一〇 司春、月の姫君に焦がれる事
白秋が舞っている間、観客は僅かに声を漏らすこともなく、息を飲んで見つめていた。
決して、巧くはない。音はずれているし、やたら動きが速く、型もない。
瑚滉の舞踊ではない。舞い手としては、下から数えたほうが早いだろう。
事実、どこの誰かさっぱり分からないから、無名の人物なのだろうと思われた。
しかし、その乱れた動きが、かえって心を動かして仕方がない。
瑠璃色の袖が閃く度、闘魚の
雪のように白い肌が日差しに照らされると、熱に解けて消えたように見えた。
くるくるりと回る様は海原の渦を絵に描いたよう、ひたと止まれば深山の滝のよう。
奇妙な引力が最上の音色と稚拙な舞をなめらかに繋ぐ。
昔にいた、帝の寵愛を受けた踊り子のことなど観客は誰も覚えてはいないから、このおかしな踊りに揺さぶられる理由が分かるはずもない。
白秋がちらと見やると、無弦が杯の持つ手を狂わせ、酒を零しながら、たまげているところだった。
それから視線を手前に移すと、司春が目を丸くしてこちらを見上げていた。
白秋が密やかに笑いかけたので、彼は顔を赤くし、口元を押さえて俯いた。
***
司春には幼い頃からずっと抱えている疑問があった。
それは、自分が一体どこに行けばいいのだろうということである。
変わった色彩を持つ司春は、それを目当てにした盗賊に攫われたことがある。
九つの頃、羊の番をしているときだった。
賊の棟梁は、司春を見世物小屋に売ろうとしていた。
「こんな妙な色の小僧、どこに行ったって見つからねえ」
酒に酔った男が漏らした言葉は、鏡もまともに見たことがなかった辺境の少年の
覚者の教えで目を醒ますように、司春は自分の赤い髪や緑の眼が、
司春は隙を見て縄を解き、酔いつぶれ眠っている盗賊たちを殺した。
家畜以外を殺したのは初めてだったが、実際やってみれば同じようなものだった。
帰り道、川の水で返り血を落としても、少しの罪悪感と気持ち悪い優越感はこびりついて消えなかった。
大人たちには、子羊を追っていて道に迷ったと嘘を吐いた。
司春は、自分がまったく別の何かに入れ替わってしまったような気分になった。どうしてそう思ったのかはよく分からなかった。
それからというもの、弟を膝で寝かせているときも、妹のままごとに付き合っているときも、司春には漠然とした不安がついて回った。
どんなに周りが何の区別なく優しくしてくれても、自分は浮いた異物である。
自分は、本当はこの空間にはいられないはずの何かであって、無理やり捻じ込まれているのである。
それなので、今、誰かがポンと手を叩いたら、きっと簡単に世界の外へ弾き出されてしまうのだ。
そんな感覚を誰にも言えないまま、大人になって、逃げるように家を出た。
別に、この太陽の下のどこかに自分の居場所があるはずだなどという幻想は抱いていなかった。
己はこの国の色をしてはいないが、この国の心しか持っていない。
それはつまり、どこに行っても欠けているのと同じだ。
留まる場所もないままに、弱って死ぬのを待つしかない。
長い旅をし、瑚滉に来ても、あの感覚を忘れることはできなかった。
白秋という女に会うまでは。
その女は最悪だった。
馬のように気性は悪く、山猫よりも自適で、鷹と同じくらい高慢だ。
何より、初めに会ったときには殺されかけた。人を取り殺すという化け狐だって、もう少し可愛げがある。
こんな女に嵌るのはよほどの馬鹿だ。
そして司春はその馬鹿だ。
手綱を握るのはやっていられないが、放り出しておくといつの間にか傍にいる。
高い女のように振舞うくせに、ねだるものはいつだって形がない。
戯れに物を贈れば、子どもがおもちゃをもらったときのように気に入る。
それがあまりにも愛おしくて、何だって言うことを聞いてやりたくなる。
そうして振り回されていると、ほんの少しだけ、疎外感を忘れられる。
彼女に溺れているようだ。それで全部だ。
この月の下さえ我が身の寄る辺でないというならば、そのまま死んだっていい。
それくらいの恋をしている。
***
「司春!」
演目を終えた瞬間、白秋は舞台を飛び降りて司春に飛びついた。
その正体が宰相の姫君であると知らない人々は、若い男女を拍手で讃える。
司春はよろめきもせず白秋を受け止めると、思わず一度ぎゅうと抱きしめた。
それからすぐに、心臓の音を知られないように引き離す。
白秋はきょとんとして、また猫のように擦り寄った。
観客の足元を這い出て、雪虫が二人の下を跳ね回っている。
白秋は、いたずらっぽく目を細めて、司春に囁いた。
「無弦に謝るの手伝ってね」
「へいへい、仰せの通りに。お姫さま」
司春は赤い髪を掻きあげて、満更でもなさそうにそう答えた。
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