一一 白秋、不俱戴天の仇に遭う事
陽は西に傾き始め、人々も疲労感に包まれて、宴の騒がしさも少し落ち着いた。
白秋を片腕に抱いたまま、司春は言う。
「ところで、俺との約束は忘れてねえだろうな」
「あ」
白秋は自分の唇を触って固まった。
池に落ちてから先、籠を見た記憶がない。かんざしに気を取られて実桜を拾い損ねたようだ。
ばつが悪そうな面持ちで目を逸らす白秋に、司春は口を尖らせた。
「あ、ってなんだよ」
「戻ったらあげようと思ってたんだけど」
指先を突き合わせ、白秋は上目遣いになって答えた。
「……全部池に落としちゃった、ごめん」
「待てやオイ」
思わず両手で白秋の肩を掴む。白秋がぺろりと舌を出すと、司春は鼻息を荒くして、子どものように悪態を吐いた。
「クソ! 人の心を弄びやがって! 何が俺のすね毛を毟るだ! 俺がお前のすね毛を毟ってやる!」
「何よ! 私にすね毛なんかある訳ないでしょ!」
「じゃあ鼻毛だ鼻毛!」
白秋の鼻を摘まもうとする司春と揉み合って騒ぐ。子猫のじゃれあいとそう変わらない。
そこに、急に上から覆うように立つ影があって、二人はびくりと震えた。
不安になるほどひょろりと背の高い男が、黄昏の日差しに照らされている。
二人でさえ並の人より上背があるというのに、この男はそれすら軽く超えて
白秋を覗き込むようにして眺めていた男は首を傾げて呟いた。
「お前、
あの、嫌な感じのする匂いが虎の嗅覚をくすぐった。
***
司春は妙に総毛立つ思いがして男を見た。
相手は女性がうっとりとするような雰囲気の、三十路を半ば行ったほど、黒髪が艶やかな美丈夫だった。身なりも随分と整っている。それだから、かえってその背丈が異様なものに感じられた。
男は司春には目もくれず、しきりに何かを思い出そうとしていた。
「花氷。いや、そんなはずはない……しかし……」
「こいつ誰だよ。知り合いか? ……白秋?」
司春は何だか恐ろしくなって、白秋を小突いた。
しかし返事はなく、横を向けば彼女は顔面を蒼白にし、脂汗をかいて立ち尽くしていた。泳ぐ視線が、男の姿を確かめてはまた揺れる。
すると男は目を見開き、心底嬉しそうに手を叩いた。
「思い出したぞ。驚いた。フフ! まるで生き写しじゃないか」
そう言うと、男は白秋の腕を掴み上げる。ごみ山から人形でも引き上げるようなぞんざいな扱いだった。白秋は険しい顔で睨みつけた。
「やめろ、触るな」
「大きくなったなァ、あの深手でよく生き延びたもんだ」
男は掴むのとは反対の手で、暴れる白秋の頬をなぞる。白秋が掠れた声で拒絶しても、耳も貸さない。
「まさか、妓女になっていたとは思わなかった。落ちぶれて可哀想に」
男の高級そうな衣の裾を、雪虫が必死に噛みついて引いている。
忠犬の唸り声に我に返った司春は青筋を立てて掴みかかった。
「おい、いい加減にしろよ!」
ようやく司春と雪虫に意識が向いた男は、小犬を蹴り飛ばし、司春を軽く放り投げた。
その細い見た目からは想像もできないほどの膂力である。男はつまらなさそうに頭をもたげた。
「不躾な犬ころを二匹も連れて……そういうところも花氷によく似ている」
「雪虫、司春!」
白秋は地面に転がった一人と一匹に気を取られたものの、すぐに強く引き戻された。
男が彼女の胸倉を掴み、己のほうへ向き直させる。
「この安物はお前の
男は手を伸ばし白秋のかんざしに触れるが、たちまち鋭い平手に振り払われた。
「触るなと言っている!」
「つれないな。死んだと思っていた知己に十一年ぶりに会えたんだ、
男は冗談めかして笑ったが、眼ばかりが爛々と光っている。
薄気味悪い男からようやく身を引き離し、白秋は二三歩後ずさった。
「お前……頭がおかしいんじゃないか!?」
息を詰まらせながら、白秋は叫ぶ。
血がうまく回らず、目の前が白み、意識は朦朧としている。
