ソワレとマチネ

紫陽花 雨希

ソワレとマチネ

 それは一年に一度、一週間にわたって行われる夏祭りの最後の夜だった。

 聖地とされるこの町の外れには、神が住むと言われる峡谷があって、祭りの間だけ三本の吊り橋がかけられる。人々は毎晩橋の上で跪き、ちょうど谷の狭間を上ってゆく月に向かって祈りをささげるのだ。

 数万人いる信者は、祭りの期間は必ずこの町に戻って来る。だから、数年前に北の町に引っ越した親友のソワも、連絡はくれないけれどどこかにいるはずだった。

 祈りを捧げる時間が始まるまでの夕方、中央通りは真っ直ぐに歩けないほど賑わう。各地から持ち寄られた果物や野菜、工芸品、軽食の屋台が何百と出され、人々は一年ぶりの再会を祝って贅沢をする。私はリンゴ飴とオリーブヌードルで軽くお腹を満たすと、中央通りの突き当たりにある時計塔へと向かった。

 ソワが引っ越す前、私たちはいつも学校帰りにそこで一緒に過ごしていた。鐘つき場でソワがヴァイオリンを弾いている間、私は隣で勉強をした。ソワの好きな曲は「変身、そして別れ」という、教会でよく歌われる聖歌だった。夕暮れのオレンジ色の光の中、短調の激しく情緒的なメロディーを聴いていると、幸せなのに、いや、幸せだからこそ寂しい気持ちになって、私は教科書を閉じて逆光を浴びるソワの背中をながめていた。

 人の流れになんとか乗りながら時計塔に近付くにつれ、かすかにヴァイオリンの音色が聞こえてきた。ソワだ。昔よりずっと上手くなっている。

 私は期待と少しの不安で高鳴る胸を押さえながら走る。時計塔の周りには、人だかりができていた。彼らが一様に上を見ているので、私も顔を上げる。

「ソワ!?」

 鐘つき場の窓に片脚をかけて身を乗り出した姿勢で、ソワがヴァイオリンを弾いていた。少しでもバランスを崩すと、落ちてしまいそうだ。あの子は一体、何をやっているのだろう。

 この国の最高峰である音楽学校の黒いコートとネクタイを身につけた彼女は、まるで音楽に取り憑かれているかのように顔色が悪かった。一つにまとめた黒髪を振り乱し、「変身、そして別れ」を弾いている。

 私は、ソワから目を離せなかった。すぐに塔を上って止めに行くべきだと分かっていたのに、動けなかった。金縛りになった体の、心臓だけが激しく暴れていた。

 曲の終わりが近付く。最後の一小節、勢いが弱まってゆく。最後の一音を、ソワは重く長く弾いた。音が切れ、そして、そのまま、身を投げた。

「ソワ!」

 何かがスパークした。真っ白な光が視界を覆う。体が内側から爆発するような衝撃の後、静寂が訪れた。

 目を開ける。いつの間にか、私は祈りを捧げるための吊り橋の上で跪いていた。人の気配を感じて横を向くと、そこにはソワがいた。肩で息をしながら、目を見開いて空を見上げている。彼女の視線の先には、満月があった。藍色の空の中で、白く眩しく輝く円。神様、だ。ゆっくりと、一筋の光の帯が下りて、私たちを包む。


 ソワ、あなたは終わりをもって人を救うでしょう。

 マチ、あなたは痛みをもって人を救うでしょう。


 私は光の強さにたまらず目をつむり、頭を垂れた。

 とても長い時間が経った気がした。

「マチ、帰るわよ」

母の声がして、私は頭を上げた。夜が明けていた。信者たちがぞろぞろと橋をわたって、町へと戻ってゆく。

「ソワは?」

「今日は参加できなかったみたい。塔から飛び下りて足を捻挫して、念のため今日は安静にしてるわ」

「そっか……」

 立ち上がろうとして、よろめいた。橋から落ちそうになり、高さにぞっとする。

「大丈夫?」

「変な夢見たせいかも」

「どんな夢?」

 答えようとしたけれど、思いとどまる。誰にも言ってはいけない気がした。

「忘れた」

 朝日が目に染みる。私はため息をついて、ギシギシときしむ橋をわたり始めた。


 結局、その夏、私はソワと会えなかった。


 数世紀前に地球に存在したとされる都市「東京」の環境が再現された第二十八番居住星の飲み屋街にあるカラオケ屋は、何やら違法薬物っぽいにおいが立ちこめていて、私はさっきから吐きそうになっていた。「ぽいにおい」と言うことはつまり、本物ではない。体に害のない香料によって再現されたものだ。そもそも、今の時代に違法薬物なんてものは必要ない。医療機器のボタンを一つ押せば、体に負担をかけずにトリップし放題だ。もっとも、使用には医師の処方箋が要るが。

「マチ先生のペンダント、すっごくお洒落ですねぇ」

 隣の席に座ってアルコールを模したサイダーをちびちび飲んでいた看護師の寺田さんが話しかけてくる。私の首からさがった、銀色の球をしげしげとながめている。見る角度によって色が変わるのが面白いらしい。

