第5話 抗えぬ成り行きの果て

 瑛子は、自ら望んで私立探偵という職業に就いているわけではない。


 探偵事務所ミナト・エイジェンシーは、姑の湊マチコが長年代表を務めていた。彼女が創業者だ。若くして夫を病気で亡くし、女手一つで一人息子の駿介を育てなけらばならなかったマチコだったが、その苦労を微塵も見せず、人当たり良く、人の相談に乗ってそれを手際よく解決することが、ことのほかうまかったそうだ。もともと近所の法律事務所で事務仕事をやっていた経歴もあり、探偵稼業を始めたのは、彼女にとってごく自然な流れだったと言う。天職だったと。


 瑛子は違う。残念ながらそう確信している。まさか自分が私立探偵などという職業に就くなど、想像すらしたこともなかった。いまだにあらゆる場面で迷い、常に緊張している。何年経っても慣れない仕事だ。

 そんな仕事に瑛子が就いているのは、抗えなかった成り行きの結果だ。


 瑛子は、芸術系の大学で現代彫刻を学び、卒業後は彫刻家を目指していた。

 しかし創作活動だけで食べて行けるはずも無く、生活のために融通のきく定職を探していた。

 そんな時、『事務員募集。勤務時間など応相談』という手書きの張り紙を、ここミナト・エイジェンシーの扉に見つけたのだ。

 通りすがりにその張り紙をちらりと見た瞬間、その一瞬が運命だった。振り返ってみても、瑛子はそう思っている。


 瑛子が事務員としてミナト・エイジェンシーに勤務し始めた当時、調査の実務を担当していたのは、マチコと彼女の一人息子の駿介だった。

 母親の跡を継いで事務所の代表を務めていた駿介は、寡黙でとても繊細なハートの持ち主だった。吹奏楽部の出身で、趣味でジャズトランペットを続けていたこともあり、音楽や芸術に明るく理解が深かった。彫刻家を目指す瑛子の夢を尊重し、決して残業させたり休日に出勤させたりはしなかった。

 天賦の嗅覚を持つ鋭いマチコとは違い、駿介は地道に案件に取り組むタイプで、クライアントや調査対象者の心理の隅々にまで気を配る、細やかな神経の持ち主だった。

 家出娘の捜索では、探し出した少女を涙ながらに説得して、家族の元に連れ帰ったこともあったし、マチコが無碍むげに断った迷い猫の捜索まで独断で引き受け、終業後に二晩も徹夜して探し当てたこともあった。

 情に厚く、感情移入し過ぎる点で、探偵にはほぼ向いていない男だった。


 瑛子は、そんな純朴で柔和な駿介に徐々に惹かれ、彫刻よりも彼のそばで過ごす時間が尊い、次第にそう思うようになっていった。


 やがて出会いから五年の歳月を経て二人は結婚し、やがて颯太という子宝を授かった。子育てをしながら家業となったミナトの事務を手伝う。彫刻は時間を作って続ける。ささやかながら幸せだった。長くは続かなかったが……。


 燃え上がるような激しい恋ではなかった。しかし、静かで穏やかで、川の流れのようにたおやかな愛情を、二人はゆっくりと育んだのだ。

 その分、強い絆がある。瑛子はそう信じていた。あの時までは……。


 ――信じるって、そんなに難しいことなのか?

 彼のその問いに答えられなかった。そのままだ。

 人生を、それが終わりを迎える時まで、一緒に歩もう。そう心に決めていたはずの伴侶との絆。赤い糸。その糸が絡まりもつれ、ほどけないまま、彼は忽然と自分の世界から姿を消してしまった。私は取り残されてしまった。もつれた糸に絡めとられたままだ。


 でも、もうどうやったって時間は戻せない。進むしかない。

 瑛子はマチコのデスクの写真立てを見ないように、さっきの電話のメモを手に取った。

「マチコさん、ちょっといい?」

 瑛子は、姑のマチコにメモを見せた。

「さっきの電話依頼、タカミヤさんって男の人からなんだけど、覚えてる? 昔、 駿介のクライアントだったって。かなり前みたいなの」


 今でもマチコの頭の中は、下手なコンピューター以上に正確に素早く動き、必要な情報を即座に抽出する。紙ベースで保管されている過去の案件データについては、マチコの記憶ほど頼りになるものはない。


 彼女はしばらく考えると、「うーん、あれかなぁ」と呟きながら、古い資料を収めたスチール棚の前でよいしょ……と屈み、指先をぺろっとなめるとファイルのインデックスをくり始めた。

 やがて「あ、これだ」と、一冊のファイルを手に立ち上がった。


 彼女が指し示した依頼人欄には、『髙宮志朗』と記されていた。その依頼人名を見て瑛子は顔をしかめた。

 ――これって、あの時の?

 急激に蘇ったのは、あまりに悲痛な事件の記憶だ。

 しかも、ミナト・エイジェンシーで扱った調査としては、未解決に終わった数少ない案件だった。



 颯太と麻雀グループと一緒に駅前の定食屋で昼ご飯をかき込んでから、瑛子は皆と別れて一人駅へ急いだ。依頼人の髙宮志朗が指定した場所へ向うためだ。


 毛玉付きセーターは少しましなジャケットに着替え、伸び放題の髪には、寝ぐせ直しのミストを振り掛けて後ろに束ねている。

 そろそろ美容院に行くべき時期なのだろうが、なかなか時間が取れない。――と言うより、実のところ億劫おっくうだった。どんな髪型をオーダーすべきか考えるのも面倒だったし、施術の間、美容師と実のない世間話をするのも苦痛だった。


 背景に溶けそうな女。

 雑居ビルの入り口に到着した瑛子は、心の中で自嘲し、ガラスの大扉に映る地味な女から焦点を逸らしてそれを押し開けた。



 ビルに入るとコーヒーの芳香が漂っていて、それをたどると難なく指定先の珈琲専門店に到着した。

 奥の席で依頼人を待つ間、瑛子は念のために持ってきた過去の案件資料をバッグから出して読み返した。この件が何か関係あるのだろうか。


 髙宮志朗から依頼されたその過去の案件調査に瑛子は直接関わってはいない。担当したのは夫の駿介で、瑛子は彼が行った調査の経過を記録したり、収集した写真や資料をファイルに纏めたりという補助的な作業を手伝っただけだ。

 しかし、ボイスレコーダーの聞き取り内容を文字に起こすという実務を担当したため、内容はすぐに思い出すことができた。


 ある匿名の書簡を書いた人物を特定して欲しい――というシンプルな依頼内容だった。しかし、調査は困難を極めた。

 起因となった事件が起こったのは、十四年前……。それは、今思い出しても戦慄する痛ましい事件だった。


 その時、カランカラン……と乾いた音がして店の扉が開いた。

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2024年12月20日 08:00 毎週 金曜日 08:00

蓮糸の片端 黒田莉々 @Lily-K

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