第3話 出迎えならもっと穏便にお願いします。①

 鬱蒼とした森は昏い。昏い上に暗い。そして闇い。

 昏いはずなのだが入ってみればディートリントの目にはさして恐ろしいもののように見えなかった。

 足元には小さな鈴蘭のような花が点々と咲いて、それがまるで月の光のようにほわっと光っている。ふわりふわりと、どこからともなく飛んできた蝶は青く柔らかな光の粒を軌跡のように残し、どこか遠くから甘い花の香も漂っていた。

 長いドレスは歩きにくいはずだが、どんな不思議か森のほうがディートリントに合わせてくれているようにするすると歩くことができる。まるで導くように飛ぶ青い蝶と足元の光る鈴蘭を標に、どんどん森の奥へと入って行くのだが景色はさほど変わらなかった。

「それにしても、どこまで歩けば良いのでしょうか。いくらかお水は持ってきておりますが…どなたかに見つけていただけるのか、それとも野垂れ死にのほうが早いでしょうか」

 そんなことをぽつりと呟きながら、彼女はただ歩いていた。

 既に時間の流れがわからない。宵闇の国には朝も昼も夜もなく、したがって時間を測るような変化がないのだ。

 歩き疲れたら立ち止まって休み、立ち止まるよりも疲れれば座り込んで眠り、王都を出る時に持たされた魔法の水筒で喉を潤しつつ、また歩く。その繰り返しである。

「軟弱な王宮暮らしですから、あまり時間は経っていないのかもしれませんが。少し困りました」

 ほう、っと溜息をついてディートリントは大きな古い木の根元に腰を下ろして幹にどんと背中を預けた。

 景色が変わらないこともあって、時間だけでなく場所もよくわからない。

 歩いている方角が合っているのか、そもそも同じような場所をぐるぐるとただ回っているだけかも知れず、そうであれば歩き回るだけ徒労というものだ。

「これは黒の咎人の準備品に魔法のランタンを加えるべきですわね。まあ、思ったところでお伝えする手段がないのですが。それにしても困りましたね」

 魔王の贄、というくらいなのだから、森に入れば魔物のほうが気づいてくれるのだと思っていた。贄として魔王城……というお城があるのかどうか定かではないが、魔物といえども生活基盤くらいはあるはずだ。住処なのか、それともどこかの広場なのか、そういったところに連れていかれるのだろうな。などと、案外気楽に考えていたディートリントは、自分がいかに「甘ちゃん」であったかを痛感していた。

「よくよく考えてみれば、贄としてやってきたのは人の都合です。朝貢に来た使節が王都の外れまで陛下の出迎えを期待するなど、聞いたことがありません」

 溜息交じりに呟いて、ディートリントはひと口だけ水を飲み、そして勢い良く立ち上がってパンパンとドレスの裾をはたいた。

「これは何としてでも自力で魔王城に辿り着く必要がありますわね」

 ふんす!と気合を入れ直す。

 と、その時である。

 ざわり、ざわり、と風がさざめくように木々が鳴り、森の木々達がまるで意思を持っているかのようにディートリントの行く手を阻んだ。あくまでも柔らかな細い枝達が手を繋ぐように絡み合い、地面から伸びた蔦が巻き付いて花をつける。みるみるうちに蕾が膨らみ、そうしてふわりと花を開けば、きらりきらりと輝く光の粒が辺りに零れた。

「まあ、とても美しいです!けれど通していただけないと、とっても困ります」

 一歩、踏み出した先の感触はふぁさりと柔らかい。

 よく手入れのされた芝生を踏んだ時のような感触に足元を見れば、小さな光る鈴蘭に照らされた地面は確かに豊かな草に覆われている。ちかちかと明滅するような鈴蘭は白い燐光のような輝きを帯びて、そこにきらりきらりと輝く光が集まったり散らばったりしている。

 気が付けば周りの木々達によって上質な鳥籠のような空間が作り上げられていた。

 そうして作られた場所に、ふわりと銀の光が舞い込んだ――ーように、ディートリントは感じた。

 よくよく見れば、それは光ではなく髪である。

 美しい銀色の髪は地面に届くかと思うほど長い。それを無造作に後ろでひとつに束ね、飾り気の少ない、それでいてひと目で上質だとわかるドレスシャツに身を包んだ青年が、森の木々が少しだけ開けてくれた隙間から体を差し込み、ディートリントの周囲にできた鳥籠の中に入ってきたところだった。

 人間にしか見えない青年はディートリントを一瞥するなり「黒の咎人で間違いないな?」とぶっきらぼうに言った。問いかけというよりも確認のように感じ、ディートリントは慌てて挨拶をしようと姿勢を正す。

「あ、はい。わたくし…」

「名乗りは必要ない」

 ぴしゃり、と言われてしまったので、ディートリントは口をつぐんだ。

 青年は何やら魔族の言葉でひとつふたつと言葉を漏らした後、ずいっと右手を差し出す。

 どういう意味かを測りかねていれば「手」とだけ言葉が飛んでくる。

(まあ、これは困ったさんですわね)

 そうは思うが、魔物しかいないはずの宵闇の国で暮らしている『人間』であれば、言葉が通じるだけでもありがたいと思うべきなのかもしれない。と、ディートリントは思い直して、淑女らしく微笑みつつ彼の手を取った。青年は手袋をしていないが、ディートリントは漆黒の長手袋を着用しているので、未婚の男女が手を繋いだことにはならないだろうと判断してのことだったが、手をとった次の瞬間、ふわりと体が浮きあがったことには絶句した。

「転移する。目を瞑っていろ」

 言うが早いか、強烈な魔力の渦に飲み込まれるようにして視界が歪む。

「待っ……」

「黙っていろ。舌を噛んでも知らんぞ」

 ぐるりと視界が反転するかのような感覚に包まれ、恐ろしい程の頭痛と、それに伴う強烈な吐き気が襲ってくる。魔力酔いだ、と気が付いた頃にはぷつりと意識の糸が切れていた。

 意識が切れる最後の瞬間、ディートリントは「起きたら絶対に、一発ぶんなぐってやります」と心に誓った。

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