第36話 カタツムリは訪れる
運動会翌日。
今日は振替休日で学校は休みになっている。
マイさんに、『運動会の打ち上げをするから2時くらいに私達の家に来て』と言われているので、僕はマイさんとカリンさんの家に向かっている。
前回泊まった時にレタスがなくて困ったので1玉持ち込むつもりだ。トラブルが起きた場合に、また泊まるようなことになったら、栄養不足で僕の体調が悪くなるかもしれないからだ。もちろんレタス以外にも母から手土産として菓子を預けられていた。レタスと合わせると結構な重量になるので、早く到着して楽になりたい。
『運動会の打ち上げ』とはいうけれど、実質はお食事会になるのは目に見えている。料理はもちろん僕だ。僕だけ食べれないのは納得がいかないが仕方がない。
高級マンションの入り口に到着したので、マイさんを呼び出す。
「はい、どちら様ですか?」
呼び出しに応じたのはカリンさんだった。
「こんにちは、貝被です」
「お疲れ様です。今開けますのでどうぞ」
自動扉が開いたので、中に入ってエレベーターに乗り込む。
最上階の70階まで、結構な時間がかかってエレベーターが昇っていく。こんなところに住んでいるのは、大金持ちの投資家とか、大企業の社長とかそういった富裕層だけだと思っていた。まさか女子中学生が最上階でルームシェアをしているとは誰も思わないだろう。聞いてみればカリンさんもマイさんの親族だけあって結構なお金持ちのお嬢様みたいだし、一般的なサラリーマンの家庭で育った僕としては少し気後れしてしまう。
エレベーターを降りてから一本しかない直通の廊下を進むと、どこかの重要施設の、機密エリアへの入り口みたいな扉があるので、設置された呼び鈴を鳴らす。少ししてから、中から扉が開かれてカリンさんが顔を出した。
「どうぞお入りください」
中に入って、先導するカリンさんに従ってリビングへと向かう。僕が知っているリビングとはかけ離れた部屋に案内される。ちなみに似たような部屋があと3つあって、使っていないらしい。
「これ、手土産です。マイさんは?」
「わざわざありがとうございます。いただきますね。お嬢様は今はシャワーを浴びています、少々お待ちください」
「何か、準備することはありますか?」
「もうある程度は出来ていましたので、大丈夫ですよ」
なんだ、何もする事が無いと、手持ち無沙汰だな。
そういえば、カリンさんと2人だけの状況っていうのは初めてだ。いつも共通の知り合いのマイさんがいたけど、2人だけだとまだ少し気まずい。昨日ずっと手を繋いでいたからある程度距離は縮まってはいるけれど。
何か会話しないと間がもたない。
「そういえば、昨日は美味しかったですか?」
言ってから、失言に気づいた。間を持たせることだけ考えていたせいで、バカな質問をしてしまった。
「昨日というと、あの、あなたの指のこと、ですよね?」
拾われてしまった。もう誤魔化せない。
「あの後、僕は気を失ってしまいましたし、その、マイさん以外の人に食べられるのは初めてだったので」
「あの時は失礼いたしました。その、どうしても、美味しくて、口にしたくなってしまって……」
崖の上の時のイベントでは、舐める必要全くなかったですもんね。完全に欲望丸出しでしたよね、カリンさん。
普段は真面目で、冷静な印象なのに。いきなりマイさんと一緒に僕の指を舐め始めたのは驚きましたよ。
「それに、その、許可もいただいていないのに、食べてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
カリンさんが僕に深々と頭を下げる。
僕は食べられることに慣れているから良いけれど、あれは正直言って良く無いと思う。そこに関しては少し文句を言った方がいいかもしれない。
「食べられたことは、まあこの際しょうがないと思っています。横で遠慮せずに食べ始めた人がいるなら自分も。そう思われても仕方がないでしょうから。ダマスターの方がスラグから受ける影響みたいなものは僕には分かりませんし」
