生涯の浪

朔之玖溟(さくの きゅうめい)

本編


 其の夜、黒い雪が降った。一瞬は誰もが好奇の目を向け、立ち尽くし、怪訝そうな顔をして内心苛立っていたが、やがて何事もなかったように動き出した。

 日常的に無味乾燥な世界で、あのとき其れは暖かくて、蛍の光みたく輝いていた。何匹か現れて、ぼうっと其等を見つめている内に、癌細胞じみた執拗さで増殖し続けた。辺りは光に満ちた。もはや矮小ではない。このような美を伴う狂気は、吉井少年が老人となるまでに、どこまでも深い哀愁と倦怠を与えた。とかく千里眼と云うものは、吉井老人と此の世を不幸にしている。元凶であった。

 吉井老人は、昨夜、東京中が降雪に見舞われる予知夢を見た。なにせこのの男には、大規模で奇々怪々な事象を予知する力がある。一口に大地震と云えども、吉井の予知したこれまでの天災は、従来の規律を著しく逸脱しており、あるときは、一日にきっちり十分おきで震度七の地震が起きて、全国規模で大混乱に陥ったこともあり、またあるときは、大雨と共に地上へ何万もの魚の頭だけが降りかかり、やはりこれまた人々を萎縮させたものだ。しかし、こればかりではない。否でも応でも、吉井老人と予知夢は運命共同体なのだ。これが、吉井にとってはまさしく呪いであった。

 何故要らぬ力に目覚めてしまったか、見当もつかぬまま、やれ、特別になった、やれ、したが不必要ではないか、と若い時分は思ったものだ。吉井老人は僥倖ぎょうこうを望めただろうか。見当違いであった。これぞ魔眼。じっと湯に浸かってのぼせていたものの、たちまち眠気のせいで度を超してしまい、泡を吹いて溺れていくという一連の夢を見てアッと驚くような感覚がある。複雑だが、事実は単純そのものである。吉井老人の見た未来は変えられない。もはや未来は過去なのだ。

「よっちゃん」という声でベンチに座る吉井はびくりとした。痰が絡む咳をした。それから、熱風に思わずむせた。あれは少年の声だった。小学生らしかった。

 吉井老人にも若齢の時分はあった。目の前で遊んでいるあの少年たちのように、自由ですべてを青春に捧げることの出来る――いい時代だった。教師から殴られたり、親に出てけ、と云われ外に追い出されたりしたものの、しかしやはり懐かしくて、気持だけはそこに置いてきたままだった。思えば、暴力とは絶対の悪ではなかったのかもしれない。父親から受ける其れは、もしや愛情の表現で、ただ伝えかたがよろしくなかったのかもしれない。

 生きづらい世の中になったものだ。吉井は二重の意味を込めて、そう思った。自分は不眠症で、しかし其れでいいのだと諦めがついている。運動はまったくしなくなった。体重は減る一方である。また、読書もやめた。もう趣味のひとつさえ娯楽になりそうになかったからだ。自殺さえ昔はしようかと思ったが、やはりやめた。苦しんで死ぬのも、無様な真似を曝してしまうのも嫌だ。自分勝手だろうか。尊厳など自分にはない、と思っていたというのに。とはいえ、大変なのは自分だけではないだろう。経済的にも精神的にも我々は幸福になっただろうか。炎上、という言葉を聞く。世界に自分の失態を曝されて永久的に残り続ける。如何に謝っても許されない。これは仕方がないのかもしれない。ところが、行き場のない人が犯罪に手を染めて、人生の大半を刑務所で過ごす。被害者、加害者ともあまりに不幸だ。現にあの地下鉄事件はまさしくその例だ。自分のしがみつける唯一の希望が、そういったカルト宗教だっただけである。希望がない人間は、どうやって生きていけばよいのだ。生きる意味をつくるために、人の命を奪う。なんとまあ神は残酷であろうか。

其所そこの坊ちゃん。ちょっといいかな」と吉井は、よっちゃんと云われた子に呼びかけた。

「小学何年生かな」吉井老人に、少年はすこし困った顔をして答えた。

「僕は六年生です」

「坊ちゃん、アレが見えるかな」

 吉井老人は空を指さした。夕暮れになりそうで、真上に、飛行機雲がきれいに延びていた。

「きれい……」少年は呟いた。澄み切った声である。社会のせいで、これから少年は歪んでいくかもしれない。しかし、もうじき負の連鎖は断ち切られようとしていた。

 地球は、あまたの歴史を歩んできた。人類の誕生は天文学的確率だったかもしれない。だが、まもなく人間社会は、宇宙からの来訪者に取って代わられるだろう。ホラッ、あれは何だ。空だ。空にたくさん何かがいる。ポリプ状のあれは、消滅したかと思えばふたたび実体化している。そう、あいつはきっと来訪者のひとりに過ぎない。さらにいえば、来訪者はすでに一定数、ここ地球に移住しているかもしれない。深海はどうだろう。人類誕生以前に活動している存在が、なりを潜めているに違いない。人類を支配出来るときをじっと待っているはずだ。

 地面が大きく揺れた。太平洋に沈みし石造都市が、浮上して、きっとやつらが目醒めたのだ。男の目には、これから起こる人類の滅亡がありありと映っていた。悪夢は実現し、吉井の魂は解放される。千里眼はこのとき、哀愁も倦怠も与えなかった。ただ感動のみを与えた。

 吉井老人と少年は、きれいだね、と夕暮れに言葉を放ち、吉井は最期に涙を流すばかりであった。

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