第3話 死刑台のエレベーター
マイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」は、ジャズ好きにはたまらないナンバーだ。冷酷で甘美なトランペットの音色が薄暗い間接照明と相まって、妖しげな幻影を演出する。
高級ホテルの吹き抜けラウンジで、瑛子は斜め前方に座るターゲットに注意を戻し、その背中を視界の隅に捕らえた。
男の右手がロックグラスを持ち上げ、口元へと運ぶ。氷が光り、背広の肩が揺れる。笑っているのだろう。向かいの女も上機嫌だ。酒か、あるいは照らし上げるキャンドルのせいか、頬が上がり、皮膚の下を巡る血流が透けて見えそうだ。気持ちの高揚具合が計り知れる。端正なアイラインを施した目元で、長いまつ毛がぱさり……と優雅に揺れ、グロスをあしらった唇が広がった。
「誘惑」が
電話口で愛人に邪悪な言葉を囁くジャンヌ・モロー。
――いや、この女はモローほど魅惑的でもない。確かに美人の部類には入るがまあ並だな。
人の夫に手を出す。自分さえよければいい、そんな自己中な生態。若さの安売り。
無意識のうち、不機嫌に唇を尖らせている自分に気付き、瑛子は口角から頬にかけての緊張を緩めた。嫌悪とも
やがて女がカクテルを飲み干し、男はウエイターに片手を上げた。
瑛子はエントランスへと先回りすると、ロビー全体とエレベーターホールまで見渡せる壁際で携帯を耳に添え、メモを取っているそぶりを見せた。
ドアか、エレベーターか。
「私は、エレベーターに一票で……」と、瑛子はカメラモードの携帯電話に話しかけた。
ビンゴ……
マイルスのソロパートが頭の中で音量を上げ、鮮明に響き始めた。
――――――
翌朝、指定されたカフェに出向くと、東かおりは既に奥の席でスマホをいじっていた。
瑛子が席に着くなり、「どうだった」と言わんばかりに身を乗り出してきた。事態を面白がっているような、不敵な笑みさえ浮かべている。
前夜の夫の様子を尋ねると、彼女は首をすくめた。
「明け方にこっそり帰って来てさ、で、またすぐゴルフだって出掛けてった。さすがにさ、まともに顔も合わせらんないんでしょうよ」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女はグラスのアイスコーヒーをガラリとかき混ぜ、乳白色のストローに口をつけた。ストローの中を茶色い液体がひゅっと上って落ちた。
ああ、今日は土曜日か……。
瑛子の頭に
せめて週末くらいゆっくり彼と過ごしたいのに、この仕事に休日はない。
瑛子がバッグから茶封筒を取り出し、テーブルの向かい側へと滑らせると、かおりの表情がさっと硬くなった。
彼女は唇の端を少し噛んで、差し出された封筒をしばらく見つめていた。信じていたい相手、信じて当然であるべき相手。その相手の裏切りを目の当たりにするのは、誰だって怖い。かおりのように、普段から夫をディスり続けているような女であっても、やはり覚悟が必要なのだろう。
一旦封筒を引っ込めようかと手を伸ばした瞬間、かおりはパッとひったくるようにそれを掴んだ。そして迷わず中身を取り出した。
2L判にプリントした写真が六枚。
寄り添って歩く姿と、酒を飲みながら談笑する様子が二枚ずつ。リアウインドウ越しのタクシー後部座席のショットでは、女の頭が男の肩に乗っている。最後の一枚は、ホテルのエレベーターに乗り込む瞬間。
六枚の写真を順に繰って、たっぷり五周ほど興味深そうに眺めると、かおりはその束をパサリとテーブルに投げ、ソファの背もたれに体を預けて腕を組んだ。
で?
と挑戦的な目が問う。
「マツモトリカ、二十八歳。ご主人の会社の経理担当」
彼女の眉がくっと上がった。
「はぁ、やっぱ社内不倫ってわけ?」
かおりは脇に置いたブランドもののバッグに片手を突っ込むと、ガサガサ探り始めた。
「ふうん、お手軽よね」
と、水色のクロコのシガレットケースを取り出し、
「二十八? 何それ。結構年食ってんじゃん」
嘲るようにそう続けて
「禁煙よ」
指摘すると、彼女は「ああ……」とため息をつき、突き刺すようにそれを箱に戻した。
三十を過ぎると、二十代の女がやけに
夕べの女と同じく、彼女の目元にも繊細なアイメイクが施されていて、ネイルの色はジャケットの胸元から覗くレモンイエローのシャツと見事にマッチしている。
瑛子にはさっぱりわからない。彼女らは、一体どうやって化粧やファッションに気を配る時間を捻出しているのだろう。
地味な女探偵が着ているものなど、相手は認識すらしないだろうが、瑛子は自分が着ている安物のセーターの毛玉が急に気になり、さりげなく胸の前で腕を組んだ。
かおりの方は目に入る風も無く、レモンイエローの爪先で光るラインストーンをなぞっている。彼女はつぶやいた。
「おかしなもんよね。あたしはただ慰謝料を吊り上げたいだけ。なのにさ、こうやって目の当たりにすると、何だろ……」
少しの間、端麗な面立ちが空虚な表情を映したかと思うと、その眼差しが急に射るような鋭さを増した。彼女は自分の爪先を押さえつけて続けた。
「やったらむかつく。まだあったんだ、こんな感情」
愛と呼べるものがその片鱗すら消えかけていたとしても、裏切りの現実を突きつけられると、女という生き物は本能的に憤怒する。度合いは違えども何度も見てきた。身に覚えもある。
そういうある意味
そんな反応を自覚し、疎外感を内側に認めた。
(待って……)
遠い日の自分の声が頭に蘇った。
それを掻き消そうと、瑛子は小さく首を振った。
疎外感ではない。絶望感だ。
東かおりへの経過報告を終えてカフェを出ると、濡れ始めたアスファルトから雨の匂いが漂ってきた。どんよりと灰色の空が落ちそうに低い。天気予報通り、雨足は強くなりそうな気配だ。
瑛子は、黒いビジネスバッグから黒い折り畳み傘を出して広げ、点滅の始まった横断歩道を小走りで渡り切った。
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