第29話 カタツムリは朝帰りする
レタスが足りない。
朝ごはんをもらっている立場で、偉そうなことを言える訳もないので、僕は黙ってトーストを齧る。
ちなみに僕の隣に座っているマイさんは今、僕を食べたいと考えている。モヤを見るまでもなく、顔で分かる。チラチラと何度も僕を盗み見ている。
そして僕の向かいに座っているシマカリンさんもまた、僕を食べたいと考えている。僕にはバレバレだ。黄色いモヤが出ている。
3人ともが、朝食に不満を感じているのは面白い状況だ。
僕が欲しいレタスは手に入らないが、彼女たちが欲しい僕の肉は手に入る。2人はお腹いっぱいで、僕だけ食べられない。うーん、理不尽だ。2人にも我慢してもらおう。
不思議なのは、マイさんはともかく、シマカリンさんにも恐怖を感じていないことだ。食べられてもいいな、と思っている僕がいる。これをマイさんにいうとめちゃくちゃ喜んで変態プレイをシマカリンさんに提案しそうだ。
「ごちそうさまでした」
食器を片付けようと席を立ち上がると、シマカリンさんに流しに置いておくように指示された。言われた通りにしてテーブルに戻ると、マイさんから声をかけられる。
「ヌルくんは、一度家に戻るんだよね?」
部屋に設置された時計を確認すると、現在時刻は7時。今出れば、一度家に帰ってからでも授業が始まる時間には間に合うだろう。教材も今日の分を準備していないし、出来ればシャワーを浴びたい。
「シャワーを浴びたいので」
「お風呂ならもう入ったよ」
「は?」
「ヌルくんが言ったんでしょ、『マイさんとお風呂に入りたい』って」
僕がそんな欲望丸出しなことを言うわけが無い。マイさんじゃあるまいし。
「シマカリンさん、本当ですか?」
「事実です、多少お嬢様が誘導していましたが。私は止めましたがお嬢様が強引に振り払って彼氏さんを連れて行きました」
ていうことは、僕はマイさんの手によって全裸に剥かれて、同じく全裸のマイさんと浴槽に入ったっていうことか。
「マイさん自重しなよ、いつか捕まるよ」
幼児の心を弄んで、お風呂場に誘拐するなんて事案ですよ。
「じゃあカリンちゃんとが良かったの?ヌルくんのえっち」
「次からはカリンちゃんと入ります、襲われる心配をしなくていいし」
シマカリンさんが飲みかけのコーヒーを盛大に吹き出してテーブルの上がとっ散らかる。
「けほっ、何を馬鹿なことを。それにカリンちゃんって……」
「昨日はカリンさん呼びを許してたし別にいいじゃん。それより2人だけはダメだよ、私も入るから」
カリンさんで呼んでたんだね、じゃあさん付けでいこう。
「カリンさんが一緒なら構いません、見張りがいれば心強いです」
「なぜ、いちいち私を巻き込もうとするんですか……」
「裏切られるとマイさんが社会的に死ぬし、ストッパーが欲しいです。あとマイさんが喜ぶから」
「カリンちゃんに時間がないから、あとヌルくんが喜ぶから」
「なんなんですかこの変態たちは……」
カリンさん成人には見えないもんね、2齢にはなっていると思うけど、15歳までにならなきゃだから、マイさん以上にギリギリだよね。
「実際問題、カリンちゃん残り時間がないよね?私よりカリンちゃん優先で夏休みはシフトを組もう。カリンちゃん、ヌルくんに大人にしてもらおうね。たぎるよ」
マイさんがキメ顔で親指を立てる。
「……はぁ、もうどうでも、好きにして下さい」
やったぜ、これで変態の被害が分散される!あれ、でもマイさんの従姉妹ってことはカリンさんも変態の血族ってことじゃ……。じゃあ、変態が増えて、実質僕の負担が増えるだけ?
