢さまは、旦那さまが今の奥さまとご結婚なされてから生まれたお子さまです。ですから、妾の子なんかでは決してありません」

 神妙な声と表情が向けられた。

 だとすると……。

 新たな質問をぶつけた。

 ―――父が前妻を持っていたときのふたりの関係を知らなければ、どこの誰かは、母を妾とみなせないのでは……。

 今度は「わかりません」は返さず、神妙な顔に“しぶしぶ”といった色を加え、彼女は明かしてくれた。

「このお屋敷からそれほど離れていないところに、奥さまはご結婚前、お住みだったとのこと。旦那さまがご用意されたものということでした。ですからそこへ出入りする旦那さまを見かけた主婦やらが、何人もいたのではないでしょうか……」

 昔から父の移動は、まず運転手つきの高級車。目立ってもおかしくはない。

 わたしはれっきとした父と母の娘。それが明らかになったと同時に、やっぱり母が囲われていた女であることも確実となった。

 でも、それで母に対し、どういう目を向けるわけでもなく、ただ、

 あの子は妾の子―――。

 子どもらに流した、心ない大人たちを蔑んだだけだった。

 塚柄さんに、結果的にわたしがいじめられていることはわかってしまった。それはべつに構わないことだったけど、心配させたくないので、両親には口をつぐんでいるよう頼んだ。

 母は籍を入れると同時に、今の家に移った。

 塚柄さんの「お屋敷」という言葉が大げさでないほどの自宅は、当時でも結構な築年数が経っていた。

 父がずいぶん前に購入したものらしい。不動産関係の仕事柄、古くとも良品かそうでないかは見定められたのではないか。

 塚柄さんが通いで雇われたのは、両親の夫婦生活が始まって間もなく、母の妊娠がわかってからのことだった―――と聞いた。

 あまりにも広い家、身重ではなくとも、今後、母ひとりでは大変だと父は思ったのか……。 

 塚柄さんによると、前妻と暮らしていたときも、広大な家で家政婦を使っていたらしいというから、もしくは単に、屋敷も使用人も、成功者のステイタスと考えていたのか……。

 いずれにしろ、仕事関係の人たちが大勢でやってくることもよくあったので、広い家と家政婦さんは、必要といえば必要だったのかもしれない。

 業界では顔の広い人物だったので、父はしょっちゅうパーティーやら会合やらに呼ばれていたようだった。そしていつも母を帯同させた。美人だった母ゆえに、見せびらかしたい気持ちからではなかったか。

 夫婦なのだからいけないことではないけど、そう思うと、なんだか母が飾り物扱いされているように感じ、嫌だった。

 連泊することもあり、そんなときは、塚柄さんが泊り込んで、母と同じように面倒を見てくれた。


 あがったのは、中高一貫の女子校だった。そこで小学校時代と同じ顔を見ることはなかった。

 新天地へいったといっても、もう誰も自宅へ呼ぶ気はなかった。あのころのトラウマが、深くつき合う友人もつくらせなかった。

 もし家にきたいといわれたら、また……。

 だから部活もやらず、放課後はすぐに帰宅し、好きだった絵描きや読書にふけった。

 母はそんなわたしを心配していたようだけど、とくに入りたいクラブもないし、早いけど、大学受験を見据えて勉強に時間を費やすつもり―――という嘘でとりなした。

 家内で唯一、わたしのいじめを知っていた塚柄さんのほうは、真の理由を察していたんじゃないか……。

 いつからか父の会社の役員の肩書を持っていた母は、どういう位置づけなのかはわからなかったけど、たまに会社へ顔を出すだけで報酬をもらえたようだ。それも巨額な。

 父が他界したときの母の落胆はひどいものだった。

 もともと気の強い女性ではなかった母。すると何事に関しても、わたしを頼るようになった。

 ならば、わたしがしっかりしていかなければ……。この家を仕切っていかなければ……。 

 という強い気持ちが芽生えた。

 なにせ父を消したのは、このわたしかもしれないのだから……。

 だからいの一番、「今後もずっと残ってほしい」と塚柄さんに伝えた。

 もしわたしがこの家を出ることになった場合、母がひとりになってしまう。それに、大好きな塚柄さんと離れたくはなく、わたしも今まで通り頼りたい。といった気持ちもあったから。

 もちろん、それだけの金銭的余裕もあった。

 気概が生まれると、クラスメイトたちに対しての恐怖など、不思議と消えていった。いいたければなんでもいえばいい。いじめたければいじめればいい。こっちはそんな低俗なことにつき合っている身ではない。

 だから大学に入ると、今までとは変わり、普通の友人関係をつくれるようになった。仲のいいふたりもできた。それが明里と静乃。

 わたしたちの間を縮めたお酒―――。

 大学二年の二〇はたちでお酒好きということは、成人する前から飲んでいたということ。当然家での話だけど。

 居間には父の残したお酒がたくさんあった。お客さん用の高級酒ばかりだった。興味本位からそれに手をつけたのがきっかけだった。

 女性でも、ちょっとは飲めた方が……。それに家でなら……。と、母はとがめなかった。 

 塚柄さんを交え、一緒にたしなむこともあった。


 父の死があったにもかかわらず、祭り事である二の酉に足を向けた。

 不謹慎―――。ためらいはあった。だけど、

 蝋でできたあの彼女たちを、また目に焼きつけたい……。

 の欲望は抑えられなかった。

 もしかしたら、違う形の彼女たちが見られるかもしれない……。

 とも期待しながら向かったO神社に、しかし《脱走妻の小屋》はなかった。あった場所は、ぽっかり空きスペースとなっていた。

 去年の一の酉、二の酉にも同神社境内の人波に乗った。結果は同じだった。

 見える者でも一度体験したらもうおしまい。とでもいうのだろうか……。

 それとも、見える者だけには見えるにしても、出没する神社は一定していないというから、運がよくなければ出逢いは叶わないということか……。

 でも、どこの祭りに出るかなど知る由もない。―――あきらめるしかなかった。

 今でも“ひとり行為”のときは、彼女たちの姿を頭の中に満たす。それ以外イメージするものはなかった。

“ひとり”以外の経験も、まだなかった。

 おりる駅のアナウンスが、いつしか失っていた瞳の焦点を、再び車窓へ結ばせた。

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