蓮糸の片端

黒田莉々

第1話 神話の嘘

 とても好きだった。


 旋律メロディの合間に、弦がこすれるあの音。

 微かな振動が背骨の芯に浸透し、張りつめた神経をゆるゆる溶かす。


 その懐かしい感覚が蘇ったのは、電車が停止信号で速度を緩め、少しばかりのGをまばらな乗客へ均等に配しかけた時だった。それが目に飛び込んできた。


 ベージュ色のギター


 何の啓示か、電車はわざわざその目の前で完全に停止した。

 

 マンションの粗大ゴミ置き場で、それは薄汚れたソファに身を横たえていた。ちぎれた弦が雨に揺れ、しずくが無秩序に飛び散らかっている。捨てられ、為す術なく冷雨に震える小動物みたいだ。異様なほどに「生」を主張するその姿も、つぎつぎと窓に当たっては破裂する雨粒に、容赦なく歪められてゆく。


 見るな。見るな。見るな見るな見るな。


 そういうことか。

 弦の切れたギターは、無惨すぎるから。


 たまらなくなって視線を空へと泳がせた。

 なのに、ビルの隙間に見える空の色まで同じだ。

 どうやったって逃れられない……そんな夢みたいだ。

 あの日の空もこんな色だった。



 まだ雨が降り始める前だった。

 彼はあの日、あの音楽室で、弦の切れたギターを見下ろしていた。


 やがて、散り散りの方向に垂れた弦をポニーテイルでも作るみたいに一つに束ね、中から白い一本を選んでナイフの刃を当てた。彼がそんなものを持っていたとは知らなかった。真綿のような彼にナイフなんてそぐわない。真逆に位置する異質なものだ。


「切っちゃうのか」

 努めてさりげなくそう尋ねると、唇を動かすことなく彼は言った。

「もう切れてる」


 タン。小さな音がした。


 彼は、一本の糸になったその弦を、戦利品でも扱うように差し上げた。その先端は、天窓に広がるグレーの窓の同化してしまいそうだった。


「これ使える」

 振り向いてそう言った時、彼はずいぶん大人びて見えた。



 大人になる――

 それはいろんな経験を積み重ねること。人はそこから学習する。


 いい人間にはね、天女が雲の上から見ていて、いつかちゃんと幸せを届けに飛んで来てくれる。蓮の糸で紡いだとっても綺麗な羽衣をまとって……。


 大人になる――

 それはそういう神話の嘘に気付くこと。


 足元がぐらりと揺れ、電車は速度を回復した。

 ベージュ色の廃棄物は視界から消え、蓮はやっと呼吸を再開した。

 今日を生きるため。


 ――――――

 社屋のエントランスに入り、蓮は雨に濡れたコートを脱いで内向きにたたんだ。


 エレベーターからは退社する社員たちが下りてきたが、蓮を一瞥することもなく、「お疲れ様です」と機械的に小声を発しては次々と通り過ぎていった。


 空になったエレベーターに乗り込み、蓮は4階のボタンを押した。


 日常。

 それをまた一日、今日も判で押したように繰り返す。

 今はそれだけ。

 今はそれが課せられた「仕事」。


 エレベーターが2階で速度をゆるめた。

 蓮は心の中で小さく舌打ちした。

 ――この時間に、俺以外にも上へ上がる人間がいるのかよ


 ドアが開き、女性社員が一人、大きな箱をかかえて乗り込んできた。

 

 ――残業か、気の毒に。

「何階ですか?」

 蓮が尋ねると、その女性はバランスを崩さないように箱をかかえ直し、頭を下げて言った。

「6階をお願いします。すみません」

 蓮は6階のボタンを押した。


 それが自分の「日常」を乱すスイッチになるとは、その時蓮は知るよしもなかった。

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