〇六 白秋、後宮に赴く事

 瑚滉の華といえば、帝のおわす石英宮せきえいきゅうである。

 政治の舞台でもある都城は、絢爛という言葉では足りぬほどの姿によって天子の威光を四方世界に知らしめる。


 雲海のような白砂の中にそびえる玉楼は、しばしば竜神の宮にも喩えられる。

 そのような宮廷に、白秋は烏面をつけ、少しの供をつけて、しばらくぶりに参上するところだった。


 石英宮のうち、役人の働く官衙かんがが並ぶ南側は、どのような身分であっても立ち入ることが許されている。

 その一方で、北の殿舎は禁裏であり、踏み込むには相応の理由と格が要る。いわゆる後宮である。


 後宮の建物はそれぞれ名を付けられ、后妃や皇族たちに割り当てられる。

 白秋が向かっているのはその中の一つで、芒萩ぼうしゅう殿でんと呼ばれる楼である。


 芒萩殿の主は白秋の親しい友人である。封号を鹿月かげつ公主といい、帝の娘で、無弦の従妹にあたる。

 柔らかな栗色の髪と杏のような眼が華やかな、愛らしい娘だ。


 白秋は供を手前の座敷に残し、一人で回廊を進む。


 行き着いた部屋の中を、障子の陰からそうっと覗くと、公主は書を読んでいるところだった。膝の傍で、九か十の齢の女童が毬を転がして遊んでいる。


 公主は白秋の来訪に気がついて、女童に声をかけた。


小雀しょうじゃく、お茶を三つ持ってきてくれる? 今日は暑いから、氷を入れて頂戴ね」


 それを聞くと、小雀と呼ばれた女童は嬉しそうに小さく頷いて駆けていった。

 入れ替わるように白秋が鴨居を潜る。鹿月公主の向かいに腰を下ろし、白秋は嬉しそうに言った。


「今日は顔色がいいね」

「この前に頂いた薬がよかったみたい。宰相さまにもお礼を伝えてくださいな」

「そうなんだ。また取り寄せてもらうよ」


 それから小雀が帰ってくるまで取り留めのない話をしていると、象が踏み鳴らすような足音がして、小雀ではなく中年の侍女が盆を持ってやってきた。

 帯の色を見るに、芒萩殿に属してはいない、どこかの妃付きのようだった。


「はいはい、お茶を持ってまいりましたよ!」


 侍女が湯呑を溢さんばかりに乱暴に置く。

 公主は先に口を付けようとして、困ったように眉を下げた。


「あの、ごめんなさいね。獣の毛が入ってしまってるみたい」


 湯呑の中には氷どころか、野良犬の抜け毛のような房が浸されていた。およそ手違いとは思えない様に対して、侍女は悪びれもせずに答えた。


「あら? 小雀が聞き間違えたのかもしれません。ほら、公主様は半分がとつくにの方・・・・・・で、言葉も訛っておいでですから」


 侍女の後ろで、小雀が所在なさげに袖を握っている。何か言いたげに口を開いては、躊躇って俯いていた。

 それを見れば、幼い彼女が言いくるめられて無理やりに盆を取り上げられたことは想像に難くない。


 白秋が険しい顔をしたのも仮面に隠れて気づかれず、侍女はけらけらと嘲るように言った。


狐狸こりを入れろとおっしゃったものかと! うふふふふ!」


 鹿月公主はそれに怒るでもなく、穏やかに苦く笑ってから、もう一度新しいものを頼もうとした。

 しかし、はっきり言葉になる前に白秋のほうが口を開く。


「あなたの主人も気の毒ね」

「え?」

「一度言われたら疑いも持たずに、茶に毛を入れる馬鹿を抱えているのだもの」


 白秋がつまらなそうに言うと、侍女は顔を真っ赤にしたり、逆に青くしたりした。


 面の向こうから白秋の涼しげな目に見られるので、侍女は奇妙な怖気が湧いて止まらなかった。


 都の宮中にあって何故か、山奥で苛ついた虎に後を尾けられているのに似た嫌な感覚がした。まるで臓腑まで見透かし、値踏みされているようだ。


「あ……いえ、その……さっきのは冗談ですから、すぐにお取替えします」


 侍女は湯呑を掴むと、盆を持つのも忘れて、転げるように部屋を出ていった。


「よくもまあ、飽きずにこんなつまらないことをするものね」


 白秋が蠅でも払うかのように手を振ると、公主は鈴のように笑って礼を言った。


 盆を拾った小雀がまた部屋を飛び出して、今度は誰に邪魔されることもなく氷の入った茶を三杯持ってきた。

 白秋が駄賃代わりの飴玉を渡すと、小雀ははにかんで受け取った。


 今上の帝には鹿月公主のほかに子がいない。


 ただでさえ子ができにくい身体であるのに、生まれても虚弱な体質を継いで夭折が相次いだためだ。

 帝が四十路に近くなってできた鹿月公主だけが生きている。今年で二十になる。


 もとより甥の無弦を実の子のように可愛がっていた帝であるから、我が子への情も相当なものである。まめまめしく殿舎を訪れては、親子の語らいに僅かな余暇を使う。


 そんな訳で、自分の子が欲しい他の妃たちにしてみれば、公主は目の上のこぶに違いなく、女官を使った嫌がらせが横行している訳だ。


 帝に陳情しようにも、後宮のことを仕切るのは女たちであるし、帝室の儀礼や家政のことを考えれば彼女たちを追い出すことはできない。

 かといって、もはや新しい子を望んでいない帝から一人娘を引き離すのも孝行がない。


「全部飲み込んでるあなたは偉いよ」

「あれこれ気に病むと身体に障るもの。お母様だって、それで早くにお隠れしてしまったのだから」


 鹿月公主の母は砂漠から来た大商人の娘だ。異邦の美貌と舞踊で帝の心を射止め、後宮に迎え入れられたのである。


 しかし、言葉一つ通じない環境と、他の妃による嫌がらせが心身に堪えたのか、公主が十を越した頃に風邪を重くして死んでしまった。

 以来、公主には外戚の後ろ盾もなく、あれこれ敬遠されて降嫁の話も進まないでいる。


 彼女は決してぼんやりしているのではなく、深い考えを持っているのは白秋も知っている。それでも病弱な彼女のことを思うと、無理をしてほしくないと思ってしまう。

 そんな白秋の気持ちを知ってか知らずか、公主は切り替えるようにぽんと手を合わせて朗らかな笑みを見せた。


「そんなことよりね、白秋。聞いたわよ」

「何を」

「気になってる殿方がいるんですってね」


 白秋は一度茶を置き、かけられた言葉を丁寧に反芻した。

 それから、勢いで言いかけたことを三度ほど飲み込んで、ようやく答えた。


「別の話にしない?」

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