一三 宰相無弦、金烏の将に対峙する事

 金烏上将奇天が左府宰相無弦の邸宅を訪れたのは、夏を迎えた初めの新月の晩であったと記録されている。


 鏡面が散らばったような夏の空であった。

 夜の暗がりを畏れる人々が、座敷の行燈を点けてまわり、その灯りが格子からしきりに溢れている。

 瑚滉の街は硯のような湖の上にぼんやりと揺らめいていた。


 無弦の屋敷は客人を迎えるにあぶらを惜しまず、辺りが橙の色に煌々とする様は不夜城のようである。

 絹が薄く張られた窓外に、ひむしが舞ってちらつくのを横目にしながら、奇天はのしのしと廊下を歩いた。提灯持ちの稚児に続いて異様な長身の揺れる姿は、鬼の夜行を思わせる。


 そうして楼閣の最上階に至れば、無弦が一人で座して待っていた。

 傍に、明け方の月下、寒々しい丘と林を描いた屏風が蝋燭の火に照らされていた。


「まったく、久しいことだな」


 そう語り掛けた奇天は初め無弦のほかに誰もいないことを訝しんだが、脇の襖の向こう、左右の座敷に何人もの気配があることに気がつくと、途端に面白く思った。


 目の前の宰相は大人物ぶって、まるで自分のことを脅威にしていないように見せかけているが、本当のところは怖ろしくてたまらないのだろう。だからこうして、腕の立つ輩どもを隠して控えさせているに違いない。

