〇八 白秋、桜桃宴に出づる事

 とうとう、その日がやってきた。


 桜桃宴は春の神を山に送り、夏の神を宮中へ迎える行事であるから、人々は邪を払うため身を清め、神の目を楽しませるため華やかに着飾る。


 白秋もその絹のような黒髪をしっかりと結い上げ、曇り一つない金釵を差し、仙境を絵に描いたものと見紛うような乳白色の装束に身を包んでいた。


 つんと澄ました顔は羽衣と同じ絹布を垂らして隠し、どれほど想像が掻き立てられようと下界の人間には知りようがない。

 しかし全身のかたちの美しいことは、誰が見ても嘆息せずにはいられない、儚げな花の化身のようだ。


 白秋自身はといえば、あまりにあれこれが重いのでげんなりしていた。


 石英宮の庭園にて官人を招いた宴会が始まるのは、禁裏にて神事が粛に取り行われたあとのことである。

 無弦は儀にも出席する立場であるので、白秋が明け方に仕度をする頃にはもう夏却たちと屋敷を出ており、せっかく拵えた晴れ着への所感はお預けとなった。

 白秋は司春のくれたあのかんざしを、せめてもと懐に入れて屋敷を出た。


 水路を舟で渡り、石英宮の大門に着くと、ほかの家の子女も最上の仕度を揃えて参上しているところであった。入り口で女童たちが実桜の入った小さな籠を配っている。

 実桜は黄みがかって可愛らしい紅色に熟したほんの小さな果実である。飴のような見た目ながら、一口含めば、夏らしい酸味が強く感じられる。


「雪虫! 今日の一日、あなたを白秋さまの護衛隊長に任じます!」


 仁王立ちする弧星児の前で綺麗なお座りをしていた雪虫は、短い尾を振りながら甲高く吠えた。黒豆のような目が、隣で紐を持つ白秋を見上げている。


「白秋さまを危険なことから先んじて守り、もし無礼な輩がいれば、その指を食い千切ってやりなさい」


 弧星児は物騒なことを言いながら、しゃがみ込んで雪虫の白いふわふわ頭を撫ぜる。

 そのまま弧星児に喉をくすぐられると、雪虫は小さな舌で一生懸命に彼女の指を舐め返していた。


 指どころか顎まで舐めあげられながら、弧星児は白秋へ母親のように言い聞かせた。


「本来であれば私が始終のお供をすべきではあっても、如何せん、女衆の差配をしなくてはなりませんので、姫さまをずっと見ている訳には参りません。宮中ですからおかしな人はないと思いますけれど、よくよくお気をつけてくださいませ」

「うん。大丈夫だよ。いざとなれば夏却でも司春でも大声で呼ぶし」


 現在、無弦の屋敷には女主人にあたる人物がいないため、社交は白秋が、家政は弧星児が代理として取り仕切っている。


 宴の最中は無弦のもとへひっきりなしに客があるので、女たちはその対応に追われることになる。食事や酒の支度は主催である桜桃殿の領分ではあるが、何人かは女手として送る必要もあるだろう。