嫌な予感が脳裏をかすめたけれどもう時間だし、そろそろここを出なきゃ間に合わなくなってしまう。
2人に挨拶して僕は足早に自宅へと帰るのだった。
◽️◽️◽️
普段は通らない道を歩く。
少し混雑しているが、駅中を通ったほうがショートカット出来る。そちらへと足を進める。
通勤、通学ラッシュで混み合う時間まであと少しかかるので、今のうちなら楽に通れると踏んだ。案の定巻き込まれることもなく順調に進んだ。
その途中で見慣れた人影を見つけた。
口牙さんだった。
足を止めてしまった。僕は口牙さんから目を離せなかった。
既に別れは告げた。今更話をすることは出来ない。彼は覚悟を持って僕に別れを告げたし、僕も覚悟を持って受け入れた。
それでも僕は彼に報告したいことが山ほどあった。
恋人が出来ました。もうすぐ大人になれるかもしれません。
変なモヤが見えるんです。どうしたらいいでしょうか。
他にもいくらだって悩みはある。
でももう相談することは出来ない。
彼がこちらを振り向いた。僕と目が合う。彼も立ち止まった。
目を見開いて驚いている。こんな時間に僕と出会うなんて思いもしなかったんだろう。僕だってそうだ。心の準備が出来ていなかった。
どうしたいんだろう僕は。このまま何事もなかったように無視して立ち去るべきなんだろうか。
それならなんで立ち止まったんだ。
やり直したいんじゃないのか。またあの部屋でお菓子をご馳走になって、美味しい紅茶を飲んで、口牙さんは僕の血を飲む。僕は悩みを相談して、口牙さんが答える。
そんな何気ない日常が戻ってくるなら僕は……。
僕が悩んでいると、口牙さんが顔を逸らした。そのまま僕に背を向けて、別方向に歩き出していく。
僕はその背中を追うことが出来なかった。
その背中には、不安を表す黒いモヤがこびりついていた。
◽️◽️◽️
「ただいま、帰ったよ」
家に帰ったのを告げるなり、リビングからドタドタと足音が聞こえる。
「おにーちゃんおかえり、マイさんのお家どーだった?」
「超高級マンション、最上階、凄かった」
「おにーちゃんおかえり、マイさんの体、どーだった?」
「超気持ちよかった、青天井、凄かった」
事実無根だし、ノリに合わせちゃったけど、今更だしもうどうでもいいや。
「おかーさんおにーちゃん帰ってきたよー」
靴を脱いで、部屋に戻って手早く着替えようと思ったけれど、今度は母さんが絡んできた。
「おかえりなさい、夕飯は赤飯でいいかしら?」
「僕はそんなものより今、レタスが食べたい、出しといて」
母さんは終わった。最後は父さんか?
「塗道、避妊はちゃんとしているんだよな、大丈夫だよな!?」
「お宅の息子はまだ息子にもなれていないから心配しなくて良いよ」
はい終わり。部屋へいこう。
着替えて、教材関係を手早く準備する。シャワーはマイさんのとこで昨日お風呂に入ったという衝撃の事実が判明していたので別にいい。記憶が無いのが悔しくて歯茎から血が滲む思いだけれど、どうせそのうち似たようなシチュエーションは起こる。
ある程度準備が終わったのでレタスを食べに下がろうかなと思っていると、つむりが走ってくる音が聞こえた。足音で下手人が分かる。そもそも足音が鳴るのはこの家に3人しかいないし、室内で走るような無作法者はつむりしかいないので犯人は明確だ。
「おにーちゃんあけて」
「はい、なに?」
「今思い出したから報告に来たの、ローちゃんのこと」
それって1ヶ月近く前の話だよね。遅すぎない?
「ローちゃんと仲直りできたよ、おにーちゃんのおかげです。ありがとうございました!」
「そっか、良かったな」
ガシガシと頭を撫でてやるとうざったそうな顔をしながら口を開く。
「それでね、昨日喧嘩したの」
時系列がごっちゃになるのでやめて欲しい。
「はいはい、下に行ってから聞いてやるよ、行くよ」
初めての朝帰りは、日常になんの変化も及ぼさず、今日も平和な1日が始まるのだった。
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