第2話 黒の出立の日がやってきました。②

 王女は結局、王妃には会えず仕舞だった。

 重厚な扉は閉じられたまま、侍従も何とか取り次ごうとしてくれたが、中からはすすり泣く声がするばかりだったのだ。そのうち発作を起こしたとして侍医が呼ばれる事態となったため、彼女は諦めて、事前に用意しておいた手紙を王妃付きの侍従に託し、自らは式典を見るために外宮へと向かった。

 一歩外に出ると、街は華やかな祝賀の雰囲気に溢れていた。

 式典用の華々しい房飾付きの外套を着せられた馬が並び、王城の正面に設けられたバルコニーに並んだ王と王太子をひと目見ようと、王宮前の広場には大勢の民衆が押し寄せていた。大通りの両脇には民衆のための屋台が並び、それらを警備するために点々と王宮騎士団の姿も見える。

 バルコニーで太陽の光を受けた王太子はキラキラと輝いていた。

 これから七日に渡って王太子の成人を祝う祭事が行われる。今宵出立してしまうディートリントはその全てを目にすることはできないが、王宮内にある図書館に所蔵された、父王の成人の儀を写し取った魔導書からおおよその光景は想像できた。きっと今も宮廷魔導師がこの光景を写し取っているだろう。そうしてまた王太子の成人の儀の魔導書として図書館に収蔵されるのだ。

 華々しい光景を目に焼き付けるようにして眺め、それから自らの式典のために馬車で大聖堂へと向かう。

 屋根のない式典用の馬車に腰かけると、外套を着せられた馬達が子気味良い蹄の音を響かせて歩き出す。通りの両側に押し掛けた民衆は色とりどりの花を空へと放り投げ、歓声で黒の咎人への祝福を示した。

 何しろ咎人は世界のすべての咎をその身に引き受け、これから五十年の長きに渡る安寧と恩寵をもたらす礎となるのだ。咎を引き受ける故に咎人と呼ばれてはいるが、民衆達は尊い犠牲のために命を差し出すその存在を「黒の聖女」と呼んで讃えていた。彼女が王女であるという身分的な違いは、民衆にはより大いなる恩寵を得られるに違いないのだという、いっそ御伽噺めいた風聞と共に肯定的に根付いている。

 通りを埋め尽くす人々の歓声と、彼らのにこやかな表情を、馬車から手を振りつつ王女はどこか愛おしいものを見るように眺めていた。


 大聖堂での儀式を終えてしまえば、一日はもう終わりに近づいていた。

 夕闇に包まれた通りは昼間と打って変わって静けさだけがそこにある。

 派手な音楽もなく、大通りの両脇に並べられた魔法灯が静かに揺らいで、集まった民衆は手に手に蝋燭の明かりを持ち、一様に黒いローブで身を包んでいた。

(これではまるで葬列のようですね)

 自身も黒いドレスに黒いベール、黒真珠と黒曜石で飾られたディートリントはそんなことを思った。

 華やかな王族の儀式と異なり、黒の咎人にまつわる様々な儀式は魔導書として残されることがない。すべての咎を身に引き受ける、という性質上、僅かな咎もこちら側に残さないための処置である。これから彼女を乗せた馬車はゆっくりと大通りを進み、そこから主要な街路を辿って、ひと晩がかりで王都の外れにある葬送門を目指すことになる。

 寝ずの宵と呼ばれるこの夜は、貴族から平民まで、夜が明けるまで誰も外に出てはならない。それ故に、人ではないものの証として黒いローブで身を包み、人であると露見することがないよう馬車の音が聞こえている間は決して声を出さず、僅かな蝋燭の明かりだけを捧げて咎人を見送るのだ。

 隊列を組んだ騎士達に護られ、誰もが目を伏せる中、漆黒のドレスをまとった王女が馬車に乗り込んだ。

 静かに馬車の扉が閉められた。

 高らかにラッパが鳴らされ、騎士達が馬を進める。ごとごとと音を立てて進む馬車が過ぎたところから魔法灯がふつふつと消えてゆく。それに合わせるかのように民衆も、手にした蝋燭を静かに吹き消した。馬車が進み、そこから闇に溶けてゆくかのような不思議な光景だった。

