〇九 白秋、石英宮の大池に落ちる事

「雪、虫ィ~~~!」


 どうにか堪忍袋を抑え込み、声を震わせながら小犬の首輪を掴んで引き寄せる。

 白秋は鼻面から池に落ち、起き上がったとて腰まで水に浸かってしまっていた。


 ようやく抱き上げられた雪虫も、すっかり濡れそぼっていて、ぼたぼた雫を垂らしている姿は雑巾を絞っているのに似ている。


 白秋は慌てて懐を検め、射干のかんざしが無事であることを確かめた。


 この騒ぎは人混みのうるさいことに紛れてほとんどの客には顧みられていなかったが、近場にいた老年の女官だけがすぐに気づいて駆け寄った。


「あら、まあ! 大変なこと!」


 見知らぬ老女は白秋の様子をつむじから爪先まで見て、恐々と手を差し出した。


「お怪我はございませんか、岸に上がれますか」

「ええ、何とか。ありがとう」


 皺の寄った温かな手を取り、這う這うの体で陸に上がった白秋は、台無しになった衣装を見て溜息を吐いた。

 袖の水を絞ったり、裾をまくったりして、ようやく満足に立ち上がれるようになったが、これからどうしたものかと思っていると、老女が手前に見える建物を指して言った。


「濡れたままではよくありませんから、一度、殿舎でお休みくださいな」


 実のところ、初夏の池水はまだまだ冷たく、白秋の身は凍えて唇も少し青ざめていた。

 肌を拭く布も用意があるだろうということで、白秋は老女に大人しくついていくことにした。


 部屋に上げてもらい、雪虫の分も手拭いを借りる。

 老女は白秋の着替えを気遣って席を外す前に、膝をついて申し出た。


「迎えの方をお呼びしますから、どこの御方かお聞きしても? 大変に失礼ですけれど、どうにもお顔を存じ上げませんもので」

「え、いや……あっ」


 白秋はそこでようやく自分が顔のうすぎぬを落とし、素の面立ちを晒していることに気がついた。


 顔を隠しているのは無弦の言いつけであるので白秋はひどく焦ったが、ふと、これは己が無弦のところの白秋だと知られなければよい話なのだと思いついた。


「た、大層な家ではありませんから、乾けば自分で帰ります」


 白秋が裏返った声でそう言うと、老女は首を傾げたものの、納得はしたようだった。


「そうですか? でしたら、落ち着くまでどうぞここでお過ごしください」


 それから老女は藤で編んだ籠を置いた。どうやら替えの服が入っているらしい。


「お着替えも置いておきます。下働きの衣ですみませんが、返さないでよろしいですから」


 そのくらいのこと、濡れていなければ天の衣と同じだと思い、白秋は老女へ丁重に礼を述べた。老女は安心して、元の仕事に戻った。


 白秋はひとしきり自分の水気を取り、着替えも済むと、今度は雪虫をぎゅうぎゅう拭いた。

 すると小犬は遊んでもらっているのだと思って白秋の手にじゃれついた。


「雪虫! あなた、ちょっとくらいは悪いと思ってるんでしょうね!」


 白い小さな頬を両手で挟むが、雪虫はまったく意に介していない。

 この犬が調子者なのはいつものことだから、元気ならそれでいいかと諦めた。


「せっかくおめかししたんだから、みんなにしっかり見てほしかったなあ」


 そんなことを白秋がぼやいていると、通りがかった下級の武官が声を聞きつけた。

 男からしてみれば、空き部屋であるはずのところから声がするので、下女が隠れて怠けているのかと思い、すぐに障子を開けた。


「おい、こんなところで何やってる? それは犬……か?」

「あ、これは……」


 白秋は僅かに迷ったが、すべてを説明するより役に徹したほうが話は早いと判断した。

 そうと決まればつらつらと素知らぬ顔で話し出す。


「……これは御池で溺れていたのを助けたのです。白い生きものは神の使いと申しますから、見殺しにいたしますのも徳がないことと思い……」