「私、第九十七居住星の出身なんです。第四から第百居住星まではデザイナーズコロニーでしょ。私の故郷はとある古典ファンタジー小説の世界が再現されていて、スーパーコンピュータで作られた神様をみんな信仰してました。このペンダントは信者の証」

 うーん、と寺田さんが首をひねる。

「でも、みんな信じてるフリしてるだけですよね? ただの【設定】だし。そもそもスパコンだし」

「まぁ、コンピュータによる再現とは言え、本当に神様が実体をもって存在してるわけですから。今の科学技術だと奇跡的なことなんて簡単に起こせるし……地球にいた頃の人類が持っていた信仰心とはまるで違うものでしょうね。あくまでファンタジー小説の世界ですよ」

 故郷の星から出た私は、もう小説の登場人物の役目を果たす必要はない。それなのに未だにペンダントを持ち歩いているのは何故なのだろう。郷愁か、あるいは……

 あの夏の夜に起きたことのせいか。


 今晩は、女性限定の合コンだった。この第二十八番居住星では同性同士の結婚が認められており、さらにゲノム医療によって同性間でも子を成すことができる(Y染色体を人工的に作ることができる)ので、同性愛者でなくとも同性のパートナーを持つことがごく普通の選択肢となっている。私は職場でお世話になっている看護師さんに誘われて参加した。経済力のある医師なら引っ張りだこだよ、と言われたのだが、残念ながら私に話しかけてくれるのは元からの知り合いである寺田さんだけだ。

「先生はちょーっと独特の雰囲気がありますからねぇ」

 寺田さんが可哀想なものを見るような目を向けてくる。

「独特……ってなんですか」

「うーん、言葉で説明は難しいですが」

 寺田さんは妙に真面目な表情になった。

「魂がないように見えるんですよ。AI、みたいな?」


 カラオケ屋の出口をくぐると、さっきまでの酩酊感が嘘のように頭がしゃきんと冴える。酒に酔うのは、飲食店内など特定のエリアでしか許されていない。昔の東京では、道端に酔っ払いがたくさん寝そべっていたと聞く。デザイナーズコロニーは所詮、表面だけ真似た清潔で安全なテーマパークだ。

 女たちと別れ、私は勤めている病院の前で停まる巡回バスに乗った。夜も深い時間のせいか、他に客はいない。窓際の席に座り、ガラスに頭をもたせかけて夜景を眺める。この街の夜はとても綺麗だ。わざと一部を欠けさせたカラフルなネオンサイン。街路樹には年中イルミネーションが灯されており、二十四時間営業のチェーン店の電灯さえもが、透き通っていて美しい。

 ふと、ヴァイオリンの音が耳をかすめた。私は慌てて降車ボタンを押す。バス停はすぐそこだった。

 その商店街は、ほとんどの店が既にシャッターを下ろしていた。牛丼のチェーン店とコンビニ、バーだけが控えめに光を放っている通りの片隅で、一人のヴァイオリニストが路上ライブを開いていた。黒い男物のスーツで身を固め、長くつややかな黒髪を背中で一つにまとめている。

 弾いているのは懐かしい、「変身、そして別れ」だった。

 私は彼女の正面に立ち、目をつむって音楽に身を委ねる。

 最後の一音が響く。

「マチ、君。死にたいの?」

 目を開けると、ソワがヴァイオリンを下ろして私を真っ直ぐに見ていた。

「いや、別に」

「だったら僕の演奏は聴かない方が良い。まさか、知らないわけじゃないよね? 音楽で体内のマイクロマシンを狂わせ、死に至らしめるアングラ演奏家のソワの名を」

「知ってるよ。演奏会で数百人を死なせてしまい、数年間投獄された後に行方不明になった元天才ヴァイオリニストのことは」

 私が何食わぬ顔で言うと、ソワはやれやれと頭を横に振った。

「その後僕は、自殺志願者のオフ会やら、新興宗教のミサやらに招かれて、なんとか食いつないでるってわけ。未来ある幼なじみを殺したくはない。早くどっか行きな。君は人の命を救う医者になったんだろ?」

 今度は、私がやれやれと苦笑いをする番だった。

「ゲノム医療によってほとんどの病気が克服された現代で、医師にまともな仕事なんてあると思う? 私がやってるのは、健康な人にわざと病気の症状や痛みを疑似体験させて、精神に適度なストレスを与えて狂うのを防ぐっていう茶番だよ」

「聞いたところによると……」

 ソワが肩をすくめた。

「君は軽く手を触れただけで、相手に激痛を与えられるらしいね」

 まあね、と私も肩をすくめてみせた。


 川沿いにある私の部屋は、夜になると壁や天井に波紋が青く映される。

 私とソワは、狭いベッドの上で横になった。私の伸ばした腕に頭を預けて、ソワが痛みに涙を流しながら歌っている。

 ああ、私たち、きっとこのまま一緒に死ぬんだね。

「もう疲れた。人を救うのなんて、さ」

 もしかしたら、もうとっくに私たちは人ではなくなっていたのかもしれない。

 それでも良い。ソワが隣にいてくれるのなら。

 明日なんて、どうか、来ないでください。

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