〇五 白秋、弧星児らと市に行く事

 それからしばらく、何ということのない日々が続いた。

 季節は移ろい、空には燕が見えるようになった。

 朗らかな春の陽気には微かに夏の匂いが交じりはじめ、花の盛りだった瑚滉ここうの木々も葉の色を濃く鮮やかな様に変えていた。


 瑚滉の郊外では田植えが始まり、方々で霊峰の湧水が涼しげに張られている。

 男たちが畑に出ている間、里の女は桑の葉を摘み、都の女は絹を織る。

 湖から南方に流れる大河を、翡翠ひすい玻璃がらす、香辛料を載せた船が上がってきていた。


 白秋はといえば、近い夏のために無弦の寝巻を弧星児と縫っていた。

 東の国から贈られたという上等な麻織りを友人の公主ひめから譲ってもらったのだ。服に頓着がない無弦から、くたびれた軽衣を剥がす丁度よい機会だった。

 二人に構ってもらえず、それが面白くない雪虫が、足元を走り回っては転んでいた。


 昼前になって、白秋は針を刺し山に戻すと、作りかけの寝巻を手離した。


「……目が疲れてきた」

「休憩しましょうか」


 白秋の訴えに、弧星児は軽く笑って答える。

 新茶を淹れると、雪虫は湯気を興味津々と眺めていた。

 弧星児は彼が勢いで湯呑を引っくり返さないように鼻先を押さえた。もう少し日差しの強い時期になれば、氷出しにするのも悪くないと思った。


 白秋はしばらく静かに茶を飲んでいたが、ふと足を持ち上げて、言った。


「ずっと座ってたから血の巡りが悪いかも。外行きたい」


 外、という響きに雪虫が耳を立て、小さな尾の動きが一層激しいものとなる。尻ごと千切れんばかりの興奮に、弧星児は堪らず声を上げて笑った。


「フフフ! 縫い糸も切れそうですし、色々と買い足すついでに歩きますか」


 抱え上げた雪虫に口元を舐められながら、白秋は心底嬉しそうに頷いた。


***


「あの、おれたち今日は非番でね……?」

「部屋で転がってるよりいいじゃないですか」


 表へ出る際、弧星児は大部屋で菓子をつまんでいた司春と夏却を引きずり出した。

 こうでもしないと休みは一日中を籠ってぐうたらしているのだから、と弧星児は呆れたように言った。

 雪虫を繋いだ縄を持たされた夏却はやれやれと肩を竦めると、白秋に挨拶代わりの誉め言葉をかけた。


「新しい着物もよく似合っておいでですな」

「南方の生地だって。風が通って涼しいの」


 そう言って白秋が裾を振って見せた舶来の薄布は、鮮やかな異国の青色に染められていた。輸入品といえば古くから北方由来のものが貴族には人気だが、近年の若い世代は貴賤問わず南から船で来る小物を好む。

 こうして方々から品々が集まるのは、瑚滉が平和で豊かであるという証左だ。


「どう?」


 白秋は司春に向かって袖を広げてそう訊いた。

 彼女はいつもの人の前に出るときと同じように顔を面で隠している。からすを模した、上半分を覆うような奇妙な黒い面だ。司春は初めて、まじまじと見た。

 烏面の下から白秋の得意げに結んだ口元だけが見えて、司春は顎に手を当てた。


「その面って付けたまま飯が食えるんだな」

「つまんないやつ!」


 白秋は耳まで赤くして早々に歩き出した。


***


 瑚滉は水の都である。

 古い湖に石と木の足場を組み、水路で区切られた地上部を造り出した。

 水路の両岸には摩天楼が立ち並び、そこから伸びる回廊が区画を繋ぐ。


 人口の増加に伴って楼閣と回廊が複雑に組み合わさり、結果、都そのものが一つの建物のような形になっていた。この不安定な構造を、年中繰り返される修理と千年かけて根を張った木や蔦によって保ち続けている。


