1話 目先の利益は○○の入り口

 あの日、私は確かに断ったはずだ。――ご主人様になるのは「嫌です」と。

 なのに、なのに――


「ご主人様、結構歩いたしそろそろ疲れてきたんじゃないかな? 今なら特別に温かい椅子があるよ、ここに!」

「……ご、ご遠慮します。あとご主人様じゃないです」


 ――どうしてこんなことになってしまったのか。



◇◇◇◇◇



 事の始まりは、一通の手紙だった。

『先日の社交界にて、ブリゲッラ男爵のご息女であるシュンエイ様に無礼を働いたこと謝罪をさせていただきたく――』

 気の利いた一言も無く謝罪から始まったその手紙は、本当に差出人があの変態アルレッキーノ公爵なのか疑う程に真面目な言葉で綴られていた。驚きを通り越して恐怖すら感じる達筆に思わず顔が引きつってしまう。

 あの社交界から三日が経った。いまだに公爵の背中の温度を尻に覚えている私は、事故だったとしても彼を椅子にしてしまったことをどう処理しようか悩んでいた。普通はすぐさま謝罪に行くべきだろうが、またド変態発言をされるのは困る。……というか、正直行きたくない。きっついコルセットをつけて、いつ転ぶか分からないような高いヒール履いて、変態に謝罪とか絶対行きたくない!

 そう思いつつも形の良い文字を追い続けていたその時、ある部分で私の動きは止まってしまった。


「“謝罪に加えて不躾なお願いで恐縮だが、ソリタリウス領の商人組合に力を貸して欲しい”…………しょっ商人組合⁉︎」


 唐突に訪れた商いの匂いに思わず声が上がる。

 我が家――ブリゲッラ家は貴族である前に商人だ。父も兄も日々商談に明け暮れ、商売ルートを拡大している。末っ子の私はまだ手伝い程度のことしか出来ないが、ゆくゆくは一人前の商人になって大好きな家族の役に立ちたいと思っていた。

 そんな時に、まさかこんな内容の手紙が届くなんて……! まさに天啓! これは商人としての経験を積めるチャンスだ!

 さぁ来い、どんと来い! きついコルセットも高いヒールも変態公爵への謝罪も耐えてやる!


「お父さん! 私ソリタリウス領まで謝りに行って来るね!」

「そんな散歩みたいなテンションで⁉︎」



◇◇◇◇◇



 ――どうしてこんなことになってしまったのかって……あぁ、完璧に私が悪い。目先の利に惑わされて、まんまとこの領地に足を踏み入れた私が浅はかだったんだ。


「ん? 顔色が悪いよご主人様。やっぱり疲れたんじゃ――」

「大丈夫です! 元気元気超元気なんで! 人間椅子はいりません勘弁してください!」


 首と腕を振って全力で否定する。公爵は「遠慮しなくてもいいのに」と四つん這いになろうと曲げた膝を伸ばした。

 いや遠慮とかじゃなくて普通に嫌なんですけど⁉

 声に出して言いたいが唇に力を入れて我慢する。爵位で言ったらめちゃくちゃ目上の人なのだ。不敬罪とかになったら堪ったものじゃない。

 心を落ち着かせるため息を吸う。ブリゲッラ領とは違い、多く水気を含んだ空気が肺いっぱいに広がった。

 ……そういえば、ソリタリウス領は運河を利用して商いをしてるんだっけ。

 父に聞いた話を思い出す。「水の力を利用して荷運び出来るなんて羨ましすぎるよ~! 陸路だと馬の手配とかすんごい大変なんだから!」とハンカチを噛んで血の涙を流していた。

 様々な場所で商いをしていたプロ中のプロである父からしてもこの土地は素晴らしいものだそうだ。実際、私もそう思う。出店のある大通りは領民で溢れているし、鉱石や香などの嗜好品も多く購入されていた。生活に余裕がある証拠だ。

 そして、この富んだ領地を治めているのが隣にいる男――アルレッキーノ。この国最強の武闘派貴族であるアウグスト・ソリタリウスの一人息子とのことだが、婦人受けが良さそうな顔立ちからは戦なんて向いていないように見える。

 件の商人組合所に案内してもらってる最中だけど、領民からもよく声をかけられてたし、愛され領主って印象だな。……変態くさいこと言わなければ!


