第11話 カタツムリは恐れる
なんだ、これは。
E組の教室の前で二の足を踏む。中に入るのが、なんとなく嫌だ。
入れないことはない、入れないことはないんだけど、なんというか、抵抗がある。
例えるなら、全然掃除していない、悪臭立ち込める汚い公衆トイレの汚物で汚れた便座で用を足せと言われている感じ。避けれるなら避けたい。ていうか嫌だ。
貝剝先輩が言っていたのは間違っていなかった。ダマスター人に対する嫌悪感が、僕の体の動きを鈍くさせる。緊張から右腕と右脚を同時に前に出してしまうように、体がぎこちなくなる。
僕は自由の利かない体をなんとか動かして、その場を去った。本人の姿も見ずに。
■■■
先輩の前では、昼休みのときのような緊張は発生しない。
放課後の異文研で、先輩と他愛のない会話を交わす。僕たちの関係は、何も捕食者と被捕食者だけではない。同じ学校の先輩後輩という、健全な関係性だって持ち合わせている。
「それでね、健康診断の結果だったんだけど、去年と比べて身長が1センチ伸びてたんだよ!4年間変化なしだったのが、1センチも!」
嬉しさを僕に伝えたいんだろう。一生懸命に身振り手振りしている先輩は、すごく可愛い。
「さすがに1センチ程度は誤差ですよ」
気のない返事をする。先輩に対しては、意地悪な塩対応が癖になってきた。
「誤差じゃないよ!たった5日間だけど、効果が出てきてるんだよこれは!」
「マイナネルータ先輩は、一気一憂しすぎというか落ち着きがないですね」
僕の揶揄いを交えた返事を聞いて、先輩が反論するかと思ったけれど、それには答えずに、先輩は渋い顔をしながら提案してきた。
「……その、マイナネルータっていうの、そろそろやめて欲しいな」
「テュロス先輩は、こっちの方が好みですか?」
「そうじゃなくてっ!マイって、呼んで欲しいな。みんなそう呼ぶし」
マイ先輩。マイさん。うん、呼びやすくていいね。でも意地悪したくなってしまうんだ。僕は。
身を乗り出して、椅子に座った先輩の肩に手を置いて、耳元で囁く。
「先輩は、僕にマイって呼ばれたいんだ?」
「ふぇ!いや、あの、その……」
黒い頬を真っ赤に染めて、先輩が恥ずかしがってまごついている。その姿を見て満足したので椅子に戻る。
「マイ先輩は、僕をなんて呼ぶんですか?」
僕が態度を急変させたのを見て先輩がぷんすか怒りながら叫ぶ。
「ヌルくん!揶揄わないで!」
照れているのも可愛いけれど、先輩は怒るのも可愛い。僕はもう一度先輩に近寄って、耳元で囁く。
「ヌルって、呼んでくれないんですか?」
先輩はまた頬を赤くしたけれど、今度は耐えきったようで、僕を反抗的な目で睨む。
「2回目は効かないよ」
へえ、そうきたか。それなら。
「じゃあ、マイって呼ぶことはもう2度と無いですね」
「……たまには、呼んでくれてもいいよ」
本当に可愛らしい人だ。僕はサディスティックじゃなかったはずなのに。
僕の言葉でいちいち表情を変えるこの人を見ていると、揶揄わずにはいられなくなる。やり甲斐を感じてしまう。
だけど、一度にやりすぎてもつまらない。時たまに、ここぞというときにやるから効果的なんだ。今日はこの辺にしておこう。僕の方から、多少強引だけど話題を変えてみよう。
「そういえば、僕はまだどの部活動に入るか決めてませんでした。都合がいいので、異文研に入ることにします」
うちの学校は部活動への所属が義務になっているらしい。担任の教師に早めに決めろと言われていた。やりたいことも無いし、異文研の活動内容は字面でしかわからないけれど、入っておこう。
「え、いいの?やった、これでぼっち研究会から2人に昇格だ!」
「それで結局のところ、活動内容はなんなんですか?入るのを決めてから聞くのもおかしな話ですけど」
「えっとね、『多様な種族の共同生活に伴い発生しうる、軋轢と誤解を防ぐための、各文化の認識、理解、および研究と周知』が活動内容です」
「長いですね」
「長いですよ」
つまり、互いの文化を知って、誤解をなくして、みんなに広めよう。ということでいいのだろうか。
「具体的な活動内容は何かあるんですか?文集を作るとか、文化祭で出し物をするとか」