 糸を買うなら東市の辺りだ。

 比較的に町人の多い区画で、農村からの行商が見世みせを出している。

 まだ人食い虎の噂も絶えぬ都だが、昼間に限っては華々しい活気を保っていた。


 弧星児が裁縫の材料を見繕っている間、白秋は手持ち無沙汰になって周りをきょろきょろと見回していた。

 夏却は雪虫が粗相をしたがったので人のいない路地を捜して離れている。

 司春はどうしているかと思えば、用心棒らしく周囲に気を配りつつ、好奇心に負けてちらちらと書店の品物を覗き込んでいる。


 白秋は少しずれた面を整えて、つんと立ち尽くした。


 少し目線をずらすと、東市の傍の路地にかんざしの露天商がいた。

 地面にぼろのむしろを敷き、破れかけの傘を立てかけただけの見世だ。宮女や貴族の娘たちが好むような華やかな金のさいなど、置いてはいない。

 ただ、造り自体は凝ったものが多く、時季の花を模した木彫りや、螺鈿らでんを嵌めた古風な細工がちらほらと見える。


 射干しゃがの花があしらわれた品が白秋の目についた。思えば今が花の頃だ。故郷の家の裏で、あの細波さざなみのような三枚二対の白い花弁が開いているのを姉とよく摘んだ。


 そういえば、瑚滉の人間はこの陰気を好む花のことは知らないかもしれないと思った。


 売り手の老爺は背を丸め俯いたまま、客引きのひとつもしない。

 陽に焼け切った肌と、土の黒ずみが抜けない爪が、彼の過ごした人生を示している。

 もう田畑の仕事は息子に任せ、自分は細々としたものを好きに作って、死ぬまでの暇を潰しているのかもしれない。


 白秋が品をじいっと見ていると、横から司春が顔を突き出した。


「欲しいのか」

「別に」

「金ないなら貸すぞ」

「あるわ。耳たぶ引き千切ってやろうか」


 そう言って耳を摘まみ、ぐいと引く。そうやって司春の顔を己に近づけた白秋は、小さな声で囁くように言った。


「……宰相の娘が、木のかんざしなんて買ったら示しがつかないじゃない」


 高貴な女は金のかんざしを使うものと相場が決まっている。木のかんざしは庶民の妻が使うものだ。

 白秋の立場で買い求めれば、養い親である無弦の評判を下げることになる。


「そういうものか」

「そういうものなの」


 ようやく耳を解放された司春は、少し考える素振りを見せたあと、筵の前にしゃがみ込む。

 射干のかんざしを指差し、ぶっきらぼうに尋ねた。


「おい、爺さん。これ幾らだ」

「……何してるのよ」

「買い物だ」


 嗜めるように問うた白秋の顔も見ず、司春は軽く答えた。

 老人は皺だらけの口を微かに動かして、値段を言ったらしい。


「おう、そんくらいなら出せるぜ」


 司春は懐から気前よく銭を出すと、老人の手を取って力強く握らせる。

 その腕で白い花のかんざしを掴むと、そのまま白秋に手渡した。


「ほらよ」

「話を聞いていなかったの? 私は────」


 白秋はかんざしを両手でぎこちなく持ち、司春を見上げた。すると、彼は僅かに目を逸らして口早に言った。


「これはお前が買ったんじゃないだろう。俺が勝手に買って、勝手に押し付けている。何も問題はねえ」

「…………」

「女の飾りに疎い田舎男の、気の利かない贈り物だ。憐れに思って受け取ってくれ」


 そう言った司春の白い頬は薄らに上気していた。

 白秋は途端に胸の奥がこそばゆくなってきて、赤面を俯かせ、かんざしを大事に抱きしめた。


「────そういうことなら、貰ってあげる」


 それから白秋は穏やかな手つきでかんざしを挿す。うなじを晒すように首を背け、恐る恐る尋ねた。


「似合う?」


 すると、司春は素知らぬ顔で踵を返した。


「面が付いていちゃ分かんねえよ」

「本ッ当に……野暮なやつ! これは建前じゃなく!」


 司春の後を追って白秋も歩き出す。

 弧星児の買い物は終わったようで、夏却と雪虫も帰ってきていた。

 二人のやり取りを見ていた夏却は、気まずく頬を引きつらせながら司春の袖を引いた。


「あの、お前さ……男が女にかんざしを贈るってどういうことか知ってる?」


 司春は面白くなさそうに答えた。


「あ? 欲しがってんなら何をくれてやったって同じだろ」

「あ、そう……。お前はそのままでいいよ……」


 夏却の前方では、弧星児が手に入れた品を白秋に見せている。随分とよい買い物をしたようだ。

 その間も嬉しそうに忙しなく、かんざしを触る白秋に弧星児はそっと指を添えた。


「白秋さま。その贈り物を誰に頂いたか、旦那様には秘密にいたしましょうね」

「え、なんで?」

「フフ、なんでもです」

「ふーん、分かった」


 不思議そうに目を瞬かせながらも、白秋は素直に頷いた。


***


 帰ってから白秋たちは裁縫を再開し、日が暮れて行燈を点け始める頃には無弦の新しい寝巻が出来上がった。古いほうは雪虫の寝床にされた。

 完成品を渡された無弦はいたく喜び、その日の晩にも着ている姿を見せに来た。

 白秋が文机に向かって日記を書いているところだった。


「あれっ、どうしたの、そのかんざし。誰かに貰った?」


 白秋が寝る前になっても見慣れない飾りを付けているので、無弦は奇妙に思って隣に腰を下ろした。

 そのかんざしは、胡粉の白地に瑠璃の粉で模様が付けられ、まるで庭に生えた花をそのまま摘んできたかのようだ。射干の似合う横顔は彼女の死んだ姉に酷く似ていた。


「んー、なんかね、無弦には言っちゃ駄目なんだって」

「エッ、なんで……?」

 無弦は風呂上がりの白湯を片手に、怪訝な顔をするばかりであった。

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