「……何だいご主人様?」

「え?」

「その、あまり見つめられると照れちゃうな……。あっでも! 嫌なわけじゃないよ! 品定めするような視線には慣れてるからね」


 そわそわとした表情から一転、公爵は完璧な笑顔を見せた。目の細め方、口の角度、全てが彼のためにあるようだった。

 なるほど、中々破壊力がある。頻繁に私の椅子になりたがる姿を見ていなければ、ころっと簡単に落ちていたかもしれない。――まぁ私はそんな軽い女じゃありませんけども!


「許可なく見ていたことは謝ります。でも、いい加減ご主人様はやめてください!」

「おや? 何でだい? ブリゲッラ家の誹謗を聞いて勇敢にも立ち向かったきみに相応しい呼称だと思うけれど」

「相応しくない相応しくない! 変な噂立ったらどうしてくれるんですか⁉ いやもう立ってるかもしれないけど!」

「変な噂って、“男爵令嬢は公爵を椅子呼ばわりする女王様気質“ってやつかな? 安心して、貴族中もっぱらその話題だから!」

「どこに安心出来る要素が⁉ しかも思ってたよりひどい言われ様‼」


 ごめんお父さん。商人は信頼第一なのに、最悪の噂が出回っちゃったよ……。ていうか何でこの人嬉しそうなの⁉ 自分も被害被ってるよね⁉


「言っときますけど公爵様も一緒に噂されてるんですよ⁉ そんな楽観的でいいんですか⁉ もっとこう、威厳とか必要でしょう⁉」

「……驚いた、僕がまいた種なのに僕の心配をするのかい?」


 公爵は言葉通り心底驚いたという顔をした。まるで予想の斜め上のことを言われたかのようだ。

 え? 私何もおかしなこと言ってないよね? むしろこの人がおかしいというか、おかしいところだらけというか……って、自分が原因って分かってるんだったらもう少し自重してくれよ!

 私が心中でツッコんでいる間に何を納得したか、公爵は少し悩む素振りを見せた後頷いた。


「うん、そうだな。分かってた、分かってはいたんだ、きみがそういう人だってことは。ただ本当に心配してくれるとは思ってもみなかったものだから、少し、驚いてしまって……その、すまない」

「いや、何も謝らなくても……」


 相手に伝えるというよりかは、自分に言い聞かせているような言い方だった。何だか引っかかる。


「公爵様、あの――」

「あぁ僕のご主人様、お言葉を遮ることをお許しください。残念ながらタイムリミットです――」


 急な敬語に驚きつつも、公爵が優雅に指し示す方へ顔を向ける。


「――こちら、ソリタリウス領の商人組合所となります」

「ここが……」


 思わず息を飲んだ。自分が住んでいる領地以外の組合所は初めて見る。

 おそらく、昔は居住用家屋だったんじゃないだろうか。扉を除いた全てを石で造られたそこは、組合所というには大きく、商人が集まる場としては静かだった。中に人の気配はするのに、声が一切聞こえない。

 これは本当に入っても大丈夫なのか、騙されたりしていないか、と一瞬不安がよぎり公爵の顔を見る。すると、彼は計算し尽された完璧な微笑を浮かべた。その笑みの意味は、私には分からない。分かるはずもない。でも、ここまで来たら行くしかない。

 女は度胸、商人も度胸だ! やってやる!


「――たっ、頼もーッ‼」


 塗装が半分以上剥がれたハンドルを、不安をかき消すように反動をつけて引く。

 ……多分そのせいだろう。視界の端に映った公爵の完璧な笑みは、少し歪んで見えた。

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