君と私と缶コーヒー

時燈 梶悟

君と私と缶コーヒー

 私は一人、駅のホームのベンチに座っていた。

 安っぽいプラスチックの、緑色のベンチ。

 空を見上げると、満天の星空の下に、白いモヤが広がっていた。

 あぁ、今は冬なのか。今更ながらに私はそう思った。そして遅れて、私は身体が震えていることに気がついた。

 上着も何も着ずに、制服姿のまま。カーディガン1枚では、到底凌げる寒さではない。


 鏑木かぶらき いちご。東京都在住、17歳。──私が覚えているのは、ただそれだけ。

 電車の到着を告げる音。楽しそうな人々の会話。帰りを急ぐサラリーマンの足音。

 私の周囲は、雑多な音で塗れていた。

 私は、自身の鼓膜を揺らすそれらにどうしても耐えられなくなって両手で覆うようにして耳を塞いだ。


 それからどれだけ時間が過ぎたのだろう。

 一つの気配が、私の前で突然足を止めた。

 「お嬢さんや。こんな寒夜に大丈夫かい?」

 しわがれた、それでも奥に優しさを宿した声。周囲の雑音から切り離された私にも届いたその声。

 私ははっとして顔を上げた。

 そこには缶コーヒーを両手で包み込むようにして抱えたおじいさんが立っていた。


 私は、耳に添えていた両手を下ろしていた。

 「隣、座ってもいいかな?」

 「え?......ぁあ、どうぞ」

 「すまないね」

 おじいさんはそういって私の隣にどかりと腰を下ろした。

 「こんな時間にいったい何をしていたんだい?」

 おじいさんが何気なく零したその疑問。しかし私は、その答えを知らなかった。

 「私は、何をしていたんでしょう。何をしてきたんでしょう」


 私の返答に、おじいさんは驚いたようにこちらを見ると、目に多くのしわを作りにこりと微笑んだ。

 「どうやら複雑そうだね」

 「私には何も分かりません。私はなぜここにいるんでしょうか?」

 こんなことを聞いても、意味があるはずがないのに。

 そうわかっていても私は、どうしても問いかけざるを得なかった。


 「それは、お嬢さんが必要とされているからだよ」

 「私が......?」

 私が、必要.......?

 だって、私は今までずっと、誰にも見向きされなかったのに。

 私を必要としている人なんて、どこにも.......。


 「あぁそうさ。誰かが、君を求めているんだ」

 「そんなはずは......ありません。私はずっと、邪魔だったんです。お母さんが、そう言ったんです」

 「それはそれは......。なにか、事情があったのかな?」


 あれは、いつのことだっただろうか。もう詳しくは覚えていないけれど。

 私がまだ小さかった頃。お母さんは私じゃない『何か』にずっと夢中だった。

 お母さんは、私じゃなくてずっと『何か』を見ていた。

 だから私は、その『何か』が嫌いだったんだ。


 「私は、ずっと独りでした。寂しくて、怖くて、心細くて。誰も私を気にかけてくれないから。私がなにをしても、誰も褒めてはくれないから」

 「君は独りだったのかい?」

 「私は、今も独りです。私には味方なんて、一人もいません」

 私は俯きながらに答える。

 その声に、どんな感情がこもっているのか、私自身にもよく分かっていなかった。


 だいたい、こんな話をするのも初めてな気がする。

 「それは本当にそうだろうか?」

 「......どういうことですか?」

 「ある意味で言えば、私は常に独りで生きてきた。今では、大切な人達に囲まれてはいるがね。それでも、私はこの無駄に長い人生を生きてきて、ようやく思ったんだ。結局、私のとこを心の底から愛することができたのは、私一人だけだったんじゃないかとね」


 『私を愛せるのは、私だけ』。

 じゃあ私は、今のこの私を愛せているだろうか?

 そんなはずはない。だって私は、私が心底嫌いだ。

 けれどそもそも、どうして私は私を嫌いになったんだろうか?

 「私は、自分が嫌いです。優柔不断で、愛想が悪くて、人付き合いが苦手で、何をやってもうまくできなくて......。私の人生には、後悔ばかりが残ります」

 私その言葉に、おじいさんは柔らかく笑った。


 「私だって、今までの人生で数え切れないほどの後悔をしてきた。その度に自分を嫌いになって、時には大切な人をも傷つけた。けれどね、それを全て含めて私だ。過去に後悔があって、それをどうにか乗り越えて。時には逃げながら、時には泣きながら。そうして生きてきたのが私という人間だ」

 「それでも私は、後悔なんてしたくなかった。いつまでも過去に囚われ続ける人生なんて、歩きたくなかった......。だから今日、終わらせようとしたんです」


 あぁ、そうだ。私が今日ここにきた理由。

 できるだけ楽に、一瞬でこの世を去りたかった。

 けれどいざこの場に立ってみると腰が引けてしまい、どうしても最期の一歩を踏み出すことができなかった。

 「私の後悔というのは案外つまらないものでね」

 そういって過去を懐かしむように。かつての日々に思いを馳せるように。おじいさんは語り始めた。

 「私は当時恋をしていてね。けれどその人は、到底私には手の届かない人だった。だから私は、その人のために変わろうと思った。けれどその人は、『前のままのあなたがよかった』と言ったんだ。私は、変わろうと思ったことを後悔した。思い返してみれば、彼女に何も頼まれたわけじゃない。彼女に釣り合うためなんて思いながら、結局は私のためでしかなかったんだ。私が彼女の隣に立つため。私の後悔は、かつての自分を曲げてしまったことだ」