 昼の儀礼用の馬車と異なり、葬送門を出て荒野を渡り宵闇の国までを走る馬車は頑丈で、開け閉めができるとは言え分厚いガラスの窓には宮廷魔導師による様々な魔法がかけられている。そのせいでガラスは日の光を通す程度に透明ではあるものの、明るい太陽の下であっても馬車の外をはっきり見ることはできない。夜である今は尚更だ。

 それでも外から漂ってくる花の香や噴水の音が、ディートリントにどの辺りを走っているかを教えてくれた。

(きっとベルツ卿の薔薇園の辺りですわね)

 釣鐘型の薄い魔法ガラスの中に美しい薔薇を閉じ込めた、小さな置物のことを思い出す。

 フェッセル卿の別邸にある魔法の噴水、グライナー卿の大劇場、リーツ商会の大市場、教会を回る際に見かけた華やかで鮮やかな思い出が目に浮かび、ディートリントはほっこりと幸せな気持ちになった。きっとこの先もずっと、この国はこうして華やかで鮮やかな日々を積み重ねていくのに違いない。

 その礎となることが、今のディートリントのささやかな誇りであり、幸福だった。

 馬車は予定通りにひと晩をかけて市街を巡り、やがて、この夜にのみ使われる葬送門までやってきた。

 夜の闇は随分と薄れて、もう幾許か待って居ればじきに朝日が昇ってくる頃合いだ。

 白く透け始めた夜空の、柔らかな何ともいえない色合いが美しい。

 王都にある五つの門のうち、真南に位置する門を葬送門と呼ぶ。正式な名称は他にあったように思うのだが、この門が黒の咎人が通る際にのみ開門されるために、いつしか葬送門と呼ばれるようになったのだ。

 門の造り自体は他にある四つの門と変わらない。

 他の四門では門の外側にも騎士が巡回しているが、南の荒野に面した葬送門だけは騎士の巡回も内側、つまりは領内のみに限られている。違いと言えばその程度だ。

 荒野は不戦の地。

 そこは、人の世界の端であり、半ば魔の領域になるからだ。

 詰まるところ、人に領域を踏み荒らされることを嫌う魔物達の逆鱗に触れないために、門の外側には決して兵を置かないのである。

 五十年ぶりに開かれた門の内側、ぎりぎりのところには宮廷魔導師の姿があった。

 王族、貴族の出生と死亡が記された魔導書を手にした内務官である。

 声を出してはいけないという慣例に基づいて、無言のまま一礼をした魔導師は、静かに魔導書を開いた。そこに記された王女ディートリントの魔導文字が淡く光を放っている。

 目礼のままの魔導師達の前を、馬車は静かに過ぎた。

 馬車が門外へ出てしまうと、魔導書からすうっと光が失われる。

 宮廷魔導師のローブに身を包んだうちの一人が、小さく嗚咽を漏らした。目深にかぶったローブから垣間見える髪は美しい燃えるような赤、艶やかで豊かに巻いた髪とは対照的に、すっかり痩せてしまった指先が口元を押さえている。

 門を閉めようとした衛兵に、内務官らしい魔導師は「もう少し…」と指示をしてその場に待機させた。

「夜が明けます。どうぞお戻りを」

 そっと魔導師に促され、彼らに護られるように、半ば支えられるようにして赤毛の女性は去っていく。

 魔導書を懐に仕舞い込んだ内務官らしい魔導師は、ふと、馬車の中の王女殿下にも赤い髪が見えただろうか……などと思って足を止め、僅かな間、振り返って門外の荒野を見つめる。

 馬車は既に、荒野の地平の向こう側へ消えてしまっていた。

 こうして、黒の咎人はあっさりと記録上の死を迎えたのである。

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