一四 怪物、都にて悪事を働く事
のちに、生き残った捕吏のひとりが聴取に答えたことには、以下のような話であった。
しかし、世に名高き一騎当千の将といえども、馬も刀もないで囲まれれば一溜まりもなかろうと誰もが思っていた。
事実、一度は不意をつき、組み伏せたものだよ。無様なもんだった。頭も首も、腕や足首まで何人もの捕吏が抑え込んでいたのさ。
けれど、縄にかけようと誰かがやつの手首を掴んだときだった。
ぐるるう、ぐう。
確かにそう聞こえた。獣の唸り声だ。大きいやつだ。
ぐるるう、ぐう。
瑚滉にそんな獣がいるもんか。
奇妙に思って、みんなで顔を見合わせたのを覚えている。
ああ、もしかしたら、人食い虎のことを思い出したやつもいたのかもしれないな。不安げな面だった。おれは、今になるまで思いつきもしなかった。当然だろ、おれたちが取り押さえていたのは人間のはずなんだから。
それからすぐに、誰かが悲鳴を上げた。おれが微かに見たのは、その手から指がいくつか無くなって、血が吹き上げていたところだけだった。
「こいつ、食い千切りやがった!」
また別の誰かがそう怒鳴ったから、若いやつらが何人か、驚いて少し力を緩めてしまったらしい。
瞬間だ。やつの身体はばねのように跳ねあがって、たちまちに十人余りを吹き飛ばした。悪鬼羅刹もかくやという馬鹿力だ。あの細長い体のどこにそんな力があったんだか。
あっという間に、おれの前にいた同僚が二つになって、四つになって、床のあちこちに散らばったよ。あいつには感謝してもし切れないもんだ。あいつがいなかったら、おれがああなっていたんだろうから。
不思議な光景だった。
相手は何の得物も持っていないはずなのに、みんなばらばらになって死んでいくんだ。妙に綺麗な傷口だった。
その先はよく分からない。
責めないでくれ。この潰れた目ん玉じゃあ、無理だって分かるだろ。
本当に不条理な話だ。
おれたちはみんな、才を磨いた故に取り立てられ、示した忠義に相応しいだけの俸禄を頂いてきた。不満に思ったこともない。それがこの世の道理と思って暮らしてきた。
しかし、こんな簡単に、突然に、役立たずにされてしまうんだよ。いや、お上は悪くねえ。こんな身体で捕吏は続けられないことくらい分かってる。妻も子も遺して死んだやつに比べたら何倍だって幸運だ。
でも、なんかな。虫にでもなったみてえな気分だよ。
***
「無弦、お前、オレを、嵌めたな……!」
総身を返り血で真っ赤に染めて、ゆらりゆらりと奇天は歩み寄る。
転がる捕吏たちの臓腑を踏み躙り、激情に青筋を立てながら、整った顔ばかりが相変わらず、にやついた笑みを浮かべている。
捕吏たちを襲った蹂躙の余波を受け、無弦は床に伏せて動けない。
ぐらぐらする頭を押さえながら、汚れきった友人を呆然と見上げた。
「お前、今の────」
辺りは、およそ人間の行った事象の結果とは思えない惨状だ。無弦は脳が冷え切っていく感じを、いやに強く覚えた。
奇天は首を鳴らし、薄っぺらな歓声を上げ続けていた。絞り切った瞳孔がぎょろぎょろと動いて、無弦を舐めるように見つめた。
「フフフ! フフフフフ! は、ああ、本当にお前は間抜けだな。何をやっても詰めが甘い」
彼が宙に爪を立てるように右手を振るうと、それは異形の腕に変わった。
鎌に似た五本の黒い刃が、歪に伸びて耀いている。
「入れる籠もないのに鳥を捕まえられると思ったか? 履き違えるな。狩るのはオレだ」
「……!」
立ち上がれない無弦の首を、そのまま落としてやろうと振りかぶる、刹那、小さな影が屏風の陰から躍りかかって爪を食い止めた。
夏却だ。小刀の刃を零すのも厭わず、決死の形相で打ちとめる。
奇天は驚いた。いつから隠れていた? 入ってくるのを見逃したか?
否、最初からだ。奇天が部屋に入る前から、夏却は屏風の裏で息を殺して待っていた。計画通りに事が進み、奇天が役人たちに取り押さえられても、決して気を許さない。何人の役人が塵殺されようと、守るべき相手を違えない。
ただひたすら存在を悟られず、必ず、この一手を打ち逃すことがないように。
「古狸風情が小賢しい真似を……だが、無駄だな」
夏却と鍔迫り合いながら、奇天はその反対の指先をくいと振る。
「────、あ」
飛沫が飛ぶ。見えない斬撃が無弦を袈裟懸けに裂いた。
無弦はみるみる湿っていく胸元を押さえ、苦しそうに転がっている。
奇天は鼻で笑った。
傷はわざと浅くした。つまらない謀りごとの代償は、じっくりと払わせなければならない。
夏却は気を取られた隙に首を掴まれ、片手に吊り上げられた。
鼻先を同じ高さに持ち上げられるだけで、足はぷらぷらと浮いた。
頑丈な拳による激しい殴打に晒され、一撃の度に気を失いそうになる。
触れられていないはずの皮膚が、勝手に裂けて血を噴き出す。
夏却は
何も為さずに死ぬのだけは許されない。
「無弦さま! クソッ」
夏却は小柄な体躯で器用に腕を抜け出すと、そのまま相手に取り付いた。
間髪入れず、逆手に持った小刀で奇天の背中を刺す。
「! このガキ……!」
もはや夏却の意識は朦朧としていた。鼻からも口からも血が垂れて止まらない。
理屈などすべて忘れ、ただ本能で食らいついていた。
先のやりとりで刃が潰れ、思うように肉は裂けない。それでも、鈍い切先は奇天の背にしっかりとめり込み、突き立っていた。
奇天は呻くと、数歩余りをよろめいた。
夏却を反対の壁際まで振り払い、強く肩で息をする。
ずるいことをされた。はなから正面切って戦えば、歯牙にもかけない相手のはずだ。
それが、事もあろうに、背中に傷をつけられた!
この屈辱を如何にして晴らせばよいものか。
苛立ちながら無弦の頭を踏みつけにしようとした瞬間、外廊を数人が走ってきた。騒ぎを聞きつけた白秋たちだった。
「旦那さま! 夏却!」
息を切らした弧星児が先陣を切り、白秋と司春が続く。
しかし、三人は室内の異様な光景に硬直し、僅かに足を止めてしまった。
混乱を感じ取るやいなや、奇天は辻風のように隙間を抜け、すれ違いざま、白秋の胴を片腕に抱いた。
「うあ」
嫌な浮遊感に白秋は真っ青になり、泳ぐような手で二人に手を伸ばす。
司春がその手を掴むよりも早く、奇天は回廊の欄干を踏みつけ、外の暗闇に飛び行った。
「お前らの処刑はまた後だ! こいつは貰っていく、フフフフフ!」
人一人を抱えて尚、奇天は軽々と屋根から屋根に飛び移り、あっという間に二人の姿は夜の中に紛れて見えなくなった。
「白秋、白秋!!」
司春は後を追おうとして、今にも転がり落ちそうになって身を乗り出した。
弧星児に押さえられながら、ただ白秋の名を呼ぶ声が、瑚滉の街に響いていた。
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