なんか誘惑するフェロモンでも出てるのかもしれないしね。
「でも、もし僕以外だったら、カリンさんの人生が終わっていたかもしれないので、そこに関しては自重してもらいたいです。何より、マイさんのストッパーになってくれると、僕は思っていたので……」
だから少し、失望しました。
カリンさんが、涙を潤ませて、今にも泣きそうな顔をする。可哀想だけど、そのくらいじゃないと困るのだ。暴走するマイさんを止めてくれる人が欲しい。結局僕は非力な被捕食者でしか無いので、いざという時にマイさんを止められない。今回カメラの前で僕を食べ始めたマイさんを目の当たりにして改めて思う。ダマスターは食欲が強すぎる。理性的じゃ無い。
「でも、食べられたからには感想が聞きたいんですよ、どうでした?僕は美味しかったですか?」
もう十分反省してくれたと思うので、にこやかに軽い調子で尋ねる。いつまでも湿っぽい空気で、そのまま打ち上げに入るのも嫌なので、ここからは場の雰囲気を良くしたい。
カリンさんは後ろを向いて僕に顔を隠してから、多分涙を拭っている。その後振り返ってから言う。
「はい、とても、今まで食べたどんなものよりも、美味しかったです」
まだ多少無理はあるけれど、笑顔で言ってくれるので僕も嬉しくなる。
「ふふっ。それは良かったです。でも、マイさんもそうやって僕をベタ褒めするんですけど、どんな味なのかは具体的に聞いてないんですよね、教えてもらえますか?」
味が濃いとか、コクがあるとか、何に似ているとか。そういう意見が聞きたい。
「そうですね、味は無いんですよ。実際のところは」
「味が無い?味が無いのに、美味しいんですか?」
どういうことだろう。
「3日間、飲まず食わずの限界状態になってから、喉越しの良い水を口にしたような感じでしょうか?飲み込むたびにそれが波のようにやってきました。表現が難しいですね。味というより、精神の満足度に影響を与えている感じです」
「それってどちらかというと麻薬に近いんじゃ……」
マイさんがおかしくなるのも無理はない……のか?
「お腹が膨れるのは勿論なのですが、脳が満足するという点で、同じものかもしれません」
困ったような顔をしているけれど、本当にそれってまずいんじゃないだろうか。
マイさんも、カリンさんも薬漬けの依存症患者みたいになっちゃうのは、正直怖い。健全に2人とは付き合っていきたいんだけど。
「依存症とか……」
「大丈夫……だと思います、多分」
目を逸らさないで下さい。自信が無さそうですよ?
少し試してみようか。
昨日のことを反省した、僕が想像しているまともな人なら、僕がここで誘いをかけても断れるはずだ。
「カリンさん、マイさんが来るまでまだ時間がありますよね?」
カリンさんが時計を見てから、頷く。
「昨日カリンさんは特殊な状況で僕を食べたわけですから、味が分からなかったのかもしれません。普通食べ物は、味が有るものです。そうですよね?」
「確かに、普通の状況ではなかったですね」
「僕はマイさんに喜んで欲しいので、僕自身の味を良くしたいんです。でも僕だけでは確かめようが無いですし、マイさんも僕に気を遣って本当のことを言えないかもしれません」
これで察したかな。
「なので、僕の体調の変化や食生活が、僕の味にどういう変化をもたらすのか、カリンさんに調査協力して欲しいんです。どうでしょうか?」
僕は手を差し出す。
誘惑を断れるだろうか、カリンさんは僕が想像する理知的な人だろうか。
「すみません、私には……」
「カリンさん、マイさんは、どうせカリンさんに僕を食べるように提案しますよ、夏休みになれば毎日だって、僕はカリンさんに食べられるでしょうね。それに今日だって、どうせ食事会になります。その前にちょっと味見をしたって、なんの問題もないと思うんです。カリンさんは今後も含めて、味見の結果を僕に教えてくれれば良い。マイさんには内緒でね」
内緒にする必要は全くないけど面白そうだからそういうことにしよう。
さあ、ここまでお膳立てすれば断れないだろう。あれ?僕はなんでカリンさんを誘ってるんだっけ?