騒然とし始めた周囲の声も、今の白秋には届かない。
「どの面下げてそんなことッ、お前が全部壊したんだぞ……!」
白秋の瞳孔がみるみるうちに細くなり、赤い口元から牙が覗く。
司春はよろめきながら立ち上がり、抑え込むように彼女を支えた。
「白秋!」
白秋を搔き抱く司春を、男は、にやついたまま見ていた。
逆鱗に触れたような不気味な気配に晒されながら、司春は必死に白秋を宥めた。
撥ねられても戻ってきた雪虫が勇敢に再び吠えたてている。
「白秋、落ち着け、人がいる」
ゆっくりとうずくまるように共に座り込み、司春は男を見ないように俯いた。汗が顎を流れ、ぼたぼたと垂れる。
昔話の怪物か何かを前にしたような、異常な重圧が肩にかかる。
男は変わらず笑みを浮かべているのだろう。殺されるとしか思えなかった。それでも、ここで白秋を離して、自分の前で虎に変えてしまうよりはずっといい。
「上将閣下!」
そんな緊張状態に飛び込んできたのは、司春の知らない官吏だった。
白秋を見つけて舞姫の代わりにした、あの文官だ。
文官はうやうやしくお辞儀をすると、男から司春たちを庇うように片袖を広げた。
「失礼ながら、こちらの女人は本分にあらぬところを、私が無理を言って壇上に乗せた者でございます。よそに元来仕えるべき主君がおられますので、あまりお戯れにならぬよう」
「何だと?」
それを聞くと、上将と呼ばれた男は不機嫌そうに眉の根を寄せる。人外の気配は抜け、司春もすかさず言い足した。
「おい、あんた。悪いが、こいつの身分は宰相無弦殿が預かっている。何か用なら上に通せ」
司春は夏却から、困ったときはこう言えと教えられた通りに述べた。
そうすれば、大概の人間は怖気づいて立ち去るはずだった。
しかし、男は驚くどころか、己の顎を撫でさすり喉を鳴らして笑った。
「無弦……? 無弦。そうか、あいつも物好きなことだ。いや、分かった。小僧、奴に伝えろ」
男は機嫌がよさそうに肩を揺らして、踵を返す。その横目には、必死に人混みを掻き分ける無弦を映していた。
「『
奇天が人々を見下ろすと、ざらりと道が開ける。
ひらひらと手を振って去る男の背を、ようやく駆け付けた無弦が呆然と見つめていた。白秋に駆け寄るのも忘れ、奇天の背を捜してただ拳を握り締めるしかなかった。
しばらくすれば、何事かは分からないが大事にはならなかったようだと、人々はまばらに消えていく。
そうして、舞台前にはうずくまる白秋たちと傍に立つ文官ばかりが残された。
気まずそうに首を掻いた文官は、おもむろに司春たちのほうを向いた。
「君たち、大丈夫か? もっと早くに割って入ればよかったな、すまない」
「いや、助かった。訳が分からねえ、誰だあいつ」
頭を振って礼を言った司春の問いに、文官は素直に答えを返した。
「最近、都に帰ってきた軍人だよ。西の国境で手柄を立てて、去年、将軍に任じられたそうだ」
それでは、瑚滉にはしばらく近寄りもできなかったはずだ。司春は嫌な予感がした。
「なんだってそんな男が白秋を知ってる」
「好色だとかいう話は聞いたことないがね、顔が好みだったんだろう。それにしたって女の口説き方を知らないやつだ。自分の官職を鼻にかけてるところも感じが悪いよ。第一、もとの家柄が────」
司春は白秋に聞いたのであるが、それを自分に向けてのものだと勘違いした文官は、高官への不平不満を長々と並べ立てる。
司春の腕の中、袖に縋りついた白秋が爪を噛みながら呟いた。
「あの男だ、間違いない」
あの男の魂の匂いが鼻にこびりついていた。
白秋自身も知らない、背中の古傷がじくじくと痛む。
夏も近い頃だというのに、今にもあの晩の雪の冷たさを感じそうだった。
「あいつが、みんなを殺した……!」
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