 いちいち臆病な男だと奇天は内心で嘲笑った。


「まさか、落ちこぼれて都を追い出されていたお前が、宰相にまでなるとはな。平和でよいことだ」


 奇天は皮肉交じりに言祝ぐと、無弦の向かいにどっかりと腰を下ろした。

 横に置かれた銚子から勝手に酒を注ぎ、口をつける。


「だが、どうだ。今やオレも偉くなった。お前ばかりじゃないんだぜ。フフフ!」


 無弦はよく応えなかった。かといって、からかいに腹を立てたという風でもなく、ただ静かに尋ねた。


「白秋に会ったそうだな」


 挑発しても無弦が思うように乗ってこず、奇天は僅かに機嫌を損ねた。

 しかし、もとよりこの晩は白秋について話すつもりであったことだから、向けられた水も都合がいいと思い直し、顎を撫でさする。


「ああ、あれは流石に驚いた。血のつながった姉妹とはいえ、あれほど似るもんか。花氷かひょうが黄泉から帰ってきたものだと思うところだった」


 花氷、という名に無弦の視線が一瞬泳ぐ。

 この澄ました男からようやく動揺を引き出せたことに奇天は気分をよくし、続けざまに言い立てた。


「お前も恐ろしい男だなあ。日に日に自分の恋人・・にそっくり似てくる子どもを、よくもまあ手元に置き続けられたもんだ。むしろ最初からそのつもり・・・・・だったか?」


 胡坐をかいて片膝を立て、腕を掛け、傲岸不遜の振る舞いである。

 しかし、無弦はじっと黙って彼を見上げ、何かを待つように耐えていた。


「フフフ! あんな気性の悪い女に仕込んだのも趣味か? 姉も随分と我の強いやつだった」


 奇天はくつくつと喉を鳴らしてから、ゆっくり杯を呷る。


「馬鹿な女だ。あの晩も、ついに心を曲げなかったから死んだ」


 十年を越しても、昨日のことのように思い返される。

 奇天がそう言うと、ようやく無弦が口を開いた。


「やはり、お前が花氷や先生を殺したんだな」


 風ひとつない、穏やかな水面のような声音だった。

 奇天はつまらなさそうに返事をした。


「そういうからには薄々気づいていたんだろう。でもお前は確かめやしなかった」


 蝋燭が一際大きく燃え盛って、無弦の顔に陰影を作る。

 かつて二人は竹馬の友であった。

 奇天はまた、ひとりでに話し始めた。


「ひどい恋人だよなあ。待つ女を残してひとり都に出たばかりか、その仇を取ろうともしない。寝所に化けて出てほしかったのか?」


 詰るように怖い顔をしたり、宥めるように笑ってみせたり、奇天は道化そっくりに喋る。


「いいや、違うよな。お前はもっと弱いやつだ。オレに白秋を見せたくなかったんだろう。下手人を確かめるにはそうするしかないのになァ」


 男は鸚鵡おうむのように首を振った。

 無弦は目を伏せ、静かに杯を傾けた。酒精が喉を焼き、詰まるような痛みを覚えた。


「ああ、そうだ。あのとき確かめさえすれば、お前を逃がすこともなかったかもしれない」


 表から迷い込んだ一匹の蛾が、出口を探してひたすらに障子の上辺を暴れていた。


「しかし、何より、あの晩にあそこへいてやれたらよかったんだ」


 無弦は顔を逸らし、噛み締めるように小さく呟いた。

 すると、奇天は膝を打って面白がる。呵呵大笑、それから声を低くして言った。


「フフフフフ! 可哀そうなやつだ。まあ、いたとして、お前でオレには適うまい。いつだってオレのほうが上だった!」


 二人はそれっきり、ほかに何を言うでもなく、しばらく黙って酒を吞んでいた。

 外もちらほら灯りを消し始め、いよいよ街も寝入る頃である。

 舞い疲れた蛾が障子に止まり、滲んだ文様をした翅をしきりに持ち上げては垂らしていた。

 初めに口火を切ったのは奇天であった。


「なあ、無弦。昔のよしみでひとつ頼みがある」


 無弦は静かに顔を上げた。

 傾けた杯の向こうから、奇天の澱んだ瞳が覗いている。

 牙を剥くような笑顔で彼は言った。


「あれ、くれよ」


 無弦の返事はない。

 奇天は胡坐のまま、背を丸めて鎌のように首をもたげた。


「白秋だ。うちで奉公させるでも、仕官させて部下にくれるのでもいい。何なら、嫁に貰ったっていいぞ。オレもそろそろ周りがうるさくてな」

「お前、それで俺が頷くとでも思っているのか」

「何、隙を見て口封じしようって訳じゃあない。いや、確かに以前はそのつもりだったが、気が変わった」


 昔は姉に引っ付いて泣きじゃくるしか能がなかったが、育ってみればなかなかの女振りであるし、物覚えもよさそうな様子だ。仕込み方によっては使いようが思いつかない訳でもない。


「何よりいいのはあの顔だ! あの美しい、花氷と同じ顔が、今度こそオレを見る! その事実に比べれば、向けられる感情の違いなど些末なことだ」


 かつて、まったく思い通りにならなかった女に生き写しの娘。手元に置いておけば、どんな心で自分を見上げるだろうか。憎悪か、それとも悚然しょうぜんか。想像するだけで満たされるようだ。

 奇天は片手で顔を覆い、満足げに口元を弓なりに曲げた。


「初めこそひとり逃がしたことを後悔したが、やはりあの晩に殺さなくて正解だった。あいつだけが本当のオレを知っているんだ。傍に置くに相応しいじゃないか」


 無弦は己の椀に酒を注ぎながら涼しげに応えた。


「何、お前の本性など、すぐに天下へ知れ渡るさ」

「オレを告発するつもりか? だが、お前たちが何を言い立てたところで、誰も信じやしないな」

「それもそうだ。今となってはお前自身の言葉以外、証拠にならんだろう」


 そこで無弦は初めて、射抜くような力強い声を上げた。


「だから自分から喋らせてやっただろうが」


 奇天が杯を置く。訳が分からず、怪訝そうに睨めつけるのを、無弦は嘲るでもなく見つめ返した。僅かにでも残った、故人ともへの情であったのかもしれない。


「隣の座敷に役人と捕吏を呼んである。お前の白状は一句漏らさず聞いたことだろうな」


 それが別離を告げる言葉であった。

 たちまち奇天は立ち上がる。それと同時に役人たちが左右の襖を押し倒し、濁流のように溢れ出た。

 喊声かんせいの最中、無弦はただ、蝋燭の傍に落ちた虫を憐れんだ。

 蛾は仰向けになって、まだその毛皮を繕う夢でも見ているように微かに前脚が揺れていた。


「これで全部おしまいだ。ようやくな」

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