「……では、少しだけいただいてもよろしいですか?」
⬛︎⬛︎⬛︎
「時間が無いので親指だけですよ」
僕が椅子に座って、カリンさんが床に膝立ちになる。マイさんとのいつもの食事スタイルだ。僕は結構これが気に入っている。ペットに餌を与えているようで、マイさんが嬉しそうな顔で僕を見上げるのが可愛いからだ。
今日はカリンさんがペットの役割を担っている。
僕の左手を手に取り、カリンさんがおずおずと、親指を見やる。まだ抵抗があるようだ。主人の不在に不貞を働く侍女みたいでとても良い。迷っているみたいなので背中を押してあげよう。
「早くしないとマイさんが来ちゃいますよ」
僕の言葉で覚悟が決まったのだろう。親指がゆっくりと口に含まれる。
ちゅぷ、という音がして、親指がカリンさんの唾液に塗れる。必要が有るのか、無いのかは分からないが、口内でカリンさんが僕の指を舌で舐め回す。
「いつもそうなんですけど、食べられている間は僕は暇になってしまうので、色々話したりします。でもカリンさんは食べるのに集中してもらって良いですからね」
カリンさんと目が合う。指を口に含んだまま、こくこくと頷く。
「昨日はずっと、カリンさんと手を繋いでいましたよね」
チク、というわずかな痛みが親指に走る。追って、とぷとぷと消化液が流し込まれる。
「あんなに長い時間、女性と手を繋いでいたのは初めてでした。マイさんとだって、あんなに長く手を繋いだことはないですよ。今後もないと思います。それくらい、一緒にいましたもんね」
消化液が、十分流し込まれたようだ。ふやけて、柔らかくなっているのが分かる。カリンさんは感触を確かめるように、あむあむと甘噛みする。
「カリンさんは、すごい綺麗だし、魅力的な女性だから彼氏くらいいるでしょうね、手を繋ぐことくらい、どうってことなかったんでしょう」
先端を少しずつ、カリカリとかじっていく。
「でも僕はすごいドキドキして、ゲームに集中するのが大変でした。手汗をたくさんかいたと思うし、カリンさんには迷惑でしたよね」
食べている最中だというのに、ふるふると首を振って、僕の独り言を否定する。
「ありがとうございます。カリンさんは優しいですね」
僕は空いた右手で、カリンさんの頭を撫でる。上目遣いで僕を見ながら、カリンさんは頬を染める。とても可愛らしい。
こりこり、ごくん。カリンさんが僕の指を少しずつかじり、飲み込む。
「美味しいですか?」
こくりと頷く。少し反応が遅い。目を細くして、まるで夢見心地のような表情をしている。
「手を繋いでいたのは、今カリンさんが食べている左手です」
こりこりという音が止まる。
「体の一部が無くなるって、どういう気持ちになるか教えてあげますね。あ、遠慮しないで進めてください」
こりこりのペースが先程と比べて遅くなった。遠慮しているのかな?
「喪失感は、正直辛いです。無くなった部分を見ると、不安が押し寄せてきます。あ、止めないで続けてください」
カリンさんは泣いていた。泣きながら、僕を食べ続ける。食べさせる。
「このまま、僕は全部食べられてしまうんじゃないかって、怖くて、気絶しちゃうこともあります」
嘘です。気持ちよくて気絶してます。
「目が覚めてすぐは寝ぼけているから、ああ、ここはもしかしてお腹の中かな。僕は全部食べられちゃったんじゃないかって思うんです」
号泣しながら、僕を食べ続けるカリンさん。
「美味しいですか?」
カリンさんはこくりと頷く。
「素直で、綺麗で、泣き顔も可愛いですね」
震えながらも、僕の指を食べ進める。
やがて、ごくんと喉がなって、カリンさんが僕の手から口を離す。
僕は親指があったはずの箇所を見ながら呟く。
「無くなっちゃった」
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