「そうだね、例年だと部員の種族特性をインタビューして聞いてまとめたりとか、部員が少なかったり新規の種族がいなかったりした時は、部活外の人にインタビューしてまとめるし。まとめた内容は冊子にして配布するよ。場合によっては放送したり、文化祭のステージでインタビュー形式で種族の文化を紹介したりします」
割と真面目に活動しているようで驚いた。僕が入らなかったらどうするつもりだったんだろう。
「ヌルくんが入ってくれなかったら1人だから、ひたすら外部に聞き取りして、まとめてを繰り返す感じでやるしかなかったかな。全部で4件くらいは欲しいけど、とりあえず私とヌルくんで、スラグとダマスターの2件は確保できたよね。助かったよ」
「でも、実は僕、自分の種族のことあんまり詳しく無いんですよね」
「そこは、自分を見つめ直すいい機会だと思って、早めに取り組んでください」
おっしゃる通りです。自分の種族のことも知らないのに、他所の種族を調べるのはどこか話が違うもんね。
「文化祭はいつでしたっけ?」
「10月だから、あと5ヶ月くらいだね。夏休みまでにある程度取材を終えて、夏休みで纏めるのが理想的な予定かな。去年はギリギリだったから今年はそうならないようにしたいな」
計画的にやらないとあとが大変そうだ。テストとか運動会とかのイベントも控えているし、中学生活は小学校の時と比べて忙しくなりそうだ。
僕が今後の計画を頭の中で練っていると、先輩がおずおずと話しかけてくる。
「無事に部員になってもらえたところで、そろそろ……」
どうやら、我慢の限界のようだ。はらぺこマイ先輩への給餌の時間だ。
「お腹が空いて力が出ませんか?」
「……いじわる」
僕は椅子から立ち上がって、ベッドに腰掛ける。
マイさんも待っていましたと言わんばかりに、僕の前で膝立ちになって準備する。
部屋の鍵は閉めている。万が一のために。
カーテンの仕切りのところにも、机と椅子を置いてバリケードをしている。万が一の時の足止めだ。
僕たちは2人ともこれから行う行為が良く無いものだと十分に理解し、人目に隠れて、バレないように細心の注意を払っている。
「今日も、3本食べたいです」
マイさんが嘆願する。僕は断って、残念そうな、悲しそうな顔をするマイさんを夢想する。とても可愛い顔をしてくれるのだろう。でも、今回は素直に食べさせてあげよう。
「足りますか?明日は日曜日ですよ」
マイさんを見つめる。表情の変化は見逃せない。
「月曜日まで我慢できるんですか?」
マイさんの顔が強張る。気づいていなかったのかな。日曜日は学校は休みだ。
「明日も、食べさせて欲しい……です」
「日曜日に学校の先輩と会わなければいけない理由が、僕にはありません」
マイさんの表情がどんどん曇ってゆく。対して僕はできるだけ無表情を貫こうとするけれど、隠せているだろうか。さっきから、口角が上がりそうなのを堪えるせいで、ヒクヒクしているのがわかる。
「……ぅして」
「うん?」
「どうして、そんないじわるするの……?」
目にうっすらと涙を滲ませて、声色に乗せて、僕に問うマイさんは。
これ以上なく可愛くて、素敵で。僕の嗜虐心を煽る。
「泣きそうな先輩が、可愛らしいから。どうしても、意地悪したくなっちゃうんです。許してください」
「じゃあ、明日……」
「それは、ダメです。僕にだって予定があります」
「そんな……」「だから」
舞さんに被せるようにして、代わりを提案する。
「食い溜めしましょうか。それなら構いませんよ」
マイさんの目の前で、左手の5指を全て握って閉じる。
そして指を1本ずつカウントしながら開いていく。
「1本」
親指を開く。
「2本」
人差し指を開く。
「3本、4本、5本」
中指、薬指、小指。全て開く。
出来るだけ爽やかな笑顔でにっこりと、演出しながら、見せつける。
最後に手首をくるりと回して。飼い犬にお手を促すように。
「今日だけ、手首までなら1本。食べたいですか?」
マイさんの口からよだれが滴り、僕の左手を汚す。生暖かい液体は糸を引いて、僕の手のひらからこぼれ落ちる。
「食べ、食べさせてください」
許可を僕に求めながらも、マイさんは4本の腕を使って、既に僕の左腕を拘束している。僕がお預けしたとしても、関係ないと言わんばかりの勢いで。
「いいですよ、食べる前にちゃんと、挨拶しましょうね」
「うん、それじゃあ、いただきます」
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