 そんな訳で、白秋は弧星児の手伝いなしに桜桃宴を終えなければならないのである。


 白秋の振る舞いに不足があるとは思われないが、人出が多いと何があるか分からない。特に彼女は養い親に似て、聡い割に変に抜けたところがあるので、弧星児は不安だった。


 そんな弧星児の心も知らず、白秋は籠と雪虫を抱えて歩き出した。

 少し奥に行けば、桜桃殿の女官たちが忙しなく働いているところだった。


 その中の一人を呼び止めると、女官は驚いて丁寧に礼をした。


「ごめんなさいね、鹿月公主はおいでかしら? ご挨拶に上がろうと思うのだけれど」


 鹿月公主は身体が弱いのもあって、こういった催事に来ていることはそう多くない。

 自分の殿舎で休んでいるのであれば、実桜を届けるくらいはしようと思い、白秋は公主の居場所を尋ねた。


 すると、女官は照れたように頬を染めながら答えた。


「公主はお池の向こうの席におられます。案内いたしましょうか」

「いえ、あなたも忙しいでしょうから。ありがとう」


 顔を見せられるほどに体調がよいならば幸いだ。

 白秋はその足で無弦の席へ向かった。


 行けば、丁度、官人たちのご機嫌伺いも途絶え、夏却が茶を淹れるのを待っているところだった。慣れない正装で服に着られた司春は緊張で固くなりながら座っている。

 戻ったらからかおうと思いながら、白秋は一声をかけた。


「私、先に公主のところに顔を出してくる」

「分かりました……って、あれ! どこのお嬢さんかと思いましたよ」


 夏却はそう言って膝を打つと、ころころ笑った。

 その声に振り返った無弦や司春も、白秋の姿には目を見開くばかりである。


「弧星児は?」

「まだ帰ってきてないですね。呼び戻しますか」

「すぐだからいいや」


 飄々としていても生真面目な彼女のことだから、どこかであくせく働いているのだろう。

 夏却の申し出を軽く断ると、白秋は踵を返す。

 すると無弦は慌てて膝を突き、大袈裟につんのめって引き留めた。


「一人じゃあ危なくないか、俺がついていこうか」

「馬鹿」


 白秋の細い指が無弦の眉間に突き刺さり、彼は額を押さえてうずくまる。


「わああ」

「無弦の仕事は、ここに座って人の話を聞くことでしょ。しっかり働きなさいよ!」


 細い腕からは信じられないほどの力で無弦の背を叩き、白秋は去っていく。

 その後ろ姿を見つめながら、無弦は感慨深そうに茶を呷った。


「最近すっかり立派になっちゃって、寂しいよ俺はァ……」

「もう酔ってます?」

「父親というより親戚のおっさんなんだよな」


 主君の情けない声音に厳しい返しをした付き人たちへ、無弦は恥ずかしそうに鼻を擦りながら、実桜の盛られた籠を突き出す。


「娘の成長を喜ぶことくらい誰だってする! ……ほら、無くなる前に食っとけ」


 途端、夏却は喜んで摘まんだが、司春は腕を組んで固辞した。


「俺はいい」

「あ、酸っぱいの駄目か?」


 それは申し訳ないと無弦は籠を持った手を下げるが、司春は実桜をじっと見て答えた。


「いや、味を教わる先約があって、破るとすね毛を毟られるんだ」

「えっ、何それは……怖い……」


 言っていることの割には、司春の表情はどこか嬉しそうだ。

 無弦と夏却は、心配そうに彼の足を撫でさすった。


***


 一方の白秋は、庭園の大池の周りを回るようにして歩いていた。

 浅く透き通った水の中には小魚が群れて泳いでいる様子が見える。

 初夏の若葉が面に浮かび、風が吹く度、涼しげな水紋が描かれる。


 やわらかな白砂を踏んで進み、様々に着飾った人々とすれ違いながら、白秋は深く息を吸った。


 そのとき、ほんの一瞬、気にかかる臭いがして白秋は足を止めた。


「?」


 何のものとはっきり思い出すことができないが、どうにも知っている気がしてならない。

 真っ先に悪感情を想起するが、どこか郷愁の念さえも駆られるような妙な感じがした。


 例えるならば、稲田の水が滞って腐ったり、狭い水路に汚泥が溜まったりしているときの不快な感じによく似ている。


「なんだか嫌な臭いね。池の水かしら」


 とはいえ、この大池は招いた神々がひとつの季節を滞在するとされる神域である。そんな臭いがするような杜撰な管理はされていないはずだ。


 それに、嫌な感じがしたのも僅かな時間でしかなく、奇妙な悪臭はたちまち掻き消えてしまった。

 不思議なものだと雪虫に語りかけると、小犬は舌を出しながら首を傾げていた。


「うーん、どこで嗅いだんだったかな」


 考えてもうまく思い出せず、すっきりしない。神事に使った何かの香が悪かったか、もしくは何かの勘違いだろうと片付けて、白秋はまた歩き出した。


 すると、それまで腕の中で大人しくしていた雪虫が激しく暴れ始めた。甲高く唸りながら、短い手足を振り回している。


「雪虫? どうしたの」


 抱っこに飽きたのかと下ろしてやるが、雪虫の興奮は治まらず、急に池に向かって走り出す。普段は膝に乗るような犬とは思えない勢いで、慣れない恰好をしていたのもあって白秋は引きずられてしまった。


「ウワッ」


 こうして快晴の空に飛沫が舞い、酒盛りの歓声よりも大きな水音が石英宮に響いたのだった。

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