第4話 過去からの電話
オフィスに戻ると、デスクで電話が鳴り続けていた。
瑛子のオフィスは自宅の1階部分で、駅前の商店街から10分ほどの比較的便利な立地にある。壁面こそキャビネットや事務機器に覆われていて無機質だが、ビリヤード場だった古い戸建てをそのまま使っているからか、どこか懐かしいレトロな雰囲気を醸している。晴れた日には、カットガラスを施したドアと窓からはふんだんに光が差し込み、年季の入った板張りの床は、素材がいいのだろう、いい靴で歩くとコツコツいい音が響く。
一階奥と二階がリノベーションした自宅スペースだ。公私の区別をつけにくくなるというマイナス要素も否めないのだが、通勤の必要が無い分、大幅な時短となり、忙しい身には助けとなっている。
土曜日は実質休みだからデスクが空なのはわかるが、どこかに誰かがいるはず……なのに誰も電話に出る気配が無い。
いぶかりながらも折畳み傘を隅に投げ、瑛子は電話に飛びついた。
「はい、お待たせいたしました。ミナト・エイジェンシーです」
「恐れ入ります。
落ち着いた男性の声が、電話口の向こうから聞こえた。
「湊はわたくしですが」
呼吸を整えてそう応えると、相手は一瞬沈黙し、それから申し訳なさそうに続けた。
「あぁすみません。男性の湊さんを……」
ドクン……心臓が一つ大きく波打った。
瑛子はできるだけ平静なトーンで事務的な声を発した。
「あの、大変失礼ですが」
「タカミヤと申します。以前、湊さんに、男性の湊さんにお世話になったことがありまして」
昔のクライアントか。瑛子は言葉を選んで告げた。
「そうでしたか。湊
「え、そう……なんですか。湊さんにご相談したいことがあったんですが。お辞めになったんですか?」
瑛子は
「湊駿介は……他界いたしました。四年ほどになります」
「え……」と発したきり、相手は絶句した。
困惑がラインの向こうから伝わってくる。当然だ。まだ若いのだから。
「私、駿介の妻で湊瑛子と申します。今ここの代表を引き継いで務めております」
できるだけ威厳のある声でそう続けると、相手はさらにしばらく押し黙っていたが、やがて小さくよどむ声を発した。
「なんと、それは……全く存じ上げなくて、何と申し上げたらいいか……」
「いえ、どうかお気遣いなく。もし私でもよろしければ、ご用件をお伺いしますが」
迷っているようだったが、やがて彼は一つ息を吸い込んでから吐き出すように言った。
「実はその、ちょっとご相談させていただきたいことがありまして、一度お会いしてお話を聞いていただければと思うんですがいかがでしょう」
「はい、それはもちろん……」
そう答えた瞬間、瑛子は飛び上がった。
背後の部屋から、唐突にじゃっ、じゃらーっという大きな音が響いたのだ。
――何?
「あ、ちょっ……とすみません。少々お待ち下さい」
慌てて相手にそう言うと、瑛子は電話を保留にして受話器を置き、背後のドアを開けた。
――やっぱり
来客時の打ち合わせなどに使うその部屋は、その時四人の人間に占領されていた。思った通りの光景が広がっていたが、一つ予想外のものが目に飛び込んできた。
颯太!
瑛子は彼を見てあんぐり口を開けたが、とりあえず、早口で言った。
「ちょっと、なんで誰も電話に出ないかなぁ?」
手前からマチコが答える。
「瑛ちゃん、今日はど・よ・う・び」
「新規の依頼なのよ」
「あら……」
彼女は舌を出して首をすくめた。
「とにかく、電話が終わるまで静かにしてて!」
瑛子はそう言い放ち、少々乱暴にドアを閉めてデスクに戻ると、「ったく……」と咳払いをしてから電話の保留を解除した。
アポイントの内容をメモにとって電話を切り、瑛子はすぐにもう一度奥の部屋のドアを開けた。こそこそ話をしていた四人がまたピタリと会話を止めて彼女を見上げた。
姑のマチコがコロコロしたお腹を揺らしながら立ち上がり、「何、また浮気調査?」と伸びをした。
「あのねえ、何やってんのあんたら?」
腕組みした瑛子に対し、四人は揃ってすっとぼけた顔をそれぞれ見合わせた。マチコのとなりに颯太、向かいには近所の独居老人の元さん、そしてしばりゅう。
そのしばりゅうが言い訳した。
「いやな、わしらのボケ防止に颯太が協力してくれてんだ」
颯太はうなずいている。
「土曜の朝から?」
「まあ……ヒマだしな」と元さんが頭を掻いた。
「で、小学一年生の健全な児童を、じいさん達の娯楽に引きずり込むわけ?」
「だってママ、雨ふりだもん。お外で遊べないし」と颯太が抗議する。
しばりゅうが細い目をさらに細めて、笑いながら彼の頭をごりごり撫でた。
「瑛ちゃん、麻雀は頭にいんだぞ。颯太は賢いから素質がある。雀士になれるぞ」
「やめてよ、もう」
「ジャンシって?」
颯太がしばりゅうにくりくりした目を向けて尋ね、口を開いたしばりゅうを瑛子が遮った。「なんでもない!」
しばりゅうは、本名を柴竜司という。名前は渋いが、背が低く小太りで、頭もすっかり剥げ上がっている。七福神の布袋さんみたいなその風貌からは想像し難いが、彼は隠居した元刑事で、現役だった頃は相当の切れ者だったそうだ。ミナト・エイジェンシーの非公式相談役であり、姑マチコの長年の「彼氏」だ。
「まあ、時間決めてやってよね」と諦めたように言うと、マチコが「わかってるよ」とウインクを返して言った。
瑛子は麻雀を疎んでいるわけではない。ただ、六歳の男の子が朝から部屋にこもり、じいさんばあさんと長い時間麻雀に興じるなど、何とも抵抗を感じてしまうのだ。
マチコが福々しい笑顔で言った。
「駅前でお昼食べようかって言ってんのよ。瑛ちゃんもどう?」
瑛子はもう一つため息をついて、時計を見上げた。
「どうかな。今の電話、午後から打ち合わせが入ったから」
瑛子は、まだ幼い息子とろくに食事も取れないこの状況が嫌だった。
麻雀であろうが何であろうが、孫である颯太の面倒を見てくれるマチコの存在はありがたかったが、できるなら代わって欲しい――そんな思いも正直あった。
マチコのデスク上の写真立てが目に入った。
幼い息子を抱く溌溂とした若い母親。その肩を抱き、包み込むような優しい笑顔を寄せる若い父親。いかなる困難や苦しみ、悲しみや傷み、この世の邪悪なものすべてから愛する者を守って見せる、そんな決意がその瞳に宿っている。
瑛子は写真から目をそらした。
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