〇四 白秋、月夜に司春と話す事

 互いに、どれほど見とれていたことだろう。

 月が雲にかげって、辺りは一層暗くなった。

 そこでようやく我に返った司春は、片腕で目を覆い、苦し紛れに吐き捨てた。


「……おい、早く降りろ。重いんだよ」


 取っ組み合いで衣服が乱れて、柔肌が直に触れあっている。司春はそれがどうにも恥ずかしくて、言い訳じみた文句を言った。


 白秋はむっとすると、猫のように腕を伸ばして司春の胸板に乗ってかかる。


「は? 信じられない。よく年頃の女にそんなこと言えるわね。今すぐ騒ぎ立ててやってもいいのよ」

「何でもいいから服を着ろ!」


 白秋は自分が何も着ていないことに気が付くと、目を丸くして男の頬をつねった。理不尽だと司春は思った。


 改めて調べると、司春の身体には無数の引っ搔き傷が付いていた。傷は浅かったが、手当をすると白秋が言い張るので、司春は彼女が着替え終わるのを部屋の隅で待っていた。


 行燈の光が、衝立に女の影をくっきりと映している。司春はなるべく床を眺めることに努めた。


「水が飲みたくてこんなところまで上がってきたの? 馬鹿ね、山の湧き水だって低いほうに溜まるのに」

「うるせえ!」


 司春がここまでやってきた理由を聞くと、それがあまりに可愛らしく思えて白秋は鼻で笑ってから水差しと杯を差し出してやった。


 喉の渇きも耐え難くなってきていた司春は、渋々と水差しを掴むと、酒でも飲むかのように直にあおった。年下の女にからかわれたのが悔しかった。


「……俺は解雇クビか」


 司春が肩を落として呟くと、白秋は衝立から顔を覗かせた。


「どうして?」

「どうしてって、そりゃあ……嫁入り前のお姫様の部屋に押し入ったのは事実だぞ」

「別に悪いことしようと思ってた訳じゃないんでしょ。そんなの、私が言わなきゃバレないよ」

「言わないのか」


 白秋が軽く許して、司春は少し虚を突かれたように顔を上げた。


 着替え終わった白秋は司春の前まで出ると、服の内に巻き込んだ髪を手櫛で持ち上げ整えた。絹のような黒髪がはらはらと舞う。


「あなたが私のことを言いふらさなければね」


 その返答に司春は怪訝そうな表情をすると、白秋を指差して尋ねた。


「それは虎のことか? それとも────その顔か……身体?」


 白秋は持ちだした薬箱の底で強めに司春を殴った。


「虎のことに決まってるでしょ! 顔も身体もこんなの誰に見せたって本当は構わないわよ!」

「身体見せる相手は選べよ」


 それから、白秋は司春の横に座って手当を始めた。滲んだ血を拭ったり、布を巻いたりと存外に手際がいい。もしや、こいつはただの姫君ではないのかもしれないと司春は眉を上げた。


 一方の白秋は、司春がどっしり構えていられることが不思議で仕方なかった。

 どんな男でも、虎には少しくらい怯えたりまごついたりするものだと思っていたから、彼の態度がどうにも面白くない。


 司春の膝に両手を載せ、ねだるように見上げてみせた。


「……ねえ、私のあの姿を見て驚かないの? もっと怖がりなさいよ」

「めんどくさいやつだな……」


 司春は心の底から溜息を吐く。

 白秋はきょとんとして爪を立てた。


「もう一回、引っ掻いていい?」

「やめろ」


 腿に鋭いものがじんわりと刺さるのを感じながら、司春は呆れたように制止した。女の童顔に、故郷のわがままな妹を思い出した。


瑚滉ここうに来てから変なことばっかりだ。虎になる女だっているだろうよ」


 こんな気位ばかり高い子どもみたいなやつが、本気で人間を襲い殺せるものか。司春はそんなことを内心で独り言ちた。

 白秋はふいと顔を背けた。


「肝が据わってるのね。夏却が褒めるだけあるかも」


 それっきり、白秋は黙って作業を続けた。

 春の蛙声あせいがどこからか、闇に紛れて響いていた。


 しばらくして手当が済むと、司春は急に居た堪れなくなってきて、そそくさと立ち上がった。意味もないのに何度も髪を撫でつけた。


「まあ、なんだ。その……悪かったな。俺は戻る。お前も寝ろ」

「待って」


 廊下の人気を確かめることもなく飛び出そうとする司春の袖を、白秋は咄嗟に掴んだ。急に一人残されるのが恐ろしかった。やってしまった、と思った。それでも、零れる言葉を止められなかった。