 そういって悲しそうに笑うおじいさんの目には、ぼんやりと涙が浮かんでいた。

 その表情に、どこか見覚えがあった。

 あの日、あの時、あの言葉。

 私の言葉を聞いたあの人は、おじいさんと同じように、悲しそうに笑った。

 私を決して傷つけまいと。


 「......私の後悔は、兄を殺してしまったことです。兄はとても優秀で、いつもテストで100点をとっていて。スポーツ万能で、体育大会ではリレーのアンカーを任されるほどでした。そんな兄と、私は常に比べられていました。私は不出来でしたから、兄の足元にも及ぶことがなくて。お母さんはいつも兄ばかりを褒めていました。それが、とても嫌だったんです。兄が悪いわけではないことは、小さい頃の私とはいえ理解していました。けれど、その感情を飲み込めるほど、私は大人じゃありませんでした」

 憎いほどに。悔しいほどに。私はどこまでも子供だった。


 ただ、愛されたかっただけなのに。一度でいいから、私を認めて欲しかっただけなのに。

 それすらも、叶えてくれなかったから。

 『お兄ちゃんなんかいなくなっちゃえ!』

 ほんの、一瞬。たったその一言で、兄は兄でいられなくなってしまった。

 涙を必死に堪えながらも、私を抱きしめてくれた兄。

 けれど私は、どこまでも優しすぎる兄を受け入れられなかった。


 私は兄を突き放し、家を飛び出した。そうして私を追いかけて飛び出してきた兄が、高速で迫ってきた鉄の塊に跳ね飛ばされた。

 私は、目の前で起こったことが信じられなかった。

 何が悪い夢を見ているだけなんじゃないのか。明日には目を覚まして、昨日までと変わらず兄は私に笑いかけてくれるんじゃないのか。

 そんな思考ばかりが、頭の中を渦巻いていた。


 「私のせいで、兄は車に轢かれました。私のせいで、兄は二度と走ることができなくなりました。私のせいで、兄は私に笑いかけてくれることがなくなりました。自業自得なのはわかっています。今更どれだけ謝ろうと、後悔しようと、兄が戻ってくることはない。私はその十字架を、背負い続けて生きていかなくてはいけない。それでもどうしても、私は兄のいた日々を、思い返してしまうのです」

 「お嬢さんは、お兄さんが嫌いだったんじゃないのかい?」


 おじいさんは、何かを確かめるように私に聞いてくる。

 「兄はいつも褒められて、私の分まで人からの期待を背負って、それでも負けずに生きていました。そんな兄を、私は妬ましいと思うと同時に、誇りにも思っていました。私にはないものを、全て持っていたから。私には、できないことだったから。だから、だから私は、──兄が大好きだったんです。どうしようもないほどに。けれど、そんな兄がいないのなら、私はもう、自分が何者かすらも分からない......。これから先を、どうやって生きていけばいいのかも分からないんです」


 「君は、君の思うがままに生きていけばいいさ。兄の分まで頑張るのもいいし、今まで通り自分を見失ったまま生きていくのもいい。あるいは、投げ出してしまうのも手かもしれないね」

 夢はとっくに、覚めている。

 私は、兄の幻想を捨てて、明日を生きなくてはならない。

 兄の明日を奪った代償に、私は兄の代わりに生きていかなくてはならない。

 これから辛いことだってあるだろう。今日みたいに、何度も兄を思い出すことがあるだろう。


 それでも私は、前を向かなくちゃいけない。それが私にできる全てなのだろうから。せめてもの償いなのだろうから。

 私はベンチから立ち上がる。

 「おじいさん、ありがとうございました。当分は独りでも歩けそうです」

 私がそう言うと、おじいさんはゆっくりと頷き微笑んだ。

 「あぁ、もう大丈夫そうだね。しかし、忘れてはいけないよ。君は決して独りじゃない。君を愛してくれている人は、探せば必ずどこかにいる。自分が勝手に人の愛情を決めつけていいものじゃない。......寒くなってきたね。そろそろ帰るとするよ」


 寒さはもう、感じなかった。

 私は前だけを向き、改札へ繋がる階段へと歩いていく。

 一歩一歩を踏みしめるように。

 決して、踏み外さないように。

 明日は何をしようか。冬にもなれば、クリスマスが近づいてくる。

 ケーキでも買って帰ろうか。お母さんと一緒に食べるのも、悪くないかもしれない。

 階段に足をかける前、私は立ち止まって先程まで座っていたベンチを振り返る。

 そこにはプルの開けられた缶コーヒーだけが置かれていた。


 私はもう、大丈夫だ。

 これから先もきっと。

 兄のことは忘れられないし、ずっと背負っていくことになる。

 それでも私は、独りじゃない。

 私が私を愛せばいい。

 胸を張って、私が好きだと言えるようになろう。

 私はその決意を胸に、階段を一つ登った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君と私と缶コーヒー 時燈 梶悟 @toto_Ma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画