「なんだ、そうだったのか。それはよいことをしたな」


 武官はあっさり信じた。

 疑って悪かったと言う武官の陰で、白秋はぺろりと舌を出す。

 まだ濡れ雑巾の様相を消し切れない雪虫が、笑顔で尾を振っていた。


 すると、そこへ慌てた様子の別の男がやってきた。文官のようだ。


「誰ぞ! 誰ぞ、舞踊の覚えがある者はいないか!」


 あまりの騒ぎに、武官が理由を問う。


「どうなさったので」

「余興の目玉に呼んでいた舞い手が急に倒れたそうで、代わりを捜してるんだ」

「あの都で一番と名高い舞姫ですか。並の宮女に代役は厳しいでしょう」


 そういえば、今回の桜桃宴には舞と楽で高名な一団が招かれていると無弦が言っていたような気がするなと白秋は思い出した。どうやら、その主役が病気でいなくなってしまったらしい。


 後宮にも舞をする役の者はいるが、そういった宮女は今、宴のあちこちでその仕事をしているので呼び戻せない。残っているのは本職ではない者ばかりだ。

 文官は拳を固め、苦悩した顔で言った。


「最悪、舞踊は下手でいいから公卿の方々が満足するような容姿があれば、誤魔化せるだろう」

「お偉い方を何だと思ってるんですか。第一、そんなことを言われましても、みんな忙しいですよ」

「そうだよなあ。そんな都合のいい女がいる訳……」


 そこで、何かを思いついたらしい武官が文官を突くと、その手で白秋を指差す。

 その通りに首を動かした文官は幽鬼でも見たかのように腰を抜かした。


「ウワァー! 夢みたいに都合よく暇そうな美人がいる!」


 素人の笑劇でも見せられているのかと思いながら、白秋は雪虫を抱えて立ち上がった。

 我に返り、そこへ立ちふさがった文官は白秋の顔を見て、期待の目で尋ねた。


「なあ、君、何か一曲踊れたりはしないか」

「舞ですか。我流なら……」

「この際、音に合っていれば何でもいい」

「追い詰められてるなあ」


 都で一番の楽団と比べたら月とすっぽんの内容になりそうなものだが、文官はそれでもよい、と言った。兎にも角にも、評判の舞姫が出ないことで盛り下がるのが恐ろしいのだろう。


「何だっていい、出番まであと一刻もないんだ! やってくれるか」

「仕方ないですね、分かりました」


 このまま断って宴が白けるのも気が悪い。舞の振り付けならば、以前に踊りが得意な鹿月公主が見せてくれたものをいくつか覚えているし、何もできずに棒立ちになることもないはずだ。

 白秋は頼みを受けることにした。


 文官は心から喜んで白秋の手を取り、裏方を呼んだ。


「代役が見つかった! 急いで化粧と着付けを頼む!」


***


 演目が押し迫った頃になって、白秋の用意が終わった。

 やきもきしていた文官の前に、澄ました顔の白秋が姿を現す。


「どうですか」

「おお……! 見込んだ通りだ、お仕着せだというのに誂えたように似合っている!」


 舞を飾るように作られた衣装は、白秋の長身によく映えていた。

 瑠璃色の生地が白秋の瞳の色にも合っていて、確かに、最初からそのために仕立てたかのようだ。

 動きを遮らないように身軽な印象の構造だが、露出が下品ということもない。

 たなびく袖の金糸が煌めく度に、雪虫がはしゃいで追いかけた。


 これなら例え代役が上に知られたとして、決して文句は言われまいと思われた。

 文官は自分の豪運に感謝し、次の帰省ではしっかりと故郷の祖霊を祀ることを誓った。


「これだけ様になっていれば、猿の物真似をしていたって貴族連中は気づくまいよ」

「聞かなかったことにいたします」


 壇上に向かいながら、白秋は気合いを入れるように頬を叩く。

 それから、司春のかんざしを髪に挿して、一歩を踏み出した。

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