「まだ、行かないで」


 先刻までぎゃんぎゃんと騒いでいた女の、妙に艶めかしい声に司春は思わず振り返った。

 気まずそうに目を逸らし俯く白秋の顔は、少し青ざめていた。袖を掴む指先が震えている。


「……随分騒いじまった。人が来る」

「誰も来ないよ。夜中は何があっても部屋に来ないように言ってある」


 白秋は掠れた声で答えた。

 都合のいい理由を互いに与え合っているだけなことは二人ともが分かっていた。


 この屋敷の事情が薄らに掴めてきた司春は、踵を返して彼女の手を取った。


「虎の所為せいか」

「うん」


 白秋は小さく頷いた。司春の乾いた温かい手の平を不安げに握り、微かに息を吐く。

 その姿が、己の影にも怯える幼子に似ていて、司春は恐る恐る白秋の背中を擦った。


「誰かと俺を間違えていた」

「昔の夢を見ると、変身を抑えられなくなるの。虎の心に酔っている間は、誰を見ても憎い相手に重なって映る」


 白秋は許しを請うように滔々とうとうと答えた。

 司春は深く息を吐くと、白秋を寝台に座らせた。


「話してみろ。眠くなるまで聞いてやる」


 司春が部屋の角から椅子を引きずり、寝台の横に並べて座る。


 ひと先ず横になるよう促され、白秋は素直に従った。鼻先まで布団を被り、ぽつりぽつりと話し出した。


「小さい頃、姉と両親が目の前で殺されたの」


 十一年前の冬のことだった。

 山の奥の屋敷には火を付けられ、一人生き残った白秋も怪我と寒さで記憶が曖昧になっており、下手人はとうとう分からずじまい。


 天涯孤独の身になった白秋は、一家と交流のあった無弦に引き取られ、養女として育てられることになった。


「もう、あそこにいた誰の顔も声もぼんやりとしか覚えていないのに、夢を見る度、今もあの男が逃げた私を捜しているような気がする」


 窓の外や群衆の中、ふとした視界の隅にまで、不確かな人影がいるように思えて仕方がない。あのとき取り逃した獲物をいつ狩りに来るのか怖くて堪らない。


「最初はね、あいつを捜し出して殺してやろうと思ってた」


 この虎の力に身を任せてしまえば、すべてが簡単に済む。悪夢に苛まれると、そんな囁きが頭の中にまとわりついた。


「でも、無弦が止めるから、気が変わったの」


 幼い白秋が錯乱して暴れる度に、無弦は自分が傷つくことも厭わず彼女を強く抱きしめて言い聞かせた。

 お前の手が汚れる必要はない。

 また面と向かい合って、消えない傷をつけられる必要はない、と。


「捜査は県尉けんい捕吏ほりに任せて、私は遠く離れて幸せになるのが一番の弔いなんだって」

「……綺麗ごとだな。現にお前は救われていないのに」

「そうだね。このままじゃあきっと家族の仇は捕まらなくて、私は夜が怖いまま。でもね」


 白秋は布団を被り直し、壁の方を向いた。


「無弦ね、お姉ちゃんと仲良しだったの。私が生まれる前からの付き合い。きっと一番つらいよ」


 それでも、無弦は白秋の前で泣いたことはなかった。

 白秋に向ける顔はいつでも笑っていて、どれほど忙しくとも必ず会いに帰ってきた。


「私がいたらお姉ちゃんのこと思い出して苦しいはずなのに、拾ってくれて、大事にしてくれて、ずっと向き合ってくれた。優しい人だよ。これ以上傷つけたくない。だから、これが停滞でしかなくて、ただ泥の沼に沈んでいるのと同じだとしても、それでいい」


 強い女だ、と言いかけて司春は口をつぐんだ。それはかえって彼女への侮辱になると思った。

 司春が何も言わないのを見て、白秋はくすくす笑った。するり、と枕に頬を寄せた。


「……こんなこと、誰にも言ったことないな」

「ああ。聞いといて何だが、俺なんかに話してよかったのか」

「さあね。昂ぶりが……収まってないの。きっと、あの月の所為……」


 白秋の瞼が重たげになっていくのを確かめると、司春はゆっくりと腰を上げた。


 いつの間にか、月はすっかり白く光を失っていた。白秋は寝入る前の、独特の多幸感に包まれながら、甘えるように小さく言った。


「今夜のことは全部、二人の秘密。約束ね」

「そうかよ。信じてるぜ」


 司春は静かに部屋を立ち去った。爪痕の残った胸が少し痛んだ。

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