第43話 カタツムリは震える
マイさんが一時帰国して4日経った。
その間、カリンさんは毎日部室に来た。僕と適当に駄弁ってから、僕の指を食べて、少しおしゃべりして帰る。平和な日々が続いていた。
「ポーカーを教えて欲しいです。あの時の貝被さんがとても素敵でしたので、同じようにやってみたいです。トランプは持って来ました」
「良いですよ、2人だけだと少し手間取るかも知れませんが」
カリンさんは役については把握していたので、ゲームの進行などを教えなければならない。チップが無いと教えるのが難しいので、僕は財布から何枚か小銭を机の上に重ねて置く。
僕がどこから教えたものかと考えを巡らせていると、教室のドアがコンコンとノックされ、誰かが呼ぶ声が聞こえた。来客のようだ。
僕が立ち上がり対応しようとすると、カリンさんが手振りで僕に静止を促す。
「私が対応します。貝被さんは不在のふりをしてください」
僕が首を傾げてなぜかを訊いても、カリンさんは答えずにドアの方へ向かう。僕は言われた通りに声を出さずに、でもとりあえずカリンさんの後ろをついていく。
「どちら様ですか?」
「1年のジェーン・ドゥです。部活に興味があったので来ました」
声を聞いた瞬間、背筋に寒気が走った。
この声は、例のダマスターの1年女子だ。確か名前はベーゼブルー。この嫌な気配も間違い無い。
名前を偽ってまで、異文研に何の用だ?
もしかして、僕が目的なのか?
カリンさんが振り向いて、僕と目が合う。多分僕の表情を見て察したんだろう。カリンさんが首を振るので、僕も首を振って拒否の意を示す。
「申し訳ありませんが打ち合わせ中のため今日はお引き取りください」
「この間も同じようなことを言われたんですけど」
その時は違う名を名乗っていたくせによく言う。
「それに、その声はテュロス先輩ですよね」
相手はカリンさんを知ってるみたいだ。ダマスターはこの学校にマイさん、カリンさん、そして扉の向こうの彼女しか在籍していない。知っているのも無理はないのかもしれない。
「自分たちだけ楽しんでずるいですよ。見ましたよ、運動会の記録。私も混ぜてくださいよ」
その言葉を聞いて、それを見てしまった瞬間、身体中を虫が這い上がるかのような怖気を感じて、僕は思わず座り込んだ。立っていることが出来なかった。膝がガクガクと笑って、抜けたまま力が入らない。ここにいたくない。僕は必死でドアから離れようとする。でも腕も自由に動かせなくて、その場で足も腕も空回りしてしまう。
カリンさんは僕が無様に怯える姿を見た後顔を顰めて、扉に向かって問答を続ける。
「お引き取りください」
「いるのは分かってるんですよ」
「お引き取りください」
「君も女の子が多い方が嬉しいでしょ?開けてよ」
「お引き取りください」
「食べられるのが好きなんでしょ?私が満足させてあげるよ?」
「お引き取りください」
カリンさんの4回目の拒否で、嫌な気配が遠ざかっていった。
僕はドアから離れた窓際で座り込んで、膝を抱えてみっともなく震えていた。
「もう大丈夫ですよ」
カリンさんがしゃがみ込んで、僕に目線を合わせて言った。
僕は返事をすることが出来ない。あまりにも衝撃的で、怖くて呼吸をするので精一杯だ。
だって、ありえないものを見てしまったから。
僕が腰を抜かした時、ドアの隙間から、赤と黄色の2本の帯が部屋に侵入していた。
その帯は、教室の内鍵の辺りをずっとまさぐっていた。カリンさんが応対している間ずっと。まるで鍵を開けようとするかのように。
あれは感情のモヤだ。モヤが形になって、動き回っているんだ。持ち主の意思を表すかのように。
前回、彼女が訪れた時にも、あれと同じことが起きていたのだろうか。僕が気づいていなかっただけで。
ガチガチと歯がぶつかって音がなる。震えを止めるために手で押さえるけれど、それでも止まらない。
ダメだ、考えるな。考えれば考えるほど思考が恐怖に染まっていく。呼吸がうまく出来ない、不味い、一旦落ち着いて、吸って吐いてを同じリズムで繰り返すんだ。落ち着け、落ち着け、落ち……。
「大丈夫だから、落ち着いて。怖いのはもういないから、私が守るから。大丈夫だよ」
僕の体を何かが包んだ。カリンさんだ。
カリンさんの匂いがする。優しくて、甘い、良い匂いだ。
「私の呼吸に合わせて。吸って、吐いて。吸って、吐いて」
僕は考えることをやめて、ただ言われた通りにカリンさんに呼吸を合わせる。初めは上手く出来なかったけど、少しずつタイミングがあってきた。段々と心臓の鼓動も静かになっていく。
「吸って、吐いて……落ち着きましたか?」
大分落ち着いたけれど、まだ会話をするのは難しそうだ。声が裏返ってしまうだろう。僕は頷いて答える。するとカリンさんが僕から離れようと身を動かした。
反射的にカリンさんに抱きついてしまった。
そんなつもりはなかった。だけど、離れてほしくなくて、つい体が動いてしまった。
「……分かりました。もう少しこのまま、一緒にいましょうね」
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