第2話 封印された名前
足がもつれる。それでも駆られるように全速力で走った。
大変だ。……どうしよう!
できるだけ彼から離れたかった。
できるだけ早く、できるだけ遠くへ。
川べりの散策路を走り続け、通りの近くまで来て、ようやく愛は振り返った。
やはり彼はまだそこにいる。
乱れる呼吸と、知らぬ間に流れていた涙でゆがむ視界に、彼のその姿が映る。川岸の柵に背中をあずけ、脱力したように座り込んでいる。街灯が作り出すスポットライトの中心で、その姿はシュールな現代絵画みたいだ。
彼は、ただぼんやりと夜空を仰ぎ見ていた。
追いかけては来ない。
そんなことはわかっていた。それでも愛は、できるだけ早く離れたかった。
一刻も早く家に帰る必要があった。
確かめなければ。
確かめなければ。
私は、大変なことを置き去りにしている。大事な、大事な約束を……。
なんてこと!
心臓が破れてしまいそうだった。
やっと捕まえたタクシーの中で、愛は両腕で自分の体を抱きすくめた。それでも体の震えは止まらなかった。何度か運転手が、ミラー越しに怪訝そうなまなざしを向けてくる。
早く早く早く……
愛はじりじりする気持ちを懸命に抑えた。
ようやく自宅前にタクシーが止まると、愛は一万円札を投げるように運転手に渡してタクシーを飛び降りた。「お客さん、おつり……」という運転手を「いいです!」と振り切り、愛は門柱を開け放したまま玄関へと走った。
手が震え、鍵が上手く鍵穴に入らない。やっと鍵を回して駆け込むと、靴を飛ばして階段を駆け上がった。いつもなら、帰宅しても無人の家は気分が滅入る原因だが、その時はどうでもよかった。
自室に駆け込んでクローゼットの扉に飛びつく。混乱する頭を落ち着つかせ、記憶を辿る。心当たりあちこち探り、やがて上棚の奥から古い洋菓子の白い缶を見つけ出した。
すみれの花がエンボスされている。幼い頃から大切なものをしまってきた秘密の宝箱だ。
愛は缶を抱え、努めてゆっくりとベッドに腰掛けた。一つ深呼吸をしてから、まだ少し震えている指を缶の蓋にかけた。
パカッ……という小さな音とともに、微かな甘い香りが漂い、古い手紙類の束が姿を現した。
愛はそれを順に繰り、ひときわ分厚い一通の封書を抜き出した。
髙宮愛様
丸みを帯びた丁寧な文字で、そう宛名書きされている。
ああ、神様……
愛は、震える手でその封筒から便箋を抜き出した。
昔、何度も、何度も読み返した手紙だった。文面を暗唱できるほどだ。
しかし、一文字も逃さぬよう、もう一度その手紙の文字を追った。真実を知った今、そこに書かれていることは、愛にとって全く違う意味を持つ。
今までこれを置き去りにしてきてしまった……。
だけど、どうしようもなかった。それでもその事実が胸を締め上げた。
涙がとめどなく湧き、文字が曇る。手の甲で何度も涙をぬぐい、手紙を読み終えると、愛はぎゅっと目を閉じた。
深く息を吸い込み、覚悟を決めた。目を閉じたまま、手探りで封筒の中からもう一つの中身を取り出した。
封がされたままのもう一通の手紙。
神様……
ゆっくりと目を開ける。
そこに書かれている宛名に、愛の胸はえぐられた。
頭の中でパズルのピースが、確実に、ぴったりと、すべて、はまった。
「なんてこと……」
封筒は、力の抜けた愛の指先から滑り落ち、ぱさり……と乾いた音を立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます