一二 司春、虎の嘆きに応える事


 桜桃宴の翌日、司春は夏却に事の顛末を話した。

 兎にも角にも、司春は都の事情が分からない。それがどうにも自分だけが置いていかれているようで焦燥を感じていた。僅かでも知れることを知っておきたかった。


 夏却は一通りの話を聞くと、腕組みをして口を開いた。


「金烏上将と言ったら、確かに丁度一年ほど前、新しく変わったと聞いたな」


 夏却が聞くところには、その新しい将軍は瑚滉貴族の出だが長らく地方にいたらしい。

 去年の夏に補任を受けたとして、都に拠点を移すには半年ほどかかるから、白秋が今まで顔を見ず、気づかなかったのも無理はない。


「その気分上々ってのは偉いのか」

「金烏上将は軍人の最高官だ。これより偉いお方は帝しかおられない」


 中央の官人はその職掌により、指揮系統を完全に分けられている。

 文官の頂点は三人の宰相であり、その中でも位が高いのが左府の無弦である。

 それと同じように金烏玉兎の上将二人が武官の統率を担い、太陽を示す金烏上将のほうが月である玉兎上将よりも格が高い。


 無弦の名を出されても奇天が余裕綽々とした様子を崩さなかったのは、このためである。まったく別の組織の、ほぼ同格と言って差し支えない相手に、彼が媚びへつらう必要はなかった。


「こちらから訴え出るのはどうだ」

「客観的な証拠がない。讒言ざんげん……ええと、嘘だとしか思われないぞ」

「無弦が言っても駄目か」


 司春は身を乗り出し、食い入るように尋ねるが、夏却は首を振った。


「陛下は思慮深いお方だから、こればかりは甥の言うことでも鵜呑みにはなさるまいよ」


 十一年前の殺人では、もはや証拠になるのは当人たちの記憶しか在り得ない。

 しかし下手人の奇天が自ら罪を告白するはずもなく、白秋たちの一方的な主張にしかならないことは簡単に想像がつく。


「それに向こうは軍功多大な新将軍殿で、対する我らが旦那さまは人懐こいのだけが取り柄のぼんぼん宰相だ。政治的にもこちらが抑え込める相手じゃない」


 司春は押し黙る。薄々分かってはいたが、自分の浅知恵や若いだけの力ではどうにもならないことをはっきり突き付けられると、流石に憂鬱な気分になった。

 すると、肩を落とす司春を見かね、夏却は彼の膝をはたく。


「そもそも、まず考えるべきは数日もしたらそいつが堂々と乗り込んでくることについてだろう」

「そうだ! 何であの奇天とかいうやつはここに来る」

「さあ……姫さまのことではあるだろうが」


 夏却は人を手に掛けたことがないから、逃がした子どもが大きくなったことに気づいたところで、奇天がどうしたいのか見当もつかない。

 何か脅すつもりなのか、まさかまだ何かするつもりなのか、碌な内容でないことだけが確かだ。

 夏却の歯切れが悪いので、司春はやきもきして唸っていた。


「あの野郎、妙なことを言い出したら手足千切って裏の水路に投げ込んでやる」


 それはちょっとやめてほしいと夏却は思った。


「お前あいつに歯が立たなかったんだろう。大人しく無弦さまに任せておけよ」

「次は勝つんだよ!」


 そう言って自らを奮い立たせる司春が、夏却にはひどく眩しく見えた。

 こういう飛び抜けた明るさが、この宰相家を前に進ませるには必要だったのかもしれない。

 夏却は呟くように言った。


「……数年前、兵役を終えた知人から妙な話を聞いたことがある」

「妙な話?」

「西の国境に、剣の一振りで五人を斬る背の高い男がいたそうだ。腕が立つというより、まるで妖術でも使っているようで気味が悪かったらしい。奇天が名を挙げたのも、西じゃなかったか」


 確かに、文官がそのようなことを言っていたと司春は答えた。

 夏却は、だったらもっと慎重になれ、と言った。


「お前はどうしたってただの人間だから、相手の正体はよくよく見定めろ。馬鹿正直に化かされてやる義理もあるまい」


 それは一体どういう意味だろうと思って司春が考え込んでいると、廊下から声がかかった。弧星児だった。


「失礼します」

「何か急用が?」

「ええ。まず旦那様が、夏却にご相談があると。それと……」


 そう言うと、弧星児は沈痛な面持ちで司春のほうを見た。


「司春は白秋さまのところへ来ていただけますか」


***


 弧星児に連れてこられたのは、ふた月ほど前に見たっきりの白秋の部屋の前だった。

 ここで白秋に出会ったのも、随分と前のことのように感じる。


「俺が入っていいのか」

「私では月並みの慰め言しか申せません。それに、長く宰相家に仕えている者には言いづらいこともありましょう」


 司春は時々、この侍女が一体どこまで見透かしているのか不安になることがあった。

 たまに変な占いをしてもらえば、あると言ったことを外した試しがない。

 今回もまるで、司春なら白秋の必要とする何かを持っていると最初から分かっているようだった。


 そうか、と頷いて司春が部屋に入るのを見ると、弧星児は一礼をして席を外した。

 襖を閉めてしまえば、雨戸まで下ろされた部屋はひどく暗く、灯りのひとつもない。

 ただ、目が慣れてくれば、かろうじて中央に、白い虎が背を向けて丸くなっているのが分かった。


「怒りくるっている訳じゃないな。今度は何に拗ねている」


 司春がそう投げかけると、虎は僅かに尾を揺らして答えた。


「……拗ねてない」


 やっぱり拗ねているじゃないかと思いながら、司春は白秋の傍に近づいた。

 虎の身体は以前に見たときよりもずっと大きく膨れ上がっていて、広い部屋の半分は埋めてしまいそうだった。

 柔らかい毛皮に背中合わせにもたれかかり、司春は白秋が語るのを待った。


「……私は、恨みを忘れて暮らすことが無弦の望みだからと言ってはいたが、結局は、仇を見ればまた憎悪に駆られるものだと思っていた。見つけることができないから、穏やかにいるだけなのだと」


 白秋はしゃがれた声で淡々と述べた。きっと宴から帰って以降、こうして虎になったまま、ずっと考え込んでいたのだろう。


「ところが、いざ会ってみると、あれこれ思い返してもあの男について感じるのは、あなたや雪虫が傷つけられたことへの怒りだけ。不思議なことに、父母の悲しみや姉の無念には思い至らない」


 こうして積年の願いが叶ってみると、あの蛮行を許しがたいと感じるのは理屈的なものであって、身を焦がすような復讐の炎は消えてしまっていた。

 それよりも、十一年前から変わらず、何もできないままの不甲斐ない自分のほうが、ずっと許せないように思えた。


「あれほど夢に見た怨敵というのに、すぐにはそれと気づけぬほど、私は堕落し、愚かな腑抜けに変わり果ててしまった。深く抱いていたはずの恩讐が、いつの間にか空っぽのなまくらになっていた」


 虎は段々と声を細くして、泣きそうになりながら小さく、小さく言った。


「今はただ、それだけを恥じ入るばかりで、苦しい」


 司春はしばらく黙っていた。

 それから、どうしたら、自分が彼女に抱く羨望を伝えられるかと考えた。


「それは、善いことなんじゃないかと俺は思う」


 司春は何度も拳を握ったり開いたりしながら言葉を紡いだ。

 声と声の間に、穏やかな雨音が響いていた。外は雨だったことに司春は初めて気がついた。


「お前がかつて停滞や泥沼に喩えていた時間は、本当は前に進んでいたんだ」


 虎が小さく唸る震動が伝わる。

 司春は白秋に頭を預けた。


「十年前のお前にとっては、それまでの十年がすべてに違いない。だが、今のお前にとってはその十年はすべての内の半分だ」


 虎は一層低い声で尋ねた。


「過去が価値を失うのは、自然なことだとでも言うのか」

「少し違う。誰も、一日の大きさを正しく知ることはできないんだ。失う訳じゃない」


 司春は微かに聞こえる雫の音に、故郷の雨季を重ねていた。


「俺はちびの頃、夏になると、この夏が永遠に続くと思っていた」


 これからの人生をこの暑い青い空の下で暮らすことになるのだと思い込んでいた。

 ずっと前に寒かった日々もあった気がするが、それは少年にとっては太古の昔のことと同じだった。

 季節が変わるというのは多分、規則性のない突然の出来事なのだと想像していた。


「冬が来ると、今度はこの寒さが一生続くんだと思った。それくらい長く感じていた。季節が巡ることに気がついたのは十二になってからだ」


 すると、白秋は首を後ろに向けて苦言を呈した。


「それは……流石に馬鹿だろ」

「あァ、馬鹿だ。でも、そこでようやく、年を重ねると時間は短くなるものだと分かった。誰も教えてくれなかったのを自分で気づいたんだ。これは賢いぞ」


 司春は笑ってそう言った。虎が少し小さくなったのを背中に感じた。


「俺が一日を生き延びる度に、俺が過ごした『一日』は少しずつ小さくなっていくように感じられる」


 司春は両腕を伸ばし、『一日』の大きさが変わっていく様子を示した。


「でも、それは錯覚なんだ。初めの一はそのままに、また一が増えて二になっただけのことを、俺たちは今までの一が半分になったと勘違いする」


 実を言えば、これは行商をしていた伯父の受け売りだった。

 馬鹿が商売で金を扱うには、一枚の銭の価値を忘れてはいけないというのが彼の口癖だった。そうでなければ、全体の額に目が眩み、値切りや損切りで騙されるからだと。


「お前は最初の十年を忘れたんじゃなくて、同じだけの大事な時間を瑚滉で得たんじゃないのか」


 とうとう虎の大きさが、司春の手のひらが白秋の頭に届くところまできた。

 白秋の嗚咽に合わせて、司春は優しく彼女の額を撫ぜた。


「一が半分にならないように、一の恨みが二や三になったりはしない。お前が怒りを抱けなくなったのは、その変わらない恨みより何倍にも豊かな人間になったからだ」


 司春は白秋のそういうところが初めから好きだった。

 恨みや後悔に囚われないことが、どれだけ難しいことか。


「それはお前と無弦と、この屋敷のやつらが全員で掴んだものだ。それだけお前が休める場所を、みんなでここに作ったんだ」


 それを聞くと虎は一層大きな声で哭いた。泣いて、鳴いて、涙を流して、仔牛くらいの大きさになった。

 白秋は人間の腕で司春に抱き着いた。


「私は、どうしたらいい」


 司春は大泣きする白秋の背中を擦りながら、ゆらゆら揺れた。


「あのときの文官に実桜をたくさん送ってもらった。一緒にたらふく食おうじゃないか。それからゆっくり、これからすることを決